<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom"><title>幕末島津研究室－Shusaku Yasukawa－</title><link href="https://www.yasukawa1953.net"></link><subtitle>幕末島津家の研究をしています。&#xA;史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談（オーラルヒストリー）」を紐解きながら・・・&#xA;歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。</subtitle><id>https://www.yasukawa1953.net</id><author><name>yasukawa1953</name></author><updated>2026-09-06T08:00:07+00:00</updated><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights><entry><title><![CDATA[創意軽視・伝統重視]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59196286/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/faa05ccb9fc21da1907d63cda4619e17_cdc63c81b20b37ca6e213ea9e0bdd27b.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59196286</id><summary><![CDATA[儒家思想　前回、アヘン戦争（1840～1842）で中国（清）軍がとったトンデモ戦法を紹介しましたが、中国はイギリス軍に完敗するまで、西洋文明など相手にしていませんでした。といっても、西洋の武力をまったく知らなかった訳ではありません。アヘン戦争のほぼ半世紀前には中国は西洋のすぐれた武器に触れていましたが、それを無視していたのです。天津社会科学院の呂万和教授はこのような話を紹介しています。一七九三年、マカートニー使節団が中国に来た時、その実力を見せびらかすため、贈り物の中に、モーゼル銃・速射銃などの武器および当時イギリス最大の軍艦の模型を入れた。これらの先進武器を見た時、乾隆帝も大変賞賛し、特に軍艦大砲についてはさらに詳細に下問した。乾隆は中英両国間の巨大な格差に気づかないはずはなく、これにより覚醒し、ヨーロッパの科学技術を真剣に学ぶべきではなかっただろうか。ところが乾隆は「天朝無所不有、従不貴奇巧」（「天朝にはないものはない、従来から奇巧なものも尊ばない」：原注）と言った。【呂万和『明治維新と中国』六興出版　東アジアのなかの日本歴史6】マカートニーはイギリスの外交官で、1793年（寛政5年、松平定信の「寛政の改革」のころ）に、中国に広く自由貿易を認めるよう要求するために派遣されたイギリス使節団の団長です。当時中国では広州を唯一の自由貿易港として商人間の貿易を認めていましたが、制約の多いものでした。イギリスはこれだけでは不十分として、通商条約を結ぼうとしたのです。清朝側は乾隆帝に直接面談するには皇帝への最敬礼である三跪九叩頭の礼をとることを要求したのですが、マカートニーはそれを拒絶し、乾隆帝の許可を得てイギリス流に片膝をつく姿勢で親書を奉呈しました。しかし、謁見しても通商については一切交渉できずに終わっています。このときに持参したのが、最新の武器や軍艦模型でした。乾隆帝はこれらに興味を示したものの、危機感を持つことはありませんでした。呂教授は「幕末日本と比べ、晩清中国の朝野の人士はこのような民族危機感が欠如しており、まして危機が既に目前に明白に見えていた時も漠然と見るのみで、動かなかった」と述べています。なぜ西洋の進んだ兵器を目にしても危機感を持たなかったのでしょうか。別の中国人学者の分析はこうです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-09-06T08:00:07+00:00</published><updated>2026-09-06T08:23:39+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>儒家思想</h3><p>　<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59175516" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>、アヘン戦争（1840～1842）で中国（清）軍がとったトンデモ戦法を紹介しましたが、中国はイギリス軍に完敗するまで、西洋文明など相手にしていませんでした。</p><p>といっても、西洋の武力をまったく知らなかった訳ではありません。</p><p>アヘン戦争のほぼ半世紀前には中国は西洋のすぐれた武器に触れていましたが、それを無視していたのです。</p><p>天津社会科学院の呂万和教授はこのような話を紹介しています。</p><blockquote>一七九三年、マカートニー使節団が中国に来た時、その実力を見せびらかすため、贈り物の中に、モーゼル銃・速射銃などの武器および当時イギリス最大の軍艦の模型を入れた。<br>これらの先進武器を見た時、乾隆帝も大変賞賛し、特に軍艦大砲についてはさらに詳細に下問した。<br>乾隆は中英両国間の巨大な格差に気づかないはずはなく、これにより覚醒し、ヨーロッパの科学技術を真剣に学ぶべきではなかっただろうか。<br>ところが乾隆は「天朝無所不有、従不貴奇巧」（「天朝にはないものはない、従来から奇巧なものも尊ばない」：原注）と言った。<br>【呂万和『明治維新と中国』六興出版　東アジアのなかの日本歴史6】</blockquote><p>マカートニーはイギリスの外交官で、1793年（寛政5年、松平定信の「寛政の改革」のころ）に、中国に広く自由貿易を認めるよう要求するために派遣されたイギリス使節団の団長です。</p><p>当時中国では広州を唯一の自由貿易港として商人間の貿易を認めていましたが、制約の多いものでした。</p><p>イギリスはこれだけでは不十分として、通商条約を結ぼうとしたのです。</p><p>清朝側は乾隆帝に直接面談するには皇帝への最敬礼である三跪九叩頭の礼をとることを要求したのですが、マカートニーはそれを拒絶し、乾隆帝の許可を得てイギリス流に片膝をつく姿勢で親書を奉呈しました。</p><p>しかし、謁見しても通商については一切交渉できずに終わっています。</p><p>このときに持参したのが、最新の武器や軍艦模型でした。</p><p>乾隆帝はこれらに興味を示したものの、危機感を持つことはありませんでした。</p><p>呂教授は「幕末日本と比べ、晩清中国の朝野の人士はこのような民族危機感が欠如しており、まして危機が既に目前に明白に見えていた時も漠然と見るのみで、動かなかった」と述べています。</p><p>なぜ西洋の進んだ兵器を目にしても危機感を持たなかったのでしょうか。</p><p>別の中国人学者の分析はこうです。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/faa05ccb9fc21da1907d63cda4619e17_cdc63c81b20b37ca6e213ea9e0bdd27b.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">乾隆皇帝朝服像（ウイキメディア・コモンズ）</h4><p><br></p><h3>儒教絶対の理由は科挙</h3><p>　日本近代史の研究者である北京師範大学の馬家駿教授は、アヘン戦争前における中国指導者層の考え方をこのように書いています。</p><blockquote>アヘン戦争が起こる前まで、中国の封建支配階級は、儒家思想を核心とする伝統的文化は宇宙を網羅でき、善美の極致を尽くしたものとみていた。<br>彼らは「天朝大国」を自任し、優越感の自己陶酔に陥り、経済・文化の立ち後れを認めないばかりか、反対に世界で中国のみが礼義（ママ）の邦、人類社会の手本であり、中国以外の「夷狄蛮貊（いてきばんばく：野蛮人ども）」には文化などあるはずがないと思い込んでいた。<br>【馬家駿・湯重南『日中近代化の比較』六興出版　東アジアのなかの日本歴史8】</blockquote><p>馬教授のいう儒家思想の特徴はこの4点です。</p><p>①倫理重視・科学軽視</p><p>②技術重視・生産軽視</p><p>③伝統重視・創意軽視</p><p>④保守重視・改革軽視</p><p>馬教授は、この儒家思想こそが「社会の進歩と発展をひどく阻害した」と断じています。</p><p>日本で儒教がひろまったのは江戸時代で、せいぜい200年間程度ですが、中国では儒教が絶対的な権威として確立していました。</p><p>儒教は、漢の武帝（在位はBC141～87）が「百家しりぞけ、独り儒術尊し」という文化政策をとって以来、中国の主流思想となりました。</p><p>さらに、官吏採用試験「科挙」の科目が儒教（＋文章力）のみだったことが、それに拍車をかけています。</p><p>日本の支配者階級は家柄で固定していましたから儒教は教養の一部でしたが、中国では出世の条件が家柄ではなく科挙に合格することでした。</p><p>そのために中国の男性（女性は受験できない）は、幼い頃から死にものぐるいで儒教を勉強したのです。</p><p>中国で科挙が始まったのは「随」の時代（587年）でした。</p><p>その後さまざまな王朝が交替し、異民族に征服されたときも何度かあったにもかかわらず、科挙の制度は続きました。</p><p>科挙の最後の試験が行なわれたのは「清」の末期（1905年）ですから、1300年以上続いたわけです。</p><p>このように長い年月にわたり儒教だけを学び続けたことで、中国では儒教が絶対的な権威となりました。</p><p>その結果、新しい武器を軽ろんじ（創意軽視）、昔からの武器や戦法に固執（伝統重視）して、イギリス軍に大敗したのです。</p><p><br></p><h3>旧武器は中国に売却すればよい</h3><p>創意軽視・伝統重視という中国人の特性を利用しようとしたのが、島津斉彬でした。</p><p>中国と交易のある琉球を経由して、薩摩藩の旧式武器を清に売却し、その代金で近代兵器を購入しようと考えたのです。</p><p>琉球行きを命じられた市来四郎は、斉彬から受けた指示をこう語っています。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、句読点を補っています）</p><blockquote>渡琉前、種々御沙汰の中に、清国も内外の難題に苦しみしより、近年兵備も手を付け候様子に聞こえたり。<br>然れども清人は頑固にして、未だ西洋の兵式を用いざる由。<br>依って此方にある古制の大小砲無用のものは売渡す都合を琉人へ内諭し、私（市来）にも商人に錯（まじ）り渡唐し、売込みは素より、天津北京上海広東辺の諸所に至り、外夷の形況をも見聞きすべし。<br>古制の大小砲或は燧石（すいせき：ひうちいし）銃、火縄銃、或は古法の野戦砲はすべて売払い、新式を製する方にすべし、之を地金にしても益なしとの御事なり。<br>【「琉球渡唐商人共へ御内示、清国ヘ大小砲銃等売込マシムベキ旨御内命ニツキ、琉商人ニ錯リ渡唐スベシトノ御内命」『島津斉彬言行録』岩波文庫】</blockquote><p>「清人は頑固だから、いまだに西洋の兵式（武器や戦術を含む軍隊のシステム）を用いない」という斉彬の見解は、儒家思想から脱却できない清国の実情を見抜いています。</p><p>そこに着目して、旧式武器を清国に売り、その代金で最新兵器を手に入れようと考えたのです。</p><p>残念ながら、斉彬の急死によって、この計画は実現できませんでした。</p><p>とはいえ、まだ鎖国が続いている中でこのような考えを持ち、実行しようとした人物は斉彬だけでしょう。</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[アヘン戦争、中国（清）軍のトンデモ作戦]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59175516/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/f4aaf3f0164e38c1c2c3f15978ca8156_d1b1ed048773ce8f8d4fcc6bbd48494a.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59175516</id><summary><![CDATA[敗戦ショック　1842年（天保13年）、アジア最強といわれていた中国（清）が、アヘン戦争でイギリスに完敗したという情報は、日本の指導者たちに大きな衝撃をあたえました。というのも、周囲の国を東夷・北狄・南蛮・西戎と呼んでさげすみ、みずからは中華と称していたアジアの大国が、西洋の小国にあっけなく敗れるとは思っていなかったからです。当時まだ薩摩藩の世子（世継ぎ）だった島津斉彬は、この戦争に関する情報をまとめて『アヘン戦争聞書』（現在は尚古集成館が所蔵）を書いていますが、斉彬に限らず、日本の知識人はこぞって情報収集につとめ、イギリスの勝因（もしくは中国の敗因）を調べました。主な勝因は優秀な武器や戦法でしたが、それだけではありません。中国の敗因には、当時の日本でもバカにされるような、とんでもないものもありました。今回はそれをご紹介します。まずは道光帝の信任厚かった楊芳将軍の作戦から。馬桶陣アヘン戦争は1840年に勃発し、イギリス軍は広東への大規模な侵攻を開始しました。1841年春、清の第8代皇帝道光帝は戦闘経験豊富なベテラン将軍の楊芳を広州へ送り、イギリス軍の侵攻に対抗するように命じます。楊芳が広東に到着すると地元の官吏や庶民がこの有名な将軍を大歓迎し、まるで「万里の長城」がやってきたかのように安心したそうです。 楊芳は戦場を視察して、イギリス軍のよく訓練された動きを目の当たりにし、さらに彼らの砲撃の精度と破壊力に驚きました。陸上にある清軍の砲台はイギリス軍艦に当てることすらできないのに、イギリス艦隊の大砲は清軍の陣地に的確に命中して被害を与えています。それは何故なのか？よく考えた末、楊芳はこういう結論に達しました。「我々は地上にいて、夷人は海にいる。海上は波で不安定なのに、夷人は砲弾を正確に命中させられる。だが、揺れない地上にいる我々の砲弾は当たらない。これは夷人が『邪術』（邪悪な魔術）を使っているからに違いない！」そこで楊芳は「悪霊を砕く」方法を考え出しました。それは汚いものを使って敵の邪術を破るという作戦です。彼は馬桶（マートン：女性用便器、おまる）を集めて排泄物で満たし、さらに無数のいかだを用意させました。そうして糞尿で満たされた便器をいかだの上に置いて、イギリス軍を待ち受けます。この便器いかだで、イギリス軍の邪術を打ち破ろうというのです。楊芳はこの作戦を「馬桶陣」と名付けました。イギリス軍が近づくと、大砲が鳴り響き、いかだが一列に並び、その上の便器はすべてイギリスの軍艦の方に向けられていました。結果は予想通りで、この「トイレ陣形」はイギリス艦の強力な大砲には効果がないことがただちに判明します。戦場には火薬の匂いと強烈な糞臭がたちこめ、混乱の中で壊滅的な敗北を喫した楊芳は呆然となり、戦いを放棄して、賠償と和平の交渉に入りました。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-08-30T08:00:38+00:00</published><updated>2026-08-30T08:00:41+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>敗戦ショック</h3><p>　1842年（天保13年）、アジア最強といわれていた中国（清）が、アヘン戦争でイギリスに完敗したという情報は、日本の指導者たちに大きな衝撃をあたえました。</p><p>というのも、周囲の国を東夷・北狄・南蛮・西戎と呼んでさげすみ、みずからは中華と称していたアジアの大国が、西洋の小国にあっけなく敗れるとは思っていなかったからです。</p><p>当時まだ薩摩藩の世子（世継ぎ）だった島津斉彬は、この戦争に関する情報をまとめて『アヘン戦争聞書』（現在は尚古集成館が所蔵）を書いていますが、斉彬に限らず、日本の知識人はこぞって情報収集につとめ、イギリスの勝因（もしくは中国の敗因）を調べました。</p><p>主な勝因は優秀な武器や戦法でしたが、それだけではありません。</p><p>中国の敗因には、当時の日本でもバカにされるような、とんでもないものもありました。</p><p>今回はそれをご紹介します。</p><p>まずは道光帝の信任厚かった楊芳将軍の作戦から。</p><p><br></p><h3>馬桶陣</h3><p>アヘン戦争は1840年に勃発し、イギリス軍は広東への大規模な侵攻を開始しました。</p><p>1841年春、清の第8代皇帝道光帝は戦闘経験豊富なベテラン将軍の楊芳を広州へ送り、イギリス軍の侵攻に対抗するように命じます。</p><p>楊芳が広東に到着すると地元の官吏や庶民がこの有名な将軍を大歓迎し、まるで「万里の長城」がやってきたかのように安心したそうです。&nbsp;</p><p>楊芳は戦場を視察して、イギリス軍のよく訓練された動きを目の当たりにし、さらに彼らの砲撃の精度と破壊力に驚きました。</p><p>陸上にある清軍の砲台はイギリス軍艦に当てることすらできないのに、イギリス艦隊の大砲は清軍の陣地に的確に命中して被害を与えています。</p><p>それは何故なのか？</p><p>よく考えた末、楊芳はこういう結論に達しました。</p><p>「我々は地上にいて、夷人は海にいる。</p><p>海上は波で不安定なのに、夷人は砲弾を正確に命中させられる。</p><p>だが、揺れない地上にいる我々の砲弾は当たらない。</p><p>これは夷人が『邪術』（邪悪な魔術）を使っているからに違いない！」</p><p>そこで楊芳は「悪霊を砕く」方法を考え出しました。</p><p>それは汚いものを使って敵の邪術を破るという作戦です。</p><p>彼は馬桶（マートン：女性用便器、おまる）を集めて排泄物で満たし、さらに無数のいかだを用意させました。</p><p>そうして糞尿で満たされた便器をいかだの上に置いて、イギリス軍を待ち受けます。</p><p>この便器いかだで、イギリス軍の邪術を打ち破ろうというのです。</p><p>楊芳はこの作戦を「馬桶陣」と名付けました。</p><p>イギリス軍が近づくと、大砲が鳴り響き、いかだが一列に並び、その上の便器はすべてイギリスの軍艦の方に向けられていました。</p><p>結果は予想通りで、この「トイレ陣形」はイギリス艦の強力な大砲には効果がないことがただちに判明します。</p><p>戦場には火薬の匂いと強烈な糞臭がたちこめ、混乱の中で壊滅的な敗北を喫した楊芳は呆然となり、戦いを放棄して、賠償と和平の交渉に入りました。</p><p><br></p>
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			<h4 style="text-align: center;">アヘン戦争（Ｅ．ダンカン筆：ウイキメディア・コモンズ）</h4><p><br></p><h3>仮面兵</h3><p>杭州と嘉興の道台（司令官）宋国経の戦法は「仮面兵」です。</p><p>イギリス軍が浙江に到達したとき、宋国経司令官は正攻法では勝てないと考え、特殊作戦を計画します。</p><p>それは&nbsp;有名な宋の将軍地清が、銅製の仮面をかぶり髪をほどいた恐ろしい姿となって、敵を破ったという故事にならうものでした。</p><p>彼は数百枚の紙製仮面を準備し、300人以上の地方民兵を募集しました。</p><p>この民兵たちに仮面をかぶらせて、神鬼を装った「特殊部隊」を編制し、秘密を守るため政府の事務所内で昼夜を問わず演習させました。</p><p>イギリス軍が侵攻してきた時、この仮面をかぶった300人以上の民兵が刀や鎗を振りかざして、踊りながらイギリス軍に向っていきましたが、たちまちイギリス兵の砲火にあい、「ワッ」という叫び声を上げて一目散に逃走しました。</p><p>ちなみにイギリス軍の侵攻は真っ昼間に行なわれたので、怖がらせることも出来なかったようです。</p><p><br></p><h3>おみくじ作戦</h3><p>三人目は道光帝の甥であり、吏部尚書の職にあった奕経（えきけい）です。</p><p>1841年10月、道光帝は彼を「揚威将軍」に任命し、浙江に派遣してイギリス軍への反撃を命じました。</p><p>総司令官となった奕経は、浙江に向う途中、杭州の関帝廟（武神関羽を祀る廟）で勝利を占うためおみくじを引くと「虎」の棒がでて、そこに「虎頭人は平安を保つ」と書かれてありました。</p><p>喜んだ奕経は「虎」によって敵を倒すことを決意します。</p><p>虎は寅と同じなので、寅年の寅月、寅日、寅時、すなわち1842年（壬寅）、陰暦正月（寅）、29日（戊寅）、午前4時（寅時）に総攻撃を決行することに定めました。</p><p>さらに完璧を期すため、もう一つの「虎」として寅年生まれの将軍段永甫を主将（指揮官）に任命しました。</p><p>こうして「五虎」（年・月・日・時・主将）をそろえたので、イギリス軍に必ず勝利できると信じたのです。</p><p>結果は‥‥、言わずとも知れています。</p><p>中国文化を信奉していた日本の漢学者たちは、中国のこのような戦い方を知って、敗戦以上に大きな衝撃をうけたことでしょう。</p><p>それは中華文明への失望であり、私はこれが明治時代の特色である西洋文明への極端なシフトの一因となったのではないかとひそかに考えています。</p><p>【参考：「<a href="https://kknews.cc/history/vaqjx24.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">清軍用馬桶陣、面具兵抵抗英軍，令人哭笑不得，怪不得輸掉了戰爭

原文網址</a>」←中国語ですがグーグル翻訳すれば大体は分かります】</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[特命全権大使になぜ儒者が選ばれたのか？]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59131521/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/61a3637eb13dd1fe0cba299541615e14_b83125a44c8113cabd3330b2d302b72d.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59131521</id><summary><![CDATA[日米・日露和親条約交渉　幕末の歴史を調べていると、さまざまな疑問点が出てきます。表題にかかげたものも、その一つです。嘉永6年（1853）6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦をひきいて江戸湾に現われ、開国・通商を要求するフィルモア大統領の国書を押し付けて去って行きました。その一月半後の7月18日、今度はロシア海軍の提督プチャーチンが長崎に来航します。要求はペリーと同じ開国・通商ですが、さらに国境画定も加えられていました。このふたつの開国要求から、幕末の激動が始まるのです。嘉永6年に長崎でプチャーチンとの交渉にのぞんだ日本側代表団はこのメンバーです。筒井政憲：＜交渉全権（首席）＞　大目付格西丸留守居　昌平坂学問所御用川路聖謨：＜交渉全権＞　勘定奉行荒尾成允：　目付（監視役）古賀謹一郎：　儒者また、翌嘉永7年1月に再来したペリーとの交渉のメンバーはこうでした。林復斉：＜交渉全権＞　大学頭（昌平坂学問所所長）井戸覚弘：　江戸北町奉行伊沢政義：　浦賀奉行鵜殿長鋭：　目付　松崎満太郎：　儒者「交渉全権」というのは、現在の条約交渉における「特命全権大使」に該当します。これを見て気になったのが、日米交渉首席の林と日露交渉首席の筒井の両人が昌平坂学問所の所長と所長代理（実質）、つまり儒者（儒学者）だったことです。なぜ外交交渉の首席が、外交官ではなく儒者なのか？加えて、なぜ古賀・松崎という儒者が交渉団に加わっているのか？それは鎖国と大いに関係がありました。江戸時代の国交は2ヶ国だけ「国交」というのは互いに主権国家と認め合う2国間の公式な交際のことです。高校教科書には、江戸時代の外国との交流についてこのように書かれています。　この（ポルトガル船の来航を禁止した）結果、朝鮮・琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地も長崎一港にかぎられてしまった。平戸のオランダ商館も長崎の出島に移され、幕府はここを窓口としてヨーロッパの文物を吸収するとともに、オランダ船の来航のたびに商館長が提出するオランダ風説書によって、海外の事情を知ることができた。　一方、中国船は明から清にかわっても来航をつづけたが、生糸をはじめとするその輸入額は年々ふえつづけたので、しだいに制限が加えられるようになり、1688（元禄元）年には中国人の居留地も長崎の一区画（唐人屋敷）だけとされた。　こうして鎖国政策は200年以上にわたってつづけられ、その結果、産業や文化にあたえる海外からの影響は制限されたが、幕府の支配はいっそう強固なものになった。【五味文彦・鳥海靖編『新　もういちど読む山川日本史』山川出版社】これだけだと朝鮮・琉球・オランダ・中国（清）の4ヶ国と国交があったように思えますが、そうではありません。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-08-23T08:00:06+00:00</published><updated>2026-08-23T12:22:59+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>日米・日露和親条約交渉</h3><p>　幕末の歴史を調べていると、さまざまな疑問点が出てきます。</p><p>表題にかかげたものも、その一つです。</p><p>嘉永6年（1853）6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦をひきいて江戸湾に現われ、開国・通商を要求するフィルモア大統領の国書を押し付けて去って行きました。</p><p>その一月半後の7月18日、今度はロシア海軍の提督プチャーチンが長崎に来航します。</p><p>要求はペリーと同じ開国・通商ですが、さらに国境画定も加えられていました。</p><p>このふたつの開国要求から、幕末の激動が始まるのです。</p><p>嘉永6年に長崎でプチャーチンとの交渉にのぞんだ日本側代表団はこのメンバーです。</p><blockquote>筒井政憲：＜交渉全権（首席）＞　大目付格西丸留守居　昌平坂学問所御用<br>川路聖謨：＜交渉全権＞　勘定奉行<br>荒尾成允：　目付（監視役）<br>古賀謹一郎：　儒者</blockquote><p>また、翌嘉永7年1月に再来したペリーとの交渉のメンバーはこうでした。</p><blockquote>林復斉：＜交渉全権＞　大学頭（昌平坂学問所所長）<br>井戸覚弘：　江戸北町奉行<br>伊沢政義：　浦賀奉行<br>鵜殿長鋭：　目付　<br>松崎満太郎：　儒者</blockquote><p>「交渉全権」というのは、現在の条約交渉における「特命全権大使」に該当します。</p><p>これを見て気になったのが、日米交渉首席の林と日露交渉首席の筒井の両人が昌平坂学問所の所長と所長代理（実質）、つまり儒者（儒学者）だったことです。</p><p>なぜ外交交渉の首席が、外交官ではなく儒者なのか？</p><p>加えて、なぜ古賀・松崎という儒者が交渉団に加わっているのか？</p><p>それは鎖国と大いに関係がありました。</p><p><br></p><h3>江戸時代の国交は2ヶ国だけ</h3><p>「国交」というのは互いに主権国家と認め合う2国間の公式な交際のことです。</p><p>高校教科書には、江戸時代の外国との交流についてこのように書かれています。</p><blockquote>　この（ポルトガル船の来航を禁止した）結果、朝鮮・琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地も長崎一港にかぎられてしまった。<br>平戸のオランダ商館も長崎の出島に移され、幕府はここを窓口としてヨーロッパの文物を吸収するとともに、オランダ船の来航のたびに商館長が提出するオランダ風説書によって、海外の事情を知ることができた。<br>　一方、中国船は明から清にかわっても来航をつづけたが、生糸をはじめとするその輸入額は年々ふえつづけたので、しだいに制限が加えられるようになり、1688（元禄元）年には中国人の居留地も長崎の一区画（唐人屋敷）だけとされた。<br>　こうして鎖国政策は200年以上にわたってつづけられ、その結果、産業や文化にあたえる海外からの影響は制限されたが、幕府の支配はいっそう強固なものになった。<br>【五味文彦・鳥海靖編『新　もういちど読む山川日本史』山川出版社】</blockquote><p>これだけだと朝鮮・琉球・オランダ・中国（清）の4ヶ国と国交があったように思えますが、そうではありません。</p><p><br></p>
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			<h4 style="text-align: center;">阿蘭陀船入津之図（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>オランダ・中国は「通商」</h3><p>鎖国の例外としてよく知られているオランダは、18世紀までオランダ国ではなくオランダ東インド会社との「通商」、つまりビジネスだったのです。</p><p>出島にあったオランダ商館というのは、オランダ大使館ではなく、オランダ東インド会社日本支店でした。</p><p>オランダは1795年にフランスに占領されて、バタヴィア共和国というフランスの衛星国家になり、1806年にはフランスに併合されてしまいます。</p><p>この間、1799年にオランダ東インド会社が解散し、貿易部門はバタヴィア政府が新たに設けた海外貿易公社に引き継がれました。</p><p>しかし出島のオランダ商館はそのような事情を幕府に告げず、従来のままに貿易をつづけました。</p><p>オランダ商館長の身分は、東インド会社の社員からバタヴィア政府植民省の公務員に代わっていましたが、幕府には何も説明しなかったようです。</p><p>こうした対応を取った結果、地球上からオランダ国旗が消えていく中で、日本の長崎にのみオランダの三色旗が翻っていたのです。</p><p>1813年にフランスがイギリスに敗れてオランダはネーデルランド王国として復活しますが、もともと隠していた話なので、商館長の立場は変化ありませんでした。</p><p>長崎貿易のもう一つの相手先、中国（清）も通商のみの関係です。</p><p>その拠点は、出島とならんで長崎の観光名所となっている「唐人屋敷」でした。</p><p>これは周囲を練塀や堀で囲まれた中に瓦葺き2階建ての長屋が20棟ほどある「中国人居住区」で、最盛期には1万坪弱の土地に約2,000人の中国商人が住んでいたようです（オランダ商館の駐在員は10人前後）。</p><p>中国人も出島のオランダ人同様、勝手に居住区から外に出ることは許されませんでしたし、オランダ人とは異なり、江戸を訪れることはありませんでした。</p><p>つまり江戸時代の長崎は、外交と関係ない、単なる貿易の拠点だったのです。</p><p>余談ですが、長崎貿易についてご興味のある方は、長崎税関作成の『<a href="https://www.customs.go.jp/nagasaki/150th/150th%20saruku.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">長崎港と長崎税関
～歴史的な関わりやエピソード～</a>』が分かりやすいです。</p><p><br></p><h3>国交は「通信」</h3><p>話を戻すと、江戸時代に日本と国交がある先は朝鮮（窓口は対馬藩）と琉球（窓口は薩摩藩）の2ヶ国だけで、この2ヶ国を「通信国」と呼びました。</p><p>通信国からの使者（朝鮮は通信使、琉球は慶賀使）の主な来日目的は将軍の代替わりの祝い、要するに外交儀礼でした。</p><p>通信国のうち、琉球は日本語が通じますが朝鮮はそうではありません。</p><p>朝鮮は中国の属国で自ら小中華と称していました。</p><p>つまり中国文化の国で、貴族階級は言葉も中国語でした。</p><p>そこで中国の礼法にくわしい儒者が、朝鮮通信使の接遇担当となっていたのです。</p><p>冒頭で述べたように、昌平坂学問所のトップ2人が米露との交渉全権に選ばれたということは、幕府が当初は外交儀礼を強く意識していたことがうかがえます。</p><p>しかし、すぐに考えを改めたようです。</p><p>というのも、この後の条約交渉では儒者の出番はなくなり、新たに選ばれた外国担当（海防掛）&nbsp;の役人たちに交替しているからです。</p><p><br></p><h3>通信使は「御逢」、商館長は「御覧」</h3><p>なお、オランダ商館の商館長も定期的に（当初は毎年、1790年以降は4年に1度）江戸参府をしていましたが、これは通商を許されていることの御礼を将軍に言上して、礼物を献上するという名目でした。（中国は参府なし）</p><p>城内で将軍に目通りすることについて、通信国に対しては「御逢」になるとの表現を用いましたが、オランダ商館長には「御覧」になるものとされました。</p><p>これは奥向きの女性たちを含む城内の人々が、珍しいオランダ人を見物するという位置づけで、待遇もかなり違っていたようです。</p><p>さすが身分制社会、きっちりと区別していますね。</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[医学館vs.医学所]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59058843/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/3e30c55d768b3b934e04b4e9f2ead10e_5aeb3f8e976ee4c8edb196850102b33d.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59058843</id><summary><![CDATA[幕末の医学は、漢方医学と蘭方医学という二つの系列に分かれていました。その漢方医学の本拠となったのが医学館で、これに対抗して蘭方医が開設したのが医学所です。漢方医師の教育を担った「医学館」 江戸時代の医者には，幕府の医師だけでなく、各地の大名のお抱え医師である藩医、町や村にいて庶民の治療にあたる町医者がありました。以前「幕府医師のピンとキリ」でふれたように、 当時の医師はすべて徒弟制度で、専門の教育機関も免許制度もなく、医学知識や技量には大差がついていました。 明和2年（1765）、このような状態を憂えた奥医師（漢方医）の多紀元孝は、幕府に願い出て私邸の一部に医学教育の場を設け、躋寿館(せいじゅかん)と命名しました。 躋寿館では，幕府医師の子弟，藩医のみならず，町医者まで希望者は誰でも授業料無料で学ぶことができました。 さらに講義だけでなく、臨床教育も行なわれました。講堂に接した病室で患者の診療を行ない，無料で治療し薬代も無料の代わりに学生も立会うという仕組みです。 学生たちは患者の状態を見て、どのような病気でどんな治療をするべきかのレポートを提出し、教師の指導を受けるという、実践的な教育でした。 当初は多紀家が運営費を負担していましたが、火災による再建で資金不足となり、幕府に申し出て江戸市中の医師から年2匁ずつの寄付を集める許可をうけ、これを運営費にあてていました。しかし次第に寄付が集まらなくなったことから、幕府に支援を願い出ます。寛政3年（1791）、躋寿館は幕府直轄の漢方医師養成所となり、医学館と改称されました。但し、これ以後、学生は幕臣つまり幕府医師とその子弟のみに限られました。 医師養成機関から官医養成機関に変貌したのですが、医官の推挙と医書の検閲を医学館にゆだねたため、その権威は高まりました。その結果が嘉永2年（1849）に出された蘭方禁止令で、外科や眼科を除き、幕府医師から蘭方医を排除するというものです。従来江戸の医学界では、内科は漢方、外科は蘭方と棲み分けていたものが、天保年間以降（1830年～）蘭方医が内外両科で効果を上げてきたため、患者を奪われるのを恐れた漢方医たちが医学館のトップだった将軍侍医の多紀元堅に働きかけて、制定させたようです。蘭方医は「種痘館」を開設しかし蘭方医も負けてはいません。多紀が亡くなった安政4年（1857）に、伊東玄朴が主唱して、神田お玉ヶ池にある勘定奉行川路聖謨の下屋敷の一部を借り受け、人々に種痘をおこなう「種痘館」を開設しました。というのは、江戸時代の感染症の中でもっとも恐れられたのが致死率の高い天然痘だったからで、疱瘡（ほうそう）や痘瘡（とうそう）などと呼ばれて、多くの乳幼児が命を落していました。島津斉彬の正室英姫は天然痘にかかって容貌がくずれたため人前に出るのをいやがり、面会する場合は御簾を通したという話が伝わっていますが、天然痘にかかると回復しても顔にひどいあばたが残りますから、天然痘の予防は医師たちの悲願でした。そこで、以前川路がロシア使節と交渉するときに通訳をつとめた蘭方医の箕作阮甫をつうじて川路邸の一部を借り受け、蘭方医たちが資金を拠出して種痘館を開設したのです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-08-16T08:00:06+00:00</published><updated>2026-08-16T08:08:17+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<p>幕末の医学は、漢方医学と蘭方医学という二つの系列に分かれていました。</p><p>その漢方医学の本拠となったのが医学館で、これに対抗して蘭方医が開設したのが医学所です。</p><p><br></p><h3>漢方医師の教育を担った「医学館」&nbsp;</h3><p>江戸時代の医者には，幕府の医師だけでなく、各地の大名のお抱え医師である藩医、町や村にいて庶民の治療にあたる町医者がありました。</p><p>以前「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59055931" target="_blank" class="u-lnk-clr">幕府医師のピンとキリ</a>」でふれたように、&nbsp;当時の医師はすべて徒弟制度で、専門の教育機関も免許制度もなく、医学知識や技量には大差がついていました。&nbsp;</p><p>明和2年（1765）、このような状態を憂えた奥医師（漢方医）の多紀元孝は、幕府に願い出て私邸の一部に医学教育の場を設け、躋寿館(せいじゅかん)と命名しました。&nbsp;</p><p>躋寿館では，幕府医師の子弟，藩医のみならず，町医者まで希望者は誰でも授業料無料で学ぶことができました。&nbsp;</p><p>さらに講義だけでなく、臨床教育も行なわれました。</p><p>講堂に接した病室で患者の診療を行ない，無料で治療し薬代も無料の代わりに学生も立会うという仕組みです。&nbsp;</p><p>学生たちは患者の状態を見て、どのような病気でどんな治療をするべきかのレポートを提出し、教師の指導を受けるという、実践的な教育でした。&nbsp;</p><p>当初は多紀家が運営費を負担していましたが、火災による再建で資金不足となり、幕府に申し出て江戸市中の医師から年2匁ずつの寄付を集める許可をうけ、これを運営費にあてていました。</p><p>しかし次第に寄付が集まらなくなったことから、幕府に支援を願い出ます。</p><p>寛政3年（1791）、躋寿館は幕府直轄の漢方医師養成所となり、医学館と改称されました。</p><p>但し、これ以後、学生は幕臣つまり幕府医師とその子弟のみに限られました。&nbsp;</p><p>医師養成機関から官医養成機関に変貌したのですが、医官の推挙と医書の検閲を医学館にゆだねたため、その権威は高まりました。</p><p>その結果が嘉永2年（1849）に出された蘭方禁止令で、外科や眼科を除き、幕府医師から蘭方医を排除するというものです。</p><p>従来江戸の医学界では、内科は漢方、外科は蘭方と棲み分けていたものが、天保年間以降（1830年～）蘭方医が内外両科で効果を上げてきたため、患者を奪われるのを恐れた漢方医たちが医学館のトップだった将軍侍医の多紀元堅に働きかけて、制定させたようです。</p><p class=""><br></p><h3>蘭方医は「種痘館」を開設</h3><p>しかし蘭方医も負けてはいません。</p><p>多紀が亡くなった安政4年（1857）に、伊東玄朴が主唱して、神田お玉ヶ池にある勘定奉行川路聖謨の下屋敷の一部を借り受け、人々に種痘をおこなう「種痘館」を開設しました。</p><p>というのは、江戸時代の感染症の中でもっとも恐れられたのが致死率の高い天然痘だったからで、疱瘡（ほうそう）や痘瘡（とうそう）などと呼ばれて、多くの乳幼児が命を落していました。</p><p>島津斉彬の正室英姫は天然痘にかかって容貌がくずれたため人前に出るのをいやがり、面会する場合は御簾を通したという話が伝わっていますが、天然痘にかかると回復しても顔にひどいあばたが残りますから、天然痘の予防は医師たちの悲願でした。</p><p>そこで、以前川路がロシア使節と交渉するときに通訳をつとめた蘭方医の箕作阮甫をつうじて川路邸の一部を借り受け、蘭方医たちが資金を拠出して種痘館を開設したのです。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/3e30c55d768b3b934e04b4e9f2ead10e_5aeb3f8e976ee4c8edb196850102b33d.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">種痘の様子　広瀬元恭著『新訂牛痘奇法』（京都大学付属図書館蔵）</h4><p><br></p><p>安政5年（1858）に蘭方禁止令は解除されますが、当時はまだまだ奥医師（漢方医）の威権があったようで、蘭方医の池田謙斎はその『回顧録』にこう書いています。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、カギ括弧をおぎなっています）</p><blockquote>この時分の医界の有様はどうかというと、例の幕府の奥医者（漢方医の奥医師：原注）が非常に幅をきかしていたもので、当時江戸で蘭学をやっておった西洋家などは、この奥医者から手ひどくイヂメつけられて困ったということじゃ。<br>【倉沢剛『幕末教育史の研究1（直轄学校政策）』吉川弘文館】</blockquote><p>しかし種痘をはじめたことで、この力関係が変化してきます。</p><blockquote>しかしこの圧迫はかえって西洋医家の反動力を養うて、自然その団結を強固にしたということじゃ。<br>こんな風に圧政の下に苦しみつつ、しかもますます勇進した西洋医家が、やがて信用を博するようになったについては、例の種痘が最もあずかって力あることじゃ。<br>私どもの子供のときは、人の子を見るとすぐに「種痘をしたか」と聞くのが一緒の挨拶のようになっていたもので、種痘の効験が初めて、あまねく世に知られ出した時分だから、信用も格別で、それには右の奥医師も如何とも反抗ができなかった。<br>【倉沢上掲書】</blockquote><p>最初の種痘館は開設後半年ほどで、神田で起きた火事のため類焼してしまいますが、まもなく下谷に仮小屋を建て、「種痘所」と名を改めて種痘を再開しています。</p><p>そして万延元年（1860）、幕府は種痘所を官立に移し、大槻俊斎を初代の頭取に任命しました。</p><p>これによって種痘所は医学館とならぶ幕府の官設機関となり、蘭方医学センターの地位を固めました。</p><p><br></p><h3>医学所改革</h3><p>ついで文久元年（1861）には名称を「西洋医学所」と改め、教授（内科）・解剖（外科）・種痘の3科をおいて、蘭方医の育成に着手します。</p><p>名称は当初「医学所」とする予定でしたが、奥医師たちから「医学所の名称にふさわしいのは漢方なので、医学館を医学所に改めてほしい」との申し出があったため、「西洋」を冠したようです。</p><p>文久2年（1862）に大槻頭取が亡くなり、幕府は緒方洪庵を2代目頭取に任命して大坂から呼び寄せます。</p><p>しかし緒方も病身（肺結核）だったことから、緒方が推薦した松本良順が頭取助（頭取代理）に任命されました。</p><p>緒方洪庵は適塾の開設者としてよく知られていますが、彼が選んだ松本良順は<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59107693" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>でも述べたように長崎でオランダ医師ポンペの助手を務め、日本で初めて西洋医学を体系的に学んだ、西洋医師としては当時最高の実力者でした。</p><p>緒方が就任後わずか10ヶ月で亡くなったため、松本が32歳で頭取に就任し、ポンペの方式にならって医学所を大改革します。</p><p>こうして、日本における最高水準の西洋医学教育機関ができました。</p><p>文久3年（1863）には名称を「医学所」とあらためていますから、漢方医の圧迫をはね返すほどに世間の評価が高まったようです。</p><p><br></p><h3>戊辰戦争から生まれた東大医学部</h3><p>西洋医学の優位を決定づけたのが、戊辰戦争でした。</p><p>鳥羽伏見の戦いで負傷した幕府兵たちが続々と江戸に戻ってきましたが、漢方医では銃創の治療法がわからず、彼らは医学所医師たちの助手となって傷口の洗浄や包帯交換を行なうくらいしかできませんでした。</p><p>このため医学館の権威は失われ、自然消滅していきました。</p><p>いっぽう医学所に対しては陸海軍の附属病院を開設するよう指示があり、医学界は西洋医学一色になっていきます。</p><p>慶応4年（1868、9月に明治と改元）6月、新政府は医学所を国営の医師教育機関とし、明治2年には大学東校と改称、その後も名称の変遷はありましたが、現在では東京大学医学部になっています。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[漢方と蘭方]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59107693/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/a34e72eb0b3e9fcb8f5a7a906fe822fb_6ab22ddc8a67d81e18e9a0c70d67ab2c.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59107693</id><summary><![CDATA[奥医師は漢方医のみ　前回、タイコモチ医者といわれた高村隆徳が奥医師試験を受けたとき、漢方の基本薬である葛根湯のことを答えられなかったという話をしました。それとはちがうのですが、基礎問題は解けないが難問には答えられて、医師試験に合格した人物がいます。島津斉彬とも親しかった西洋医学の大家で、長崎でオランダ人医師ポンペの助手をつとめ、幕府の西洋医学所頭取をへて明治には陸軍の初代軍医総監となる松本良順（順）です。松本は順天堂（現在の順天堂大学）創始者で高名な蘭方医佐藤泰然の次男で、早くから西洋医学を学んでいましたが、17歳のときに幕医松本良甫の養子になる話がもちあがりました。ところが当時は幕医を漢方医に限定するという規則があったことから、蘭方医が幕医の養子になることは認めないとの意見が幕府の奥医師たちから出されました。そこで良順に漢方医としての知識があるかどうかを試験して、養子の可否を決めることになったのです。良順は蘭方の心得はありますが、漢方は勉強したことがありません。試験までの期間は約2ヶ月、良順は猛烈ないきおいで漢方の勉強をはじめました。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-08-09T08:00:24+00:00</published><updated>2026-08-15T07:04:08+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>奥医師は漢方医のみ</h3><p>　<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59060197" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>、タイコモチ医者といわれた高村隆徳が奥医師試験を受けたとき、漢方の基本薬である葛根湯のことを答えられなかったという話をしました。</p><p>それとはちがうのですが、基礎問題は解けないが難問には答えられて、医師試験に合格した人物がいます。</p><p class="">島津斉彬とも親しかった西洋医学の大家で、長崎でオランダ人医師ポンペの助手をつとめ、幕府の西洋医学所頭取をへて明治には陸軍の初代軍医総監となる松本良順（順）です。</p><p>松本は順天堂（現在の順天堂大学）創始者で高名な蘭方医佐藤泰然の次男で、早くから西洋医学を学んでいましたが、17歳のときに幕医松本良甫の養子になる話がもちあがりました。</p><p>ところが当時は幕医を漢方医に限定するという規則があったことから、蘭方医が幕医の養子になることは認めないとの意見が幕府の奥医師たちから出されました。</p><p>そこで良順に漢方医としての知識があるかどうかを試験して、養子の可否を決めることになったのです。</p><p>良順は蘭方の心得はありますが、漢方は勉強したことがありません。</p><p>試験までの期間は約2ヶ月、良順は猛烈ないきおいで漢方の勉強をはじめました。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/a34e72eb0b3e9fcb8f5a7a906fe822fb_6ab22ddc8a67d81e18e9a0c70d67ab2c.jpg?width=960" width="100%">
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			<p><br></p><h4 style="text-align: center;">松本良順（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>難問だから答えられた</h3><p>試験は幕医の教育機関である医学館で行なわれました。</p><p>試験官は将軍侍医の多紀元堅（号は楽真院）を筆頭に、上位の奥医師5名です。</p><p>さらに、立会人として監察が2名、筆記者5名、聴講する医学館教官や生徒も数十名控えるという、大がかりなものでした。</p><p>松本は自伝の中で、試験の様子をこのように書いています。</p><blockquote>試業の科八条、筆記二条、読本・問答あり。<br>楽真院より始まり、五人みな難問なりしが、数月の学といえども、難題の多きを以て大抵答弁に苦しむことはなかりし。<br>（中略）<br>毫も恐怖の念なく、八ヵ条ことごとく弁了したり。<br>これ他なし、みな難問なればなり。<br>難題は多くあらずして、その研究かえって慎密にし、複読もまた数回せしかば、案外の功を奏したり。<br>もしこれに反し平易のことを試問せられなば、けだし答うるに困難なりしなるべし。<br>僥倖笑うに堪えたり。<br>【小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』平凡社東洋文庫】</blockquote><p>松本は、試験では難しい問題が出されるだろうと想定して、難問を重点的に暗記しました。</p><p>その予想があたり、5名の試験官がみな難問を出してきたので、すらすらと答えられたのです。</p><p>もしやさしい問題が出されていたら、たぶん答えられなかっただろう、と回想しています。</p><p>この勝負、松本の読み勝ちでした。</p><p><br></p><h3>西洋医学限定の医師免許で漢方は衰退</h3><p>松本が試験を受けたのは嘉永2年（1849）でしたが、安政5年（1858）には蘭方医も奥医師に採用されることになりました。</p><p>原因は将軍家定の重病（脚気）です。</p><p>漢方医だけでは心許ないと考えた井伊大老が、蘭方医にも診察させるために「蘭方禁止令」を解除させたのです。</p><p>そうして薩摩藩医の戸塚静海や佐賀藩医の伊東玄朴など4名の蘭方医を奥医師に任命して、家定将軍の治療に当たらせました。</p><p>これによって幕府の医療体制は大きく変化し、漢方から西洋医学へとシフトしていきます。</p><p>この流れを決定的にしたのが明治政府でした。</p><p>明治政府は医者の質を高めるため明治16年（1883）に医師免許制度を制定し、医師の国家試験に合格しなければ医者として開業できないようにしました。</p><p>このとき、試験問題を西洋医学に関するものだけにしてしまったのです。&nbsp;</p><p>その結果、漢方を学ぶものは急減し、漢方医学は衰退して途絶える寸前までいきました。</p><p>しかし、1950年代になってサリドマイドなど薬害問題が相次いだことで漢方の良さが見直され、大学でも漢方の講座が開かれるようになり、現在では<a href="https://www.kitasato-u.ac.jp/toui-ken/center/kampo.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">漢方治療を行なう大学病院</a>や<a href="https://www.hamayaku.ac.jp/academics/herbal/" target="_blank" class="u-lnk-clr">漢方薬学科を設ける大学</a>もあります。&nbsp;</p><p><br></p><h3>漢方は日本独自の医学</h3><p>じつは漢方というのは日本独自の医学だそうです。</p><p>漢方薬メーカーの<a href="https://www.tsumura.co.jp/kampo/history/#kampo-history03" target="_blank" class="u-lnk-clr">ツムラのＨＰ</a>には『漢方という名称の由来は、日本へ伝来した西洋医学である「蘭方」と区別するためにつけられたものであり、中国の伝統的な医学である「中医学」とも異なります』と書いてあります。&nbsp;</p><p>では、西洋医学と漢方はどう違うのでしょうか？</p><p>西洋医学というのは、病人の中から病気を取りだしてその病気を治すという考え方ですが、漢方は病気ではなく病人を治すという考え方です。</p><p>西洋医学では高血圧の治療で胃が悪くなるということが起こりますが、漢方の考え方だとそれでは治療になりません。&nbsp;</p><p>その辺の違いが分かって、必要に応じて使い分ける、または併用するという治療が行なわれるようになってきたのです。&nbsp;</p><p>元々は中国から伝わった医学が日本の気候風土や日本人の体質にあわせて独自の発展を遂げた、これは漢字から仮名を創り出したようなものでしょうか。</p><p>漢方は、カイゼンが得意な日本人らしい医学かもしれませんね。&nbsp;</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[タイコモチ医者、じつは名医？]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59060197/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/9a1c9eea90a910fbdbdeeca626dcd226_24a19b86ca145c513eb8d7e28829ddfa.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59060197</id><summary><![CDATA[絶家した旗本を継いで開業　前回は、田舎から出てきた医者の槇島隆徳が産婆と組んで、将軍御側御用取次をつとめる土岐豊前守の妹の出産につけこみ、ありもしない症状を騙って不安をあおり、治療が成功したように思わせて感謝され、安産祝いの席で、兄の豊前守から「拙者の屋敷に来い」と声掛けをされたところまでお話ししました。隆徳はさっそく土岐邸を訪ねますが、いきなり面会を願うことはしません。ご機嫌伺いと称して毎日土岐邸を訪れ、玄関の帳面に名前を記すだけで帰りました。まずは謙虚さのアピールです。それを重ねているうちに気の毒に思われたのでしょう、「勝手口から入れ」と言われて邸内に上がり込むと、用人と世間話をするようになり、ついには用人ではなく豊前守本人と親しく話ができるまでになりました。こういう手際は、まさに薄井が「幇間（ほうかん：たいこもち）」と呼んだとおりです。そうしているうちに、豊前守の家来の高村という家が絶家していたので、それを相続させるという話がもちあがり、とうとう高村隆徳と名を改めて、旗本になってしまいました。ちょうど本町2丁目（現在の東京都中央区日本橋本町2丁目）に大きな空き屋敷があったので、そちらに移り、そこで大々的に町医者を開業したところ、言葉巧みな診察で人気を呼び、たいそう流行ったことから、口をきく人がでて表番医師に推薦されます。評判のいい町医者で、かつ御側御用取次をつとめる土岐豊前守がバックについているのですから、すぐに表番医師に採用されました。ついで奥医師にという声が上がりましたが、こちらは簡単にはなれません。というのも、奥医師にふさわしい力量があるかを調べる試験があったからです。奥医師試験いよいよ奥医師試験の日がきました。会場は幕府医師の教育機関である医学館、試験官には医学館館長の多紀安長ほか医学館の教授4、5名が立会います。試験問題は『傷寒論（しょうかんろん）』の葛根湯（かっこんとう：風邪薬）の章でした。傷寒論はよく知られている漢方の基本テキストで、葛根湯はこれも基本的な薬ですから、言ってみれば一人前の漢方医なら誰でも答えられる基本問題を出してくれたのです。しかし、隆徳は葛根湯が何かも知らないレベルだったため、ろくに答えられず、ほうほうの体で医学館を後にしました。とうぜん試験は不合格です。しかし隆徳のすごいのはここからでした。隆徳は土岐豊前守の屋敷に行って、土岐にこう言いました。「だしぬけに難しいことを聞かれたら、誰でも動転して答えられるものではありません。試験官だった多紀でも、あのような試験を受けたら私同様に失敗するでしょう。私は学問は少し足りませんが、技量においては彼らを遙かに上回っております。それを彼らは知っていて、御前（土岐）が私を引き立てるのを快く思っていないために、御前を傷つけようとして、私を衆人の前で御前の代わりに辱めたのです」まあ、ぬけぬけとよく言ったものですが、これを聞いた土岐豊前守は怒り狂いました。「生意気なことをする奴らだ、我に逆らう身の程知らずめ。よし、誰がなんと言っても、この豊前守がなんとかしてやる」と言って、医師の監督責任者である若年寄にねじこんで、とうとう隆徳を奥医師にしてしまいました。大奥には好評こうして医学知識もないのに奥医師に入り込んだ高村隆徳ですが、意外なことに大奥の人気者になってしまいました。前回も紹介した大正4年の史談会で、薄井がこう語っています。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、句読点を補っています）奥医師になってから、将軍家よりは御広敷に大変取り入って、老女関口という者にひいきにされ、御広敷の方の御用というものは、殆ど自分一身で引受ける位なことになった。御広敷が大層通りが宜かったから、御表も尚以て宜かった。そうして其忰（せがれ）はこれも矢張り親の子で、何も出来ない者であったが、奥詰医師にお取り立てになって、親子共に勤めて居った。それが即ち、其頃の腕利（うできき）医者の高村隆徳の出身であります。【薄井龍之「幕府時代の儒者と医者」『史談会速記録　第271輯』】土岐豊前守がねじ込んで奥医師になったとはいえ、実力がないことは知られていますから、将軍一家の診察はさせてもらえず、もっぱら大奥の女官を診察していました。ところが口達者なものだから、大奥の老女（幕府では老中にあたる実力者）関口にひいきにされて、その直属の配下となる広敷の女官たちにも評判が良く、大奥女官の診察は隆徳が一手に引受けるようになったというのです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-08-02T08:00:21+00:00</published><updated>2026-08-02T08:30:30+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>絶家した旗本を継いで開業</h3><p>　前回は、田舎から出てきた医者の槇島隆徳が産婆と組んで、将軍御側御用取次をつとめる土岐豊前守の妹の出産につけこみ、ありもしない症状を騙って不安をあおり、治療が成功したように思わせて感謝され、安産祝いの席で、兄の豊前守から「拙者の屋敷に来い」と声掛けをされたところまでお話ししました。</p><p>隆徳はさっそく土岐邸を訪ねますが、いきなり面会を願うことはしません。</p><p>ご機嫌伺いと称して毎日土岐邸を訪れ、玄関の帳面に名前を記すだけで帰りました。</p><p>まずは謙虚さのアピールです。</p><p>それを重ねているうちに気の毒に思われたのでしょう、「勝手口から入れ」と言われて邸内に上がり込むと、用人と世間話をするようになり、ついには用人ではなく豊前守本人と親しく話ができるまでになりました。</p><p>こういう手際は、まさに薄井が「幇間（ほうかん：たいこもち）」と呼んだとおりです。</p><p>そうしているうちに、豊前守の家来の高村という家が絶家していたので、それを相続させるという話がもちあがり、とうとう高村隆徳と名を改めて、旗本になってしまいました。</p><p>ちょうど本町2丁目（現在の東京都中央区日本橋本町2丁目）に大きな空き屋敷があったので、そちらに移り、そこで大々的に町医者を開業したところ、言葉巧みな診察で人気を呼び、たいそう流行ったことから、口をきく人がでて表番医師に推薦されます。</p><p>評判のいい町医者で、かつ御側御用取次をつとめる土岐豊前守がバックについているのですから、すぐに表番医師に採用されました。</p><p>ついで奥医師にという声が上がりましたが、こちらは簡単にはなれません。</p><p>というのも、奥医師にふさわしい力量があるかを調べる試験があったからです。</p><p><br></p><h3>奥医師試験</h3><p>いよいよ奥医師試験の日がきました。</p><p>会場は幕府医師の教育機関である医学館、試験官には医学館館長の多紀安長ほか医学館の教授4、5名が立会います。</p><p>試験問題は『傷寒論（しょうかんろん）』の葛根湯（かっこんとう：風邪薬）の章でした。</p><p>傷寒論はよく知られている漢方の基本テキストで、葛根湯はこれも基本的な薬ですから、言ってみれば一人前の漢方医なら誰でも答えられる基本問題を出してくれたのです。</p><p>しかし、隆徳は葛根湯が何かも知らないレベルだったため、ろくに答えられず、ほうほうの体で医学館を後にしました。</p><p>とうぜん試験は不合格です。</p><p>しかし隆徳のすごいのはここからでした。</p><p>隆徳は土岐豊前守の屋敷に行って、土岐にこう言いました。</p><p>「だしぬけに難しいことを聞かれたら、誰でも動転して答えられるものではありません。</p><p>試験官だった多紀でも、あのような試験を受けたら私同様に失敗するでしょう。</p><p>私は学問は少し足りませんが、技量においては彼らを遙かに上回っております。</p><p>それを彼らは知っていて、御前（土岐）が私を引き立てるのを快く思っていないために、御前を傷つけようとして、私を衆人の前で御前の代わりに辱めたのです」</p><p>まあ、ぬけぬけとよく言ったものですが、これを聞いた土岐豊前守は怒り狂いました。</p><p>「生意気なことをする奴らだ、我に逆らう身の程知らずめ。</p><p>よし、誰がなんと言っても、この豊前守がなんとかしてやる」</p><p>と言って、医師の監督責任者である若年寄にねじこんで、とうとう隆徳を奥医師にしてしまいました。</p><p><br></p><h3>大奥には好評</h3><p>こうして医学知識もないのに奥医師に入り込んだ高村隆徳ですが、意外なことに大奥の人気者になってしまいました。</p><p>前回も紹介した大正4年の史談会で、薄井がこう語っています。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、句読点を補っています）</p><blockquote>奥医師になってから、将軍家よりは御広敷に大変取り入って、老女関口という者にひいきにされ、御広敷の方の御用というものは、殆ど自分一身で引受ける位なことになった。<br>御広敷が大層通りが宜かったから、御表も尚以て宜かった。<br>そうして其忰（せがれ）はこれも矢張り親の子で、何も出来ない者であったが、奥詰医師にお取り立てになって、親子共に勤めて居った。<br>それが即ち、其頃の腕利（うできき）医者の高村隆徳の出身であります。<br>【薄井龍之「幕府時代の儒者と医者」『史談会速記録　第271輯』】</blockquote><p>土岐豊前守がねじ込んで奥医師になったとはいえ、実力がないことは知られていますから、将軍一家の診察はさせてもらえず、もっぱら大奥の女官を診察していました。</p><p>ところが口達者なものだから、大奥の老女（幕府では老中にあたる実力者）関口にひいきにされて、その直属の配下となる広敷の女官たちにも評判が良く、大奥女官の診察は隆徳が一手に引受けるようになったというのです。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/9a1c9eea90a910fbdbdeeca626dcd226_24a19b86ca145c513eb8d7e28829ddfa.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">揚州周延『千代田の大奥　茶の湯』（部分：国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><p data-placeholder="">忰が取り立てられた奥詰医師というのは奥医師の見習いです。</p><p>薄井は「其忰はこれも矢張り親の子で、何も出来ない者であった」と隆徳親子のことを否定的にのべています。</p><p><br></p><h3>じつは名医？</h3><p>しかし、私の見方はちがいます。</p><p>たしかに最初は産婆と結託してインチキな診療をしていましたが、医院を開業してたいそう流行ったというのは患者の評判が良かったからでしょう。</p><p>さらに大奥の「御広敷が大層通りが宜かった」「老女にひいきにされ」と薄井が述べているところも重要です。</p><p>広敷の女官は「表使（おもてつかい）」と呼ばれて、幕府役人と折衝するいわば大奥の外交官であり、「大奥の女官中枢要の位地にあり、才智勝れたるものならでは勤め兼ねる」（永島今四郎・太田贇雄編『定本　江戸城大奥』）という才女たちです。</p><p>そして老女というのは才女たちの競争の中でトップに立ち、大奥の一切を取り仕切って、老中をやり込めることもめずらしくない力量をもった女傑です。</p><p>そのように一筋縄では行かない女性たちを自分のフアンにしてしまうなど、並みの医者にできることではありません。</p><p>「病は気から」という言葉があります。</p><p>高村隆徳は内科医としてはヤブ医者かも知れませんが、精神科医だとすれば超一流の医者のように思えます。</p><p>だからこそ大奥というストレスの多い職場で、心身の病を治してくれる得がたい人物として、女官たちに歓迎されたのでしょう。</p><p>また、ほかの奥医師にしても、口うるさい大奥の女官たちを任せることができれば大助かりです。</p><p>身体の治療から心の治療に見方を変えれば、高村親子は得がたい人材だったといえるのではないでしょうか。</p><p><br></p><p><br></p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[幕府医師のピンとキリ]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59055931/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/4e4a2cfee8cbce195dbc9ace625483e9_c27ae7ce205e7af065c38b28ff2f19eb.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59055931</id><summary><![CDATA[世襲できない奥医師　江戸時代は身分制社会でしたから、父親の職業とその地位を長男が代々継承していくというのが基本ルールでした。幕府内における地位も同様です。前回まで取り上げてきた川路聖謨のように、下級武士から旗本の最高ポストに到達するようなケースは、ごくわずかな例外にすぎません。しかし、そのような例外も許されず、実力のみで選ばれるポストもありました。それは「奥医師」です。医師は腕が悪いと生命にかかわるので、これだけは家柄ではなく、実力で選ばれました。幕府に仕えていた医師の種類はこうです。奥医師：将軍家・大奥の診察をし、薬を調合 奥詰医師：奥医師の見習 表番医師：城中に詰めて不時の病人に対応寄合医師：医者の家柄だが無能なので名目のみ 奥医師というのは将軍一家や大奥の診察・調剤を行なう医師で、内科・外科・鍼科・口科・眼科の５科に分かれていました。その中でも、将軍の拝診は「御匙（おさじ）」と呼ばれる2名の内科医師で、これになると医師の最高位となる法印（五位の格式）に任ぜられます。2名いた理由は、将軍や御台所の診断に誤りがあってはいけないので、相互にチェックさせたためです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-07-26T08:00:13+00:00</published><updated>2026-08-19T01:03:34+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>世襲できない奥医師</h3><p>　江戸時代は身分制社会でしたから、父親の職業とその地位を長男が代々継承していくというのが基本ルールでした。</p><p>幕府内における地位も同様です。</p><p>前回まで取り上げてきた川路聖謨のように、下級武士から旗本の最高ポストに到達するようなケースは、ごくわずかな例外にすぎません。</p><p>しかし、そのような例外も許されず、実力のみで選ばれるポストもありました。</p><p>それは「奥医師」です。</p><p>医師は腕が悪いと生命にかかわるので、これだけは家柄ではなく、実力で選ばれました。</p><p>幕府に仕えていた医師の種類はこうです。</p><p><br></p><blockquote>奥医師：将軍家・大奥の診察をし、薬を調合&nbsp;<br>奥詰医師：奥医師の見習&nbsp;<br>表番医師：城中に詰めて不時の病人に対応<br>寄合医師：医者の家柄だが無能なので名目のみ&nbsp;</blockquote><p><br></p><p>奥医師というのは将軍一家や大奥の診察・調剤を行なう医師で、内科・外科・鍼科・口科・眼科の５科に分かれていました。</p><p>その中でも、将軍の拝診は「御匙（おさじ）」と呼ばれる2名の内科医師で、これになると医師の最高位となる法印（五位の格式）に任ぜられます。</p><p>2名いた理由は、将軍や御台所の診断に誤りがあってはいけないので、相互にチェックさせたためです。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/4e4a2cfee8cbce195dbc9ace625483e9_c27ae7ce205e7af065c38b28ff2f19eb.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">年始に登城する奥医師の姿（左は平の医師、右は法眼・法印）<br>（市岡正一『徳川盛世録』より　岡崎市立中央図書館蔵）</h4><p><br></p><h3>ヤブ医者無用</h3><p>現代のような医師の資格制度がもうけられたのは明治16年（1883）で、それ以前の医師教育はすべて徒弟制度でした。</p><p>結果として江戸時代は医師の技量に大差があり、代々の医者の家柄に生まれても才能がないヤブ医者も結構いたようです。</p><p>先ほど示した 「幕府に仕えていた医師」の最後にあった「寄合医師」というのがそれで、先祖が名医だったという家柄により家禄を得ているが、医師としての力量がないために医療業務は任せられないという存在です。</p><p>このように家柄だけで実力のない医師に幕府も困って、宝暦年間（1751～1764）に、「医師の息子が出来が悪くていくら教えても技量が向上しない場合は、御家人でも町医者でもいいから即戦力となる者を養子に迎えるように」との布達を出したのですが、慶応3年に再度以下のような布達を出しています。&nbsp;</p><p><br></p><blockquote>医師の儀は、医薬を以て召し出だされ候事に付き、その忰（せがれ）どもは専ら修行仕らせ、御用立ち候よう厚く世話致すべきは勿論に候えども、その者の性質に寄り何程世話致し候とも、医術成熟致さざる者もこれあるべし。<br>（中略）<br>既に養子の儀、家業宜しく仕り、早速御用にあい立つべき者をあい願い候者、御目見え以下町医師らの忰にても養子に仰せ付けらるべく旨、宝暦度あい触れ候通りにこれあり候<br>（中略）<br>依って実子に候とも医業未熟、御用にあい立ち兼ね候わば、右を差し置き家業相応出来、早速御用にあい立つ者を養子にあい願い候わば、願いの通り仰せ付けらるべく候。<br>【加藤貴校注『徳川制度（中）』岩波文庫】</blockquote><p><br></p><p>要するに「前にも言ったけど、実子でも見込のない奴は放っておいて腕の立つ即戦力を養子に願い出れば、認めてやるからね」ということです。</p><p>身分制社会ではどの家の何番目に生まれたかで人生が決まるのですが、医者の世界は実力本位だったのがこの布達でわかると思います。</p><p>優秀な医師がほしい幕府は、名医と評判の町医者を選び、試験をした上で採用していました。</p><p>たとえば島津斉彬と親しかった奥医師（御匙）の多紀元堅（楽真院）は、平安時代から続く医者の家に生まれましたが、五男だったので家を出て町医者として開業していました。</p><p>彼は 腕が良かったことから患者の評判が良く、その実力が認められて奥詰医師となり、1年で奥医師に上がっています。</p><p><br></p><h3>幇間医者</h3><p>しかし、厳選されていたはずの奥医師にも例外はあったようで、口先だけで奥医師に成り上がった人物もいました。</p><p>幕末の志士で明治には裁判官を務めた薄井龍之が、大正4年の史談会で高村隆徳という奥医師の話を紹介しています。</p><p>薄井は高村のことを、</p><p>「不思議な先生で、殆ど無学文盲と言ってよい人で、交際術に長じた人であったので、遂にお目見えから御番医師になって、間もなく奥医師になった」</p><p>「これは立志伝というより幇間（ほうかん：たいこもち）伝」</p><p>と言っていますが、まさに舌先三寸で奥医師になったという話です。</p><p>江戸時代の医師は、漢方医なら漢文で書かれた書物、蘭方医ならオランダ語の書物が読めないと、一流にはなれません。</p><p>ところが、この先生はほとんど無学文盲、つまりろくに字が読めず学識もなかったようです。</p><p>なぜそんな人間が、江戸医学界の最高権威である奥医師になれたのか？</p><p>元々は槇島隆徳という田舎のヤブ医者で、一旗あげようと江戸に出てきた人物だったそうです。</p><p>ところが江戸は田舎医者がすぐに開業できるほど甘くはなかったので、生活のために「按摩針」つまり鍼も打てる按摩として、夜に笛を吹きながら江戸の町を流していました。</p><p>そうしているうちに、中西織江という産婆と親密になり、この中西が妊婦のところへ診察によばれたときに、わざと難産になりそうだと診断して、最近田舎から出て来た槇島隆徳が名医だから診察してもらうようにと勧めて回ったそうです。</p><p>もともと問題ない妊婦ばかりだから難産になるはずがないのですが、そうとは知らない患者たちからは、隆徳先生の治療が良かったから安産だったと評判になったようです。</p><p><br></p><h3>ニセの診断で名医にみせ、幕府重職に接近</h3><p>運のいいことに、中西が将軍の御側御用取次をつとめる土岐豊前守（朝旨か？）の妹の診察を頼まれました。</p><p>中西は診察後、たいそう心配なそぶりをして、用人に「これは逆子なので大変な難産になる」と告げ、「自分では対処出来ないが、名医を知っている」として隆徳を紹介します。</p><p>診察した隆徳は、「これは奥方の一命に関わるかも知れないが、私に任せてくださればなんとかしましょう」と言ってだまし、毎日かよって按摩をつづけました。</p><p>もとより逆子でも何でもないので、臨月にはやすやすと出産できました。</p><p>しかし、裏事情を知らない産婦は大喜びでお祝いの席を設け、兄の土岐豊前守に隆徳先生のおかげで安産だったと報告し、ぜひ隆徳に会ってやってくださいと頼みました。</p><p>それで隆徳が豊前守の前に出て挨拶したところ、「拙者の屋敷へ来い」のようなニュアンスのことを言われました。</p><p>さあ、ここからが隆徳の口八丁の見せ所になるのですが、長くなるので続きは次回に。</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[川路聖謨の末路]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59035271/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/4970b1bfc829362edf5acaf1b2a8be4d_906baf66b4548c1953810e03ccd2d7ba.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59035271</id><summary><![CDATA[井伊大老が川路を左遷　これまで、４回にわたって川路聖謨を取り上げてきました。というのも、下級武士の出でありながら異例の出世をした川路は、行く先々の部署で卓越した業績を残した、まさに幕臣のスーパースターだと思っているからです。島津斉彬が「時事談の友」としたというのも、よく分かります。しかし川路の最晩年は悲惨なものになりました。以前、『斉彬vs.直弼　ブレーンで大差』の回で、「井伊直弼が安政の大獄をおこなったことで、勤王佐幕を問わず優秀な人材が多数失われました」と書きましたが、その失われた人材の一人が川路聖謨です。安政5年（1858）4月23日、彦根藩主井伊直弼が大老に任命されました。常設職である老中と異なり、大老は臨時職ですが、名目上の権限は絶大でした。とはいえ、それまでの歴代大老は江戸城内の上部屋という個室に詰めて、老中が御用部屋（老中が詰める大部屋）で協議した書類に目を通して承認するだけで、じっさいには名誉職のようなポストでした。しかし、井伊直弼は就任したその日から御用部屋の上席に座り、老中の会議に加わりました。それから13日後の5月6日、井伊が大老になって行なった最初の人事は、川路を勘定奉行から西丸留守居という閑職に左遷することでした。川路左遷の原因は敦賀と琵琶湖間の運河開削だったという説があります。これは安政2年（1855）に若狭小浜藩から出された、敦賀と琵琶湖北端の間に運河を掘るという計画のことです。その効果として、万一外国との戦争が起きて大坂湾が外国艦隊に封鎖されても、北国米を敦賀から新運河で琵琶湖北岸に運び、湖を横切って京都に近い南西端に陸上げすれば、京都に米がすぐ届けられるという理由がつけられていました。琵琶湖の水運はそれまで彦根藩が一手に握っていました。しかし、この運河が出来ればその牙城が崩されます。彦根藩はこの計画に猛反対して幕府に働きかけましたが効果はなく、運河は安政4年（1857）に完成しました。彦根藩主の井伊直弼は、このような理由付けは小浜藩主酒井忠義では無理で、川路勘定奉行が小浜藩の要請を利用し、京都を守護すると言って幕府・朝廷間の融和を図ろうとしていると考えたのです。じっさい川路は日露通好条約締結後には、安政の大火で焼失した御所の造営（完成は安政2年）の責任者である「禁裏御普請御用」となって御所復旧の指揮をとり、朝廷に近づいていますから、そのように勘ぐったのかも知れません。真の理由は分かりませんが、とにかく井伊大老が最初に行なった人事が、川路の左遷でした。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-07-19T08:00:19+00:00</published><updated>2026-07-19T10:51:10+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>井伊大老が川路を左遷</h3><p>　これまで、４回にわたって川路聖謨を取り上げてきました。</p><p>というのも、下級武士の出でありながら異例の出世をした川路は、行く先々の部署で卓越した業績を残した、まさに幕臣のスーパースターだと思っているからです。</p><p>島津斉彬が「時事談の友」としたというのも、よく分かります。</p><p>しかし川路の最晩年は悲惨なものになりました。</p><p>以前、『<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58808738" target="_blank" class="u-lnk-clr">斉彬vs.直弼　ブレーンで大差</a>』の回で、「井伊直弼が安政の大獄をおこなったことで、勤王佐幕を問わず優秀な人材が多数失われました」と書きましたが、その失われた人材の一人が川路聖謨です。</p><p><br></p><p>安政5年（1858）4月23日、彦根藩主井伊直弼が大老に任命されました。</p><p>常設職である老中と異なり、大老は臨時職ですが、名目上の権限は絶大でした。</p><p>とはいえ、それまでの歴代大老は江戸城内の上部屋という個室に詰めて、老中が御用部屋（老中が詰める大部屋）で協議した書類に目を通して承認するだけで、じっさいには名誉職のようなポストでした。</p><p>しかし、井伊直弼は就任したその日から御用部屋の上席に座り、老中の会議に加わりました。</p><p>それから13日後の5月6日、井伊が大老になって行なった最初の人事は、川路を勘定奉行から西丸留守居という閑職に左遷することでした。</p><p>川路左遷の原因は敦賀と琵琶湖間の運河開削だったという説があります。</p><p>これは安政2年（1855）に若狭小浜藩から出された、敦賀と琵琶湖北端の間に運河を掘るという計画のことです。</p><p>その効果として、万一外国との戦争が起きて大坂湾が外国艦隊に封鎖されても、北国米を敦賀から新運河で琵琶湖北岸に運び、湖を横切って京都に近い南西端に陸上げすれば、京都に米がすぐ届けられるという理由がつけられていました。</p><p>琵琶湖の水運はそれまで彦根藩が一手に握っていました。</p><p>しかし、この運河が出来ればその牙城が崩されます。</p><p>彦根藩はこの計画に猛反対して幕府に働きかけましたが効果はなく、運河は安政4年（1857）に完成しました。</p><p>彦根藩主の井伊直弼は、このような理由付けは小浜藩主酒井忠義では無理で、川路勘定奉行が小浜藩の要請を利用し、京都を守護すると言って幕府・朝廷間の融和を図ろうとしていると考えたのです。</p><p>じっさい川路は日露通好条約締結後には、<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/54983521" target="_blank" class="u-lnk-clr">安政の大火で焼失した御所の造営</a>（完成は安政2年）の責任者である「禁裏御普請御用」となって御所復旧の指揮をとり、朝廷に近づいていますから、そのように勘ぐったのかも知れません。</p><p>真の理由は分かりませんが、とにかく井伊大老が最初に行なった人事が、川路の左遷でした。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/4970b1bfc829362edf5acaf1b2a8be4d_906baf66b4548c1953810e03ccd2d7ba.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">川路聖謨『幕末・明治・大正　回顧八十年史』より</h4><p><br></p><h3>左遷された川路を西郷隆盛が慰問</h3><p>川路が西丸留守居に左遷されたとき、参勤交代で国元にいた島津斉彬が川路に送った手紙が『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/992345/1/333" target="_blank" class="u-lnk-clr">川路聖謨之生涯</a>』に掲載されています。</p><p>写真だけで活字になっていないのですが、その一部を読み下し文にすると以下のとおりです。</p><p><br></p><blockquote>此節御転役のよし驚き入り申し候、<br>しかし加様の御時節、却って御安心に存じ候、<br>是迄厚く御世話下され、万端都合も宜敷、忝じけなき次第に存じ候、<br>さて又異船一条種々入り組み相成り、容易ならざる御時節と恐れ入り存じ候、<br>今日家来吉兵衛差し立て候に付き、御内々是迄の御礼申し述ぶべく、自書をもって申し上げ候、<br>以来万事御心易くいたしたく、なお吉兵衛より申上ぐべく候&nbsp;<br>【川路寛堂 編述『川路聖謨之生涯』吉川弘文館　609頁】&nbsp;</blockquote><p><br></p><p>斉彬は、川路の異動を聞いておどろいたものの、こういうご時世だから閑職にいた方がかえって安心だとなぐさめています。</p><p>そうして、これまで世話になったお礼を言った上で、「家来の吉兵衛」を遣わしたので、くわしい話は吉兵衛から申上げますと書いています。</p><p>この「吉兵衛」というのは西郷吉兵衛つまり西郷隆盛のことで、吉兵衛だけで姓を書いていないのは川路がすでに西郷と面識があったからでしょう。</p><p>いかにも斉彬らしい心配りです。</p><p><br></p><h3>安政の大獄でさらに追い打ち</h3><p>西丸留守居への左遷人事は井伊大老が行なった安政の大獄とは別物でしたが、大獄が始まると川路はさらに追い打ち的に重罰を受けます。</p><p>安政の大獄のきっかけとなったのは、13代将軍家定の継嗣問題でした。</p><p>外圧で大変な時期に病弱で頼りない将軍では乗り切れないと誰もが考えて、早急に跡継ぎを求めたことから大権力闘争がくり広げられます。</p><p>家定の従兄弟でもっとも血筋が近い紀州藩主の徳川慶福（8歳）を押す「南紀派」と、英明といわれて信望がある即戦力の一橋慶喜（22歳）を押す「一橋派」の争いでした。</p><p>よく知られているように、この争いは井伊大老を中心とした南紀派が勝ち、一橋派の大粛正となる「安政の大獄」がはじまります。</p><p>安政の大獄では、大名・公家・志士・学者だけでなく、幕臣も処罰されました。</p><p>幕臣のなかでも外国との折衝に当たってきた海防掛の俊英たちは皆一橋派でしたから、井伊大老は彼らにも容赦なく罰をあたえました。</p><p>川路についても井伊は左遷では満足せず、翌安政6年（1859）に川路を隠居・蟄居にして、完全に政治の世界から追放してしまいます。&nbsp;</p><p>そうして彼らの後任には、ものごとを考えない井伊のイエスマンばかりを持ってきたので、幕府の外交能力は急低下しました。</p><p>歴史家の松岡英夫氏はその著書の中で、このように語っています。</p><p><br></p><blockquote>当時の幕府の高級官僚として行政の実際にあたっていた人物はすでに触れたように、それぞれに多数の徳川家臣団のなかから、その才能と経験を見て選び抜かれた人材であった。<br>川路聖謨、岩瀬忠震、大久保忠寛、永井尚志、水野忠徳らの名がまず思い浮かぶ。<br>いずれも能吏中の能吏であり、誠忠誠実の士であり、幕府の屋台骨をしっかりと支えた人物たちであった。幕府を支えた逸材というより、当時の日本を支えた人材だったといい得よう。<br>しかし井伊大老には、人に対するそういう目のつけどころがまるでなかった。<br>何年も前の敦賀と琵琶湖間水路開通のときの恨みやら、近くは将軍継嗣問題について一橋派に与した人びとへの処罰やらで、幕府内の報復的人事と思えるやり方で、要路に立っていた人材たちを一掃した。幕府の政治・行政能力はこのときに地に落ちた。<br>【松岡英夫『安政の大獄　井伊直弼と長野主膳』（中公文庫）】</blockquote><p><br></p><p>生麦事件の賠償金問題や長州藩外国船砲撃事件の事後処理など、このあと起こった外国との交渉において、幕府は一方的に押しまくられるだけのぶざまな姿をさらしてしまいますが、その原因が井伊大老が行なったこの報復人事にあったことは間違いありません。</p><p><br></p><h3>江戸城総攻撃予定日に自殺</h3><p>桜田門外で井伊大老が暗殺されたのち、島津久光の率兵上京をきっかけに、一橋慶喜や松平春嶽ら一橋派の復権がなされましたが、川路にはもう余力が残っていませんでした。</p><p>川路は蟄居中に体調を崩していて、文久3年（1863）に外国奉行に呼び戻されたものの、体調不良を申し出て半年で退任しました。&nbsp;</p><p>さらに慶応2年（1866）には中風（脳梗塞）で半身不随となってしまいます。&nbsp;</p><p>慶応4年（1868，9月に明治と改元）3月15日、江戸城総攻撃が行なわれる予定だった日に、川路は自分の部屋で腹を切った後ピストルで喉を撃って自殺しました。&nbsp;</p><p>低い身分だった自分を取り立ててくれた徳川幕府に、最後まで忠義を示したのです。&nbsp;</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[川路聖謨と北方領土]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/59011325/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/e7c26424548f68e24c25828c72fb9c02_fa6434360d0f3f8164950c97beb49efd.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/59011325</id><summary><![CDATA[ペリーの1ヶ月半後に来たのは？　島津斉彬の「時事談の友」だった川路聖謨ですが、彼を語る上でどうしてもはずせないのがロシアとの交渉です。日本の開国といえば、まず連想するのが「黒船来航」。嘉永６年（1853）にアメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが軍艦４隻で浦賀に現われて、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を手渡したことはよく知られています。ペリー艦隊が江戸湾に入ったのは6月3日でした。それから1ヶ月半後の7月18日、こんどはロシアの提督プチャーチンが同様に軍艦4隻をひきいて長崎にやって来るのですが、こちらはあまり注目されていません。手元にある山川出版社の高校日本史教科書『新もう一度読む山川日本史』でも、ペリーの説明には1頁半つかっているのに、プチャーチンは「ペリーにつづいてロシアの使節プチャーチンも来航し、開国をもとめた。」と、わずか1行で済まされています。しかし、歴史的に見ればロシアは1792年（寛政4年）にエカテリーナ女帝の命を受けたラクスマンが根室で対日通商を求めて以来の、つまりペリー来航より半世紀以上前からの、交渉になります。加えて、ロシアの要求にはアメリカが求める開国以外のことが含まれていました。日露間の国境画定です。ロシアの南下イギリスやフランス、アメリカなど西欧列強が東アジアに進出するルートは、インド洋・太平洋という「海」でしたが、ロシアだけは陸づたいに東をめざし、樺太や千島列島を南下しました。18世紀後半になると、南下してきたロシア人と現地の日本人とのあいだで衝突が起きはじめます。樺太や千島を含む蝦夷（えぞ）地を支配していたのは松前藩でしたが、危機を感じた幕府は最上徳内に命じて、天明5年（1785）に蝦夷地の巡検を、寛政3年（1791）に諸島の検分を行なわせました。最上は、クナシリ島からエトロフ島、さらにウルップ島にも上陸して調査し、同島で出会ったロシア人に島から退去するよう命じています。幕府は国防上、千島・樺太を含む蝦夷地を松前藩から取り上げ、直轄地（天領）として統治することに決めて、寛政10年（1798）に目付渡辺久蔵を長とする総勢180人の大調査団を派遣し、蝦夷地の本格的調査を行なっています。この調査団に加わっていた近藤重蔵は、最上徳内と共にクナシリ島・エトロフ島を調査し、エトロフ島にあったロシア人の十字柱を抜いて、代わりに「大日本恵登呂府」の標柱を立てています。19世紀になってからもロシアの動きは活発で、文化元年（1804）長崎に来たレザノフが通商を要求して幕府に拒絶されると、文化3年にロシア船が樺太を襲って日本人を捕虜とし、翌4年にはエトロフ島と利尻島を襲撃しています。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-07-12T07:00:34+00:00</published><updated>2026-08-19T00:55:51+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>ペリーの1ヶ月半後に来たのは？</h3><p>　島津斉彬の「時事談の友」だった川路聖謨ですが、彼を語る上でどうしてもはずせないのがロシアとの交渉です。</p><p>日本の開国といえば、まず連想するのが「黒船来航」。</p><p>嘉永６年（1853）にアメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが軍艦４隻で浦賀に現われて、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を手渡したことはよく知られています。</p><p>ペリー艦隊が江戸湾に入ったのは6月3日でした。</p><p>それから1ヶ月半後の7月18日、こんどはロシアの提督プチャーチンが同様に軍艦4隻をひきいて長崎にやって来るのですが、こちらはあまり注目されていません。</p><p>手元にある山川出版社の高校日本史教科書『新もう一度読む山川日本史』でも、ペリーの説明には1頁半つかっているのに、プチャーチンは</p><p>「ペリーにつづいてロシアの使節プチャーチンも来航し、開国をもとめた。」</p><p>と、わずか1行で済まされています。</p><p>しかし、歴史的に見ればロシアは1792年（寛政4年）にエカテリーナ女帝の命を受けたラクスマンが根室で対日通商を求めて以来の、つまりペリー来航より半世紀以上前からの、交渉になります。</p><p>加えて、ロシアの要求にはアメリカが求める開国以外のことが含まれていました。</p><p>日露間の国境画定です。</p><p><br></p><h3>ロシアの南下</h3><p>イギリスやフランス、アメリカなど西欧列強が東アジアに進出するルートは、インド洋・太平洋という「海」でしたが、ロシアだけは陸づたいに東をめざし、樺太や千島列島を南下しました。</p><p>18世紀後半になると、南下してきたロシア人と現地の日本人とのあいだで衝突が起きはじめます。</p><p>樺太や千島を含む蝦夷（えぞ）地を支配していたのは松前藩でしたが、危機を感じた幕府は最上徳内に命じて、天明5年（1785）に蝦夷地の巡検を、寛政3年（1791）に諸島の検分を行なわせました。</p><p>最上は、クナシリ島からエトロフ島、さらにウルップ島にも上陸して調査し、同島で出会ったロシア人に島から退去するよう命じています。</p><p>幕府は国防上、千島・樺太を含む蝦夷地を松前藩から取り上げ、直轄地（天領）として統治することに決めて、寛政10年（1798）に目付渡辺久蔵を長とする総勢180人の大調査団を派遣し、蝦夷地の本格的調査を行なっています。</p><p>この調査団に加わっていた近藤重蔵は、最上徳内と共にクナシリ島・エトロフ島を調査し、エトロフ島にあったロシア人の十字柱を抜いて、代わりに「大日本恵登呂府」の標柱を立てています。</p><p>19世紀になってからもロシアの動きは活発で、文化元年（1804）長崎に来たレザノフが通商を要求して幕府に拒絶されると、文化3年にロシア船が樺太を襲って日本人を捕虜とし、翌4年にはエトロフ島と利尻島を襲撃しています。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/e7c26424548f68e24c25828c72fb9c02_fa6434360d0f3f8164950c97beb49efd.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">エトロフ島標柱（内閣官房ホームページの一部を拡大）</h4><p><br></p><h3>長崎での交渉</h3><p>長崎にやって来たプチャーチンの要求は、アメリカ同様日本の開国と通商でしたが、それに加えて日露間の国境画定がありました。</p><p>ところが鎖国をつづけていた日本には、この案件に対応できる「外交官」がいなかったのです。</p><p>ペリーとの交渉で幕府の全権をつとめたのは儒学者（昌平坂学問所所長）の林大学頭です。</p><p>というのも、それまで幕府の外交といえば朝鮮通信使の接遇しかなく、儒教の礼法イコール外交だったからです。</p><p>ペリーが来たときに幕府の頭にあったのは外国との交渉ではなく、外交儀礼だったことが、この人事配置から窺えます。</p><p>プチャーチンに対してもそうです。</p><p>代表団首席は大目付格の筒井政憲ですが、彼は学問所の所長代理でした。</p><p>しかし筒井は名目上の代表で、実際に交渉を行なったのは川路聖謨です。</p><p>老中阿部正弘の指示は、①開国・通商の件はなるべく引き延ばし、②北方の境界の設定は、樺太（からふと）島においては、北緯50度の地を分界とし、千島列島はウルップ島までをなるべく日本の領土とするようにという、虫のいいものでした。</p><p>一方のロシアは、当時樺太やウルップ島を含む千島列島をほぼ実効支配しており、樺太だけでなく、カムチャッカ半島から蝦夷地にいたるまでの島々はすべてロシア領だと主張しました。</p><p>当時の軍事力を比較すると、日本と西欧列強との差は歴然としていました。</p><p>じっさい、ペリーとの交渉では日本が一方的に押しまくられています。</p><p>しかし、川路はたくみな弁舌でロシア側の要求をかわし、今は条約は結ばないが、結ぶときはロシアを最優先するとし、国境はあいまいなままにして、ロシアの主張を認めずにやり過ごしました。</p><p><br></p><h3>下田での交渉</h3><p>ロシアは当時起きていたクリミア戦争の影響もあり、軍艦をいつまでも長崎に留めておけないことから、一旦これで承諾しました。</p><p>しかし、そのすぐ後に日米和親条約が結ばれたため、交渉の第2ラウンドが下田ではじまります。</p><p>ところが交渉の途中、安政元年（1854）11月4日におきた安政の東海地震で、ロシア人が乗ってきた軍艦ディアナ号が津波により大破して沈没するという事態が勃発しました。</p><p>ロシアヘ帰る船を失ったプチャーチンは、代わりの船を建造したいと幕府に願い出て、幕府はこれを了承します。</p><p>そうして、下田からそう遠くない伊豆半島の西側、戸田（へだ）村において、ディアナ号から持ちだした設計図をもとに、ロシア人が日本の船大工を指導してスクーナー船の建造がはじまりました。</p><p>建造の責任者には川路と親しい韮山代官の江川太郎左衛門（英龍）が任命され、木材や金属部品などの資材はすべて幕府が調達して運び込んでいます。</p><p>こうして建造のメドがついたところで日露交渉を再開し、翌安政2年（1855）2月7日に日露通好条約（和親条約）が締結されました。</p><p>この条約のポイントは、樺太をあいまいなまま残す一方で、エトロフ島とウルップ島の間をロシアとの国境としたことです。</p><p>現在はロシアが不法占拠している北方4島ですが、日露通好条約によって日本に帰属していることが国際的に認められたものであることから、日本政府は条約が調印された２月７日を「北方領土の日」と定めています。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/d708befea68c9d93077c70838426e6e5_ecce4f01d3c5d0c1b8f0549cb24c9340.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">日露通交条約による国境線（内閣官房ホームページより）</h4><p><br></p><h3>川路の交渉力をプチャーチンが賞賛</h3><p>川路の外交手腕について、プチャーチンは<a href="https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2004/00561/contents/0017.htm" target="_blank" class="u-lnk-clr">報告書</a>の中でこのように書いています。</p><blockquote>全権団筒井肥前守と川路左衛門尉は、その考え方、表現、われわれに対する丁重さと慎重さにおいて、教養あるヨーロッパ人とほんど変わらない。<br>ことに川路は、その鋭敏な良識と巧妙な弁舌において、ヨーロッパ中のいかなる社交界に出しても一流の人物たり得るであろう。<br>&nbsp;【日本財団図書館ホームページ日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」より、『プチャーチンの上奏報告書』 】&nbsp;</blockquote><p>条約の交渉そして、締結がスムーズに行ったのは、プチャーチンが、ディアナ号沈没以来、日本人の手厚い行為に心を動かされたということもあったでしょう。</p><p>しかし、川路の「鋭敏な良識と巧妙な弁舌」が大きく寄与したことは間違いありません。&nbsp;</p><p>&nbsp;アメリカのペリーは、「東洋人を相手にするときはおどかすに限る」と言って強硬に振る舞い、いきなり江戸湾に突入して幕府を脅迫しました。</p><p>これに対し、プチャーチンは対日折衝において最後まで紳士的に行動しています。</p><p>その結果、当時は今とは逆にアメリカよりロシアの方が好感を持たれていました。&nbsp;</p><p>余談になりますが、建造開始から約3ヶ月たった安政2年（1855）3月には、2本マストで、全長25m、幅7ｍ、60人乗りの船が完成し、建造地にちなんで「ヘダ号」と名付けられました。</p><p>そして、 このときに覚えた技術によって、幕府はヘダ号と同じ形のスクーナー型帆船を「君沢形」（戸田村は君沢郡にあった）と名付けて、計10隻を建造しただけでなく、ヘダ号建造にたずさわった技術者たちが石川島造船所や、横須賀造船所で後輩の指導に当たっています。</p><p>ロシア人が日本の船大工を指導して軍艦を造ったことにより、西洋の造船技術が日本に伝わったのです。</p><p>「情けは人のためならず」ですね。</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[川路聖謨と鹿政談]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58987610/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/af381ef047d5c541b9f1612ee274ef42_bb23c90f1e91e99c619473f63941a58f.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58987610</id><summary><![CDATA[鹿政談とは　上方落語の演目のひとつに『鹿政談』というのがあります。噺（はなし）の始まりはこうです。江戸時代の奈良では、鹿は「春日大社の神様の使い」とされており、鹿を殺したものは死罪というきまりがありました。ある日の早朝のこと、正直者の豆腐屋が豆腐を作っているときに、店先においていた「きらず（おから）」を食べている犬に気づきます。それで犬を追い払おうと薪を投げたら、当たり所が悪くて死んでしまいました。ところが死骸をよく見たら犬ではなく鹿だったから、さあ大変。お白洲に引き出されたかわいそうな豆腐屋を、なんとか助けてやろうとする奈良奉行と豆腐屋の掛け合いが見どころです。で、なぜこのような話題を持ちだしたかというと、これが川路聖謨の実話にもとづいているからです。なお、『鹿政談』についてくわしく知りたい方は、上方落語の人間国宝・故桂米朝師匠の『鹿政談』をご覧ください。【落語】鹿政談　桂米朝神田伯山先生の講談も面白いです、こちらは歴史的背景や川路の人柄などまでくわしく解説されています。【講談】神田伯山「鹿政談」in 新宿末廣亭(2021年12月19日口演）天保の改革失敗で、川路も道連れ左遷前回『新人佐渡奉行川路聖謨の感化力』では、川路の佐渡奉行時代のエピソードをご紹介しました。川路は佐渡での風紀改善・経費節減の働きが認められて、天保の改革で有名な老中水野忠邦により、小普請奉行に抜擢されます。というのも小普請奉行というのは建設工事の責任者であり、昔から業者との癒着がひどい部署だったからです。川路はここでも辣腕をふるって大幅な経費節減を行ない、喜んだ水野は、川路を今度は土木工事の責任者である普請奉行に昇進させました。ところが、庶民に質素倹約を押し付けて楽しみをうばった緊縮財政派の水野が失脚し、そのあおりを受けて、普請奉行の川路も格下の奈良奉行に左遷されてしまいます。（水野に代わって老中首座となった阿部正弘が、ほとぼりが冷めるまで川路を江戸から離したという説もあります）奈良奉行は京都所司代の指揮下で、主な管理対象は奈良の社寺です。奈良は歴史が古いだけに社寺の格式も高く、けっこう面倒なポストでした。川路はここでも手腕を発揮したので人々から名奉行と賞賛されますが、その一つのエピソードが鹿政談という形で伝えられているのです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-07-05T08:00:58+00:00</published><updated>2026-08-19T00:52:29+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>鹿政談とは</h3><p>　上方落語の演目のひとつに『鹿政談』というのがあります。</p><p>噺（はなし）の始まりはこうです。</p><p>江戸時代の奈良では、鹿は「春日大社の神様の使い」とされており、鹿を殺したものは死罪というきまりがありました。</p><p>ある日の早朝のこと、正直者の豆腐屋が豆腐を作っているときに、店先においていた「きらず（おから）」を食べている犬に気づきます。</p><p>それで犬を追い払おうと薪を投げたら、当たり所が悪くて死んでしまいました。</p><p>ところが死骸をよく見たら犬ではなく鹿だったから、さあ大変。</p><p>お白洲に引き出されたかわいそうな豆腐屋を、なんとか助けてやろうとする奈良奉行と豆腐屋の掛け合いが見どころです。</p><p>で、なぜこのような話題を持ちだしたかというと、これが川路聖謨の実話にもとづいているからです。</p><p>なお、『鹿政談』についてくわしく知りたい方は、上方落語の人間国宝・故桂米朝師匠の『鹿政談』をご覧ください。</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=RUDXnBSYPcs" target="_blank" class="u-lnk-clr">【落語】鹿政談　桂米朝</a></p><p>神田伯山先生の講談も面白いです、こちらは歴史的背景や川路の人柄などまでくわしく解説されています。</p><p><a href="https://www.youtube.com/watch?v=Yd7jUCk5SBk&amp;t=1259s" target="_blank" class="u-lnk-clr">【講談】神田伯山「鹿政談」in 新宿末廣亭(2021年12月19日口演）</a></p><p><br></p><h3>天保の改革失敗で、川路も道連れ左遷</h3><p>前回『<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58968213" target="_blank" class="u-lnk-clr">新人佐渡奉行川路聖謨の感化力</a>』では、川路の佐渡奉行時代のエピソードをご紹介しました。</p><p>川路は佐渡での風紀改善・経費節減の働きが認められて、天保の改革で有名な老中水野忠邦により、小普請奉行に抜擢されます。</p><p>というのも小普請奉行というのは建設工事の責任者であり、昔から業者との癒着がひどい部署だったからです。</p><p>川路はここでも辣腕をふるって大幅な経費節減を行ない、喜んだ水野は、川路を今度は土木工事の責任者である普請奉行に昇進させました。</p><p>ところが、庶民に質素倹約を押し付けて楽しみをうばった緊縮財政派の水野が失脚し、そのあおりを受けて、普請奉行の川路も格下の奈良奉行に左遷されてしまいます。</p><p>（水野に代わって老中首座となった阿部正弘が、ほとぼりが冷めるまで川路を江戸から離したという説もあります）</p><p>奈良奉行は京都所司代の指揮下で、主な管理対象は奈良の社寺です。</p><p>奈良は歴史が古いだけに社寺の格式も高く、けっこう面倒なポストでした。</p><p>川路はここでも手腕を発揮したので人々から名奉行と賞賛されますが、その一つのエピソードが鹿政談という形で伝えられているのです。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/af381ef047d5c541b9f1612ee274ef42_bb23c90f1e91e99c619473f63941a58f.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">奈良公園の鹿（写真AC)</h4><p><br></p><h3>実録鹿政談</h3><p>では、実際の話はどうだったのでしょうか。</p><p>それは川路が奈良に赴任した弘化3年（1846）８月のことでした。</p><p>毎年行なっている「<a href="https://naradeer.com/event/tsunokiri.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">鹿の角切り</a>」において、一匹の大鹿を町の若者たちが力ずくで押えつけるときに、誤って殺してしまいました。</p><p>さあ、こうなると興福寺の衆僧（当時は神仏習合で、春日大社と興福寺は一体）たちが、黙っていません。</p><p>さっそく「鹿を殺した者を死罪にせよ」と、奉行所に訴え出ましたが、川路奉行はこう申し渡しました。</p><p>「鹿は、秋の中ごろになれば気が荒くなって人を傷つける。</p><p>それ故に、奉行所の許可をえて鹿を捕まえ、その角を切っているのだ。</p><p>元来鹿の角を切るということは、鳥の羽を切ったり、人の指を切ったりするのと同じで、傷つけることである。</p><p>このように、傷つけるのを許す以上は、誤って殺すこともありうると認めねばならぬ。</p><p>興福寺の決まりをもって裁くわけにはいかない」</p><p>と、申し立てを却下し、角切りの若者たちを無罪にしました。</p><p>落語や講談では川路が考えついたようにしていますが、これは川路の思いつきだけではありません。</p><p>佐渡奉行の時に奉行所の旧い規則を調べ尽くしたように、奈良でも昔の事例を確認しています。</p><p>そうすると、戦国時代以前には、鹿を殺した者は興福寺の山内を引き回した上で、「石粉つめ（石子詰め）」という生き埋めにする刑があったようですが、江戸時代にはなくなっていました。</p><p>興福寺では、山内の神木を伐採した者、寺僧を殺した者、神鹿を殺したものは死罪という決まりがあったものの、鹿を殺して死罪という例は寛永14年（1637）以降ありません。</p><p>つまり200年以上途絶えているのです。</p><p>時代もすっかり変わっているのに、そんな昔の決まりを適用することはできないというのが川路の判断でした。【川路寛堂『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/992345/1/82" target="_blank" class="u-lnk-clr">川路聖謨之生涯</a>』による】</p><p>興福寺に厳しめの判定を下した川路は、きちんとリカバリーもしています。</p><p>それが「川路桜」です。</p><p>興福寺や東大寺には桜やカエデの木が多いのですが、川路が赴任したころにはそれらの木々に立ち枯れが目立っていました。</p><p>そこで川路が率先して植樹運動を展開し、町の人々から集まった数千本の桜とカエデが両寺の境内に植えられたのです。</p><p>それらの木々は大きく育ち、「川路桜」と呼ばれて、いまでも奈良の景観をいろどっています。</p><p>【参考：『<a href="https://www.nikkei.com/article/DGXNASHC2601G_X20C13A3000000/?msockid=1ad0395a9e55698831722d969f2f6802" target="_blank" class="u-lnk-clr">木々植えた名奉行の思い継いで　 古きを歩けば・花ものがたり　川路桜（奈良市）</a>』】</p><p><br></p><h3>原典に当たる</h3><p>佐渡でも奈良でも、川路は新しい赴任地では、必ずそこにある過去の記録類を調べてから、仕事に着手していました。</p><p>私も銀行員時代にある部署に配属された時、先輩から同じようなことを言われたおぼえがあります。</p><p>銀行というのは、とにかく記録を残す社会です。</p><p>したがって、取引先ごとにたくさんのファイルが保管されています。</p><p>まずはそれを読み込んで、歴史的な経緯を知るのが仕事の第一歩だと教えられました。</p><p>それが終わるまでは取引先から何か言われても即答せずに、「戻って確認した上で、改めてご返事させていただきます」と答えて、上司や先輩に相談した上で返事するようにと釘を刺されました。</p><p>また、調べ物でも二次資料で済まさず、必ず原典にあたれと指導されました。</p><p>法律であれば、条文の確認だけでなく、なぜその法律が必要だったのかという「立法趣旨」まで調べろとも言われました。</p><p>結果として、連日夜10時過ぎまで残業してファイルと格闘です。</p><p>現在ならブラック企業と言われそうですが、当時はそれが当り前でした。</p><p>おかげで、今でも調べものは必ず原典に当たるという習慣がついています。</p><p>昨今はＡＩで効率的に仕事を進めることが重視されていますが、先だってＡＩに、ある人物評がどこに書かれているのかをたずねた時には、存在しない本や実在の本でも全く関係ない部分を紹介されて、困惑しました。</p><p>私の質問の仕方が下手なのかと思いつつ、目下は実力相応のアナログな史料探しを続けています。</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[新人佐渡奉行川路聖謨の感化力]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58968213/"></link><link rel="enclosure" type="image/png" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/861c86442f8554261afe78b7e9f86806_b318081e04bf8cedc2b03ab7e3235804.png"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58968213</id><summary><![CDATA[40歳で奉行に　島津斉彬の「時事談の友」と称された川路聖謨について、前回は父親のきびしい教育ぶりをご紹介しましたが、有名な人物なので幕吏になってからのエピソードもたくさん伝わっています。今回はその中から、佐渡奉行時代の勤務ぶりをご紹介します。以前、『幕府役人のキャリアパス』の話において、川路の経歴をこのように紹介しました。島津斉彬と親交のあった勘定奉行川路聖謨（としあきら）を例にあげると、地方代官所の手代（＝幕臣ではない）の子で、小普請組（＝無職）の御家人川路家の養子となり、13歳で家督を相続、17歳の時に筆算吟味に合格します。 翌年18歳で勘定所支配出役（＝非正規社員）となり、就職に成功。  21歳で支配勘定本役、つまり正社員に採用されました。  その後順調に出世を重ね、35歳で勘定吟味役になり、52歳のときに最終目標である勘定奉行に就任しています。勘定吟味役は川路のような下級士族にとって出世の登竜門となるポストで、彼は天保6年（1835）35歳でそこに到達しました。そうして5年間勘定吟味役をつとめますが、すでに名声を博していたようで、横井小楠も天保10年（1839）に藤田東湖の紹介で川路に会った後、「川路三左衛門（聖謨の旧名）殿を訪う。此人、其名を聞こと久し、果たして非常の英物なり」と書いています。【川路寛堂『川路聖謨之生涯』】小楠に会った翌天保11年、40歳の川路が家慶将軍から任じられたポストが佐渡奉行でした。現代におきかえると、35歳で課長になり、40歳で地方支店の支店長になったという感じでしょうか。佐渡奉行はふつうの遠国（おんごく）奉行のような所轄地域の行政・司法だけでなく、金山の管理という、幕府にとって重要な業務が加わります。奉行は2名いて江戸と佐渡に分かれて勤務しますが、1年交替制なので佐渡へ家族を帯同することは許されず、単身赴任です。しかし単身といっても奉行の赴任となると大ごとで、たくさんの従者をひきつれて大名行列のような移動になります。もともとが下級武士で質素倹約を旨とする川路は、軽装の少人数にて赴任したいと希望したのですが、旧例だからと簡素化は許されませんでした。佐渡へ渡るにも三つ葉葵の紋をかかげた帆船を何艘もの小舟が引くという、おおげさなことをするので、川路はさぞや居心地が悪かったのではないかと同情してしまいます。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-06-28T08:00:51+00:00</published><updated>2026-08-19T00:49:45+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>40歳で奉行に</h3><p>　島津斉彬の「時事談の友」と称された川路聖謨について、<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58933231" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>は父親のきびしい教育ぶりをご紹介しましたが、有名な人物なので幕吏になってからのエピソードもたくさん伝わっています。</p><p>今回はその中から、佐渡奉行時代の勤務ぶりをご紹介します。</p><p>以前、『<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58833777" target="_blank" class="u-lnk-clr">幕府役人のキャリアパス</a>』の話において、川路の経歴をこのように紹介しました。</p><blockquote>島津斉彬と親交のあった勘定奉行川路聖謨（としあきら）を例にあげると、地方代官所の手代（＝幕臣ではない）の子で、小普請組（＝無職）の御家人川路家の養子となり、13歳で家督を相続、17歳の時に筆算吟味に合格します。<br>&nbsp;翌年18歳で勘定所支配出役（＝非正規社員）となり、就職に成功。&nbsp;<br>&nbsp;21歳で支配勘定本役、つまり正社員に採用されました。&nbsp;<br>&nbsp;その後順調に出世を重ね、35歳で勘定吟味役になり、52歳のときに最終目標である勘定奉行に就任しています。</blockquote><p>勘定吟味役は川路のような下級士族にとって出世の登竜門となるポストで、彼は天保6年（1835）35歳でそこに到達しました。</p><p>そうして5年間勘定吟味役をつとめますが、すでに名声を博していたようで、横井小楠も天保10年（1839）に藤田東湖の紹介で川路に会った後、「川路三左衛門（聖謨の旧名）殿を訪う。此人、其名を聞こと久し、果たして非常の英物なり」と書いています。【川路寛堂『川路聖謨之生涯』】</p><p>小楠に会った翌天保11年、40歳の川路が家慶将軍から任じられたポストが佐渡奉行でした。</p><p>現代におきかえると、35歳で課長になり、40歳で地方支店の支店長になったという感じでしょうか。</p><p>佐渡奉行はふつうの遠国（おんごく）奉行のような所轄地域の行政・司法だけでなく、金山の管理という、幕府にとって重要な業務が加わります。</p><p>奉行は2名いて江戸と佐渡に分かれて勤務しますが、1年交替制なので佐渡へ家族を帯同することは許されず、単身赴任です。</p><p>しかし単身といっても奉行の赴任となると大ごとで、たくさんの従者をひきつれて大名行列のような移動になります。</p><p>もともとが下級武士で質素倹約を旨とする川路は、軽装の少人数にて赴任したいと希望したのですが、旧例だからと簡素化は許されませんでした。</p><p>佐渡へ渡るにも三つ葉葵の紋をかかげた帆船を何艘もの小舟が引くという、おおげさなことをするので、川路はさぞや居心地が悪かったのではないかと同情してしまいます。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/861c86442f8554261afe78b7e9f86806_b318081e04bf8cedc2b03ab7e3235804.png?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">川路寛堂『川路聖謨之生涯』より「佐渡奉行赴任渡海之図」<br>（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>佐渡奉行</h3><p>幕府は地方の直轄地（天領）の管理者として代官を置きましたが、外国貿易を行なう長崎や、京都の入口となる伏見、始祖家康をまつる東照宮がある日光など、重要な土地には代官ではなく奉行を配しました。</p><p>これが遠国奉行で、佐渡奉行もそのひとつです。</p><p>佐渡奉行の職務はさきに述べたように、佐渡全島の行政・司法にくわえて、金山の管理・運営があります。</p><p>佐渡金山は慶長6年（1601）に3人の山師によって開山され、早くも同8年（1603）に徳川幕府の直轄となって佐渡奉行所がおかれています。</p><p>川路が佐渡奉行を拝命したのが天保11年（1840）ですから、佐渡奉行所はすでに240年近い歴史がありました。</p><p>幕府の直轄地といっても奉行以外の役人は現地採用者で、転勤などなく、生涯佐渡奉行所で働いている人たちです。</p><p>長い歴史がある職場の場合、さまざまな独自の決まり（ローカル・ルール）が存在するのは、よくあることです。</p><p>じつは川路が佐渡奉行に任じられたとき、上司である老中水野忠邦から、「金山のある佐渡は幕府にとって重要なところだが、江戸から遠いために役人たちが勝手なことをしているようなので、これを改めさせるように」との指示を受けていました。</p><p>では、川路はどのようにしてその悪習をやめさせたのか？</p><p>そのやり方が面白いので、ご紹介します。</p><p><br></p><h3>奉行所の風紀を一新</h3><p>前回も書きましたが、川路の実父は豊後日田の代官所手代でした。</p><p>そのため、川路は天領の役人がどういうものかをよく知っていたと思われます。</p><p>天領で本当に力を持っているのは奉行や代官ではなく、ずっとそこに居続けている地役人たちです。</p><p>転勤族である奉行が権力で押え付けようとすれば、奉行所の仕組みを知りつくしている地役人たちから、どのようなずる賢い反撃を受けるかわかりません。</p><p>では川路はどうしたのか？</p><p>かれは着任しても新しい指示を出すことを一切せずに、役人を観察して実態把握につとめたのです。</p><p>そのかたわら古い記録を読み込んで、以前に制定された規則で現在は休眠状態にあるものを調べました。</p><p>そうして現状改善に役立つと思われる規則をえらび出し、着任後2ヶ月以上が過ぎたのち、「このような先例がある」といって、それらの規則を復活させていったのです。</p><p>江戸時代は旧例主義ですから、「先例遵守」は最優先されます。</p><p>こうして川路はおだやかにローカル・ルールを変えていきましたが、それは「改革」というよりもむしろ「復古」というべき方法でした。</p><p>これには地役人たちも従うしかありません。</p><p>また、私生活面でも質素を徹底しました。</p><p>まずはふだんの食事を担当する役人に書付を渡し、</p><p>「食事は倹素にして、朝は塩抜き、昼は香の物（漬物）か味噌の類一品、夜食は何でも一菜、もっとも汁があれば菜は無用。</p><p>ただし二度は麦飯たるべく、三度共に（飯を）炊き候こと相成らず」</p><p>と申し渡しました。</p><p>また島民の実情を把握するために、金山だけでなく島内のあちこちを巡視し、じつに79ヶ村を訪れたとされています。</p><p>その際は旧例にしたがって多くの従者を連れざるをえなかったのですが、各村に「特別な接遇は無用、食事は粗食で」と厳命し、従者たちには相当の食事をさせても、自分は『焼飯（焼きおにぎり？）と味噌』のみという徹底ぶりでした。</p><p>また、村役人などが贈り物を差し出しても、受け取ることは一切させませんでした。</p><p>このため、川路の巡検で各村が負担した費用は、歴代奉行の3分の1で済んだそうです。</p><p>そうして奉行所にいるときは、明け方に鎗か居合の稽古、朝食後少し読書をして奉行所に出勤、退出後は宿舎でひたすら読書という生活でした。</p><p>奉行のこんなストイックな態度をみていれば、役人たちも日ごろの生活を恥じて、仕事の進め方や勤務態度を変えざるを得ません。</p><p>川路がわずか1年在任するあいだに、佐渡奉行所の風紀は一変したそうです。</p><p><br></p><h3>新任支店長の心得</h3><p>川路の話を書いていて思い出したことがひとつありました。</p><p>サラリーマン時代に、ある都市銀行の人事部長ＯＢから聞いた話です。</p><p>その方が人事部長だったとき、新しく支店長に昇格した行員の研修でこんな話をしていたそうです。</p><p>「支店長という一国一城の主になったら、やりたいことは色々あるでしょう。</p><p>しかし、赴任して最初の3ヶ月はいっさい新しい指示は出さないようにしなさい。</p><p>ただ、これはおかしいと思ったことをすべてメモしておくのです。</p><p>バカなやり方をしていると思っても、何か理由があってそうしているのかも知れない。</p><p>まずはそれを調べて、それでもおかしいと思ったら対策を考えておく。</p><p>そうして3ヶ月が過ぎてから、理由を説明して指示を出すようにすれば、部下も納得します。</p><p>はやる気持ちを抑えて、まずはよく観察してください」</p><p>川路が佐渡で行なったのは、まさにこれと同じでした。</p><p>江戸時代ですから新任奉行研修などあるはずがないので、これは川路が自分でつかんだやり方でしょう。</p><p>御家人という下級武士の出身でありながら、勘定奉行にまで登りつめる人物はやはりちがいますね。</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[教育で出世”させる”]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58933231/"></link><link rel="enclosure" type="image/png" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/a24305ffeaf4cb6ef725247545634f67_d3557369906f2c9c55226826491ab31c.png"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58933231</id><summary><![CDATA[長男・次男を養子に出す　以前に「幕府役人のキャリアパス」の回で取り上げた幕末の名勘定奉行川路聖謨ですが、彼は豊後日田の代官所手代内藤吉兵衛の長男として日田で生まれました。幼名は弥吉といいます。父吉兵衛は甲州の浪人で、諸国を放浪中に日田の代官所手代と知り合い、その娘を嫁にして自分も代官所で働いていました。以前にも書いたように代官は幕臣ですが、現地採用である手代は幕臣ではありません。多少学問もあった吉兵衛は、日田でこのまま埋もれてしまうより幕臣になって世に出たいと考え、妻子をつれて江戸に移り住みます。吉兵衛は日田で蓄えた金に甲州にあった親の遺産を売却した金を加えて江戸で御家人株を買い、下級役人である徒士に採用されました。しかし上司と折り合いが悪く、うつうつとした日々を過ごしていました。そうしているうちに自分の年齢ではもはや出世は望めないと思い当たり、二人の息子（江戸で次男松吉、のちの外国奉行井上清直が生まれていた）を教育して、彼らを世に出そうと決心したのです。この吉兵衛が親しくしていた人物に、小普請組（無役の御家人）の川路三左衛門がいました。小普請組ですから仕事はなく、園芸を楽しんだり、友人を訪問したりして日々を過ごしていたのですが、あるとき弥吉をみかけて、吉兵衛に「自分には子供がいないが、あなたは男子ふたりいるから、弥吉を養子にもらえないか」と持ちかけました。弥吉は長男なので吉兵衛はことわったのですが、しつこく頼まれるうちに、「川路の家を継げれば弥吉にとってはいい話だし、次男に後を継がせれば我が家も続く」と考えました。そこで三左衛門と相談し、引き続き自分の手元に置いて教育するという条件で養子を承諾します。次に生まれた三男の重吉も健康に育ってくると、こんどは次男松吉を井上新右衛門という御家人（持組与力）の養子に出しました。ほどなくして井上の養父が亡くなったため、井上家親類の決議で吉兵衛が松吉の後見をすることになり、屋敷が広い井上家に内藤一家が引っ越して、息子たちの家庭教育が本格的にはじまります。と、前置きが長くなりましたが、本題はここからです。昼は読書、夜は復習20回明治22年にでた『江戸会雑誌』に掲載された「名家逸事　川路聖謨」に、父吉兵衛のスパルタ教育ぶりが書かれていました。それによると、吉兵衛は聖謨兄弟が幼い時よりひたすら読書をやらせて、みだりに外出することを許さなかったそうです。遊びたい盛りの子供なのに、許されるのは日没後から部屋に明かりをともすまでのわずかな間だけ、しかもそれすら稀であったと書かれています。そうして、夜になると昼間学習したところを20回復習するまで寝かせませんでした。その間吉兵衛はそろばんを横に置き、1回ごとに玉を動かして回数を確認していたそうです。ある夜隣人が訪れたので、吉兵衛は隣人と話をしながら聖謨の復習をかぞえていて、玉を動かし忘れたことがあります。聖謨が20回の復習をおえて、読み上げるのをやめると、吉兵衛が「回数が足りない」と叱りました。聖謨が「20回やりました」と反論したら、吉兵衛は怒ってそろばんをご破算にし、もう一度はじめから20回やらせたので、隣人はその厳格さにおどろいたそうです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-06-21T08:00:09+00:00</published><updated>2026-06-28T04:30:40+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>長男・次男を養子に出す</h3><p>　以前に「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58833777" target="_blank" class="u-lnk-clr">幕府役人のキャリアパス</a>」の回で取り上げた幕末の名勘定奉行川路聖謨ですが、彼は豊後日田の代官所手代内藤吉兵衛の長男として日田で生まれました。</p><p>幼名は弥吉といいます。</p><p>父吉兵衛は甲州の浪人で、諸国を放浪中に日田の代官所手代と知り合い、その娘を嫁にして自分も代官所で働いていました。</p><p>以前にも書いたように代官は幕臣ですが、現地採用である手代は幕臣ではありません。</p><p>多少学問もあった吉兵衛は、日田でこのまま埋もれてしまうより幕臣になって世に出たいと考え、妻子をつれて江戸に移り住みます。</p><p>吉兵衛は日田で蓄えた金に甲州にあった親の遺産を売却した金を加えて江戸で御家人株を買い、下級役人である徒士に採用されました。</p><p>しかし上司と折り合いが悪く、うつうつとした日々を過ごしていました。</p><p>そうしているうちに自分の年齢ではもはや出世は望めないと思い当たり、二人の息子（江戸で次男松吉、のちの外国奉行井上清直が生まれていた）を教育して、彼らを世に出そうと決心したのです。</p><p>この吉兵衛が親しくしていた人物に、小普請組（無役の御家人）の川路三左衛門がいました。</p><p>小普請組ですから仕事はなく、園芸を楽しんだり、友人を訪問したりして日々を過ごしていたのですが、あるとき弥吉をみかけて、吉兵衛に「自分には子供がいないが、あなたは男子ふたりいるから、弥吉を養子にもらえないか」と持ちかけました。</p><p>弥吉は長男なので吉兵衛はことわったのですが、しつこく頼まれるうちに、「川路の家を継げれば弥吉にとってはいい話だし、次男に後を継がせれば我が家も続く」と考えました。</p><p>そこで三左衛門と相談し、引き続き自分の手元に置いて教育するという条件で養子を承諾します。</p><p>次に生まれた三男の重吉も健康に育ってくると、こんどは次男松吉を井上新右衛門という御家人（持組与力）の養子に出しました。</p><p>ほどなくして井上の養父が亡くなったため、井上家親類の決議で吉兵衛が松吉の後見をすることになり、屋敷が広い井上家に内藤一家が引っ越して、息子たちの家庭教育が本格的にはじまります。</p><p>と、前置きが長くなりましたが、本題はここからです。</p><p><br></p><h3>昼は読書、夜は復習20回</h3><p>明治22年にでた『江戸会雑誌』に掲載された「名家逸事　川路聖謨」に、父吉兵衛のスパルタ教育ぶりが書かれていました。</p><p>それによると、吉兵衛は聖謨兄弟が幼い時よりひたすら読書をやらせて、みだりに外出することを許さなかったそうです。</p><p>遊びたい盛りの子供なのに、許されるのは日没後から部屋に明かりをともすまでのわずかな間だけ、しかもそれすら稀であったと書かれています。</p><p>そうして、夜になると昼間学習したところを20回復習するまで寝かせませんでした。</p><p>その間吉兵衛はそろばんを横に置き、1回ごとに玉を動かして回数を確認していたそうです。</p><p>ある夜隣人が訪れたので、吉兵衛は隣人と話をしながら聖謨の復習をかぞえていて、玉を動かし忘れたことがあります。</p><p>聖謨が20回の復習をおえて、読み上げるのをやめると、吉兵衛が「回数が足りない」と叱りました。</p><p>聖謨が「20回やりました」と反論したら、吉兵衛は怒ってそろばんをご破算にし、もう一度はじめから20回やらせたので、隣人はその厳格さにおどろいたそうです。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/a24305ffeaf4cb6ef725247545634f67_d3557369906f2c9c55226826491ab31c.png?width=960" width="100%">
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			<p>また、大正3年の史談会では法学者の松平正親がこんな話を披露していました。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点とカギ括弧をおぎなっています）</p><blockquote>幕末の名士川路左衛門尉の阿父さんは非常に厳格な人であって、左衛門尉が子供の時に何か悪遊戯をしたというので、縄で縛って井戸の中へつるし上げて置いた。<br>近所の人が非常に驚いて止めに行った処が、「自分のせがれは、布衣以上になれなければ死んでしまってもよろしい」と申したそうであります。<br>この時代に御家人のせがれが布衣以上になるなどということは、今の書生が大臣になるというよりはモット素晴らしい突飛なことをいう様に聞こえたということである。<br>【松平正親「旧幕府旗下の制度に就て」『史談会速記録　第261輯』】</blockquote><p>イタズラをしたから、縄で縛って井戸の中につるすというのはずいぶん乱暴な話で、現代なら児童虐待だとして間違いなく警察に逮捕されるはずです。</p><p>「布衣（ほい）」というのは武家の官位で六位に相当し、旗本の中でも「重き御役人」とよばれる上級職のことです。</p><p>ちなみに老中でも四位ですから、六位というのは相当な地位です。</p><p>吉兵衛は幕臣の中でも最下層の御家人であり、聖謨が養子に入った川路家もわずか50俵の小普請組御家人ですから、上級旗本になるなどというのは「夢のまた夢」のような話でしたが、聖謨も弟の井上清直もそれを実現しています。</p><p>吉兵衛のスパルタ教育がみごとに成果をあげたといえましょう。</p><p><br></p><h3>兄二人は人間、末っ子は豚犬</h3><p>川路聖謨と井上清直は大出世したのですが、末弟はどうだったのでしょう。</p><p>先ほどの「名家逸事　川路聖謨」にはこのような記述があります。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点とカギ括弧をおぎなっています）</p><blockquote>吉兵衛男の子三人あり。<br>長はすなわち聖謨、次は清直、次は幸三郎という。<br>常にいうには「伯仲はあるいは人と成るを得べし、季は豚犬のみ」と。<br>因って伯仲は他姓を嗣して、季は家に留めしが、果して聖謨清直は顕職に登りしに、幸三郎は新潟奉行支配組頭より新番に転じて終れり。</blockquote><p>古来中国では、男の兄弟を上から順に、伯（長男）・仲（次男）・叔（三男）・季（末っ子）と呼びます。</p><p>つまり伯仲とは長男次男で聖謨・清直のこと、季は末っ子の幸三郎をさします。</p><p>兄二人はエライ人になるかも知れないので他家に養子に出すが、末っ子の幸三郎はダメだから恥ずかしいので内藤の家に置いておくことにしたのです。</p><p>しかし「豚犬のみ」とはひどいですね。</p><p>ついでにいうと、長男と次男はあまり離れていないことから、実力が接近していることを「伯仲」というようになったそうです。</p><p>もうひとつよけいなことをいうと、同じ「おじさん」でも親より年長であれば「伯父」、年少であれば「叔父」と書きます。</p><p><br></p><h3>もっと教育したかった</h3><p>以前にも書きましたが川路聖謨は17歳で筆算吟味に合格しています。</p><p>水谷三公国学院大学教授の『江戸の役人事情』（ちくま新書）によれば、筆算吟味は公平な試験ではなく勘定所役人の惣領息子は優先的に合格させていたようなので、部外者の川路が合格したというのは相当な学力があったことを示しています。</p><p>弱冠17歳で筆算吟味に合格するほどの学力をつけたのですから、教育するという目標は達成できたと思うのですが、吉兵衛はまだ途中だと考えていたようで、合格を喜ばずにこんな感想をもらしていたそうです。（読みやすくするため、現代仮名づかいに変えています。原文は<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/992345/1/27" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>）</p><blockquote>かれ（聖謨）は、かなりの材木になるかも知れずと思い、七八歳の時より、肥しをなし、あしき芽は芟（かり）取、成長の後をはかるに、皆よりて縁日の鉢植となして、早く売らんとす。<br>さてさて是非もなきことなり。<br>併（し）かれども望あるゆえに、それに任せて、われは何ともいわず。<br>【川路寛堂 編『川路聖謨之生涯』吉川弘文館】</blockquote><p>もっと勉強させて鍛えたかったけれども、周囲の者がはやく受験させろというので仕方なかった、しかしまわりの期待もあるからそれを尊重して黙っていた、というところでしょうか。</p><p>勉強については川路自身も同様に考えていたらしく、「もう10年も勉強できていれば、その益も多かっただろうに早く出仕してしまったのは、今更ながら残念に思う」ともらしていました。</p><p>その残念さをおぎなうためか、川路は仕事以外の時間は読書や武術の稽古にはげみ、遊んでいる時間はほぼありませんでした。</p><p>このような生活スタイルは「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58219642" target="_blank" class="u-lnk-clr">働いて×５</a>」で取り上げたワーカホリックの島津斉彬とおなじです。</p><p>だから二人は周囲から「時事談の友」と言われるほど、意気投合していたのでしょう。</p><p><br></p><p><br></p><p><br></p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[老中のキャリアパス]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58892572/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/a30eb69dadf1bc8675b4ddbac2ba2ab9_543f45c1f4808acfa5c31d408c7354f2.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58892572</id><summary><![CDATA[徳川幕府の大臣職　旗本のキャリアパスについて説明したので、ついでに老中のキャリアパスにも触れておきます。ご存じのように老中というのは現在の日本政府でいえば閣僚にあたるポストです。老中を閣僚とすると、その上には総理大臣にあたる「大老」職がありますが、こちらは臨時に設けられるポストで、徳川幕府15代265年間で9名しか任命されていません。いっぽう老中は常設で、常時4～5名が在籍して幕府の政務を総理します。徳川幕府創設者の家康は、大名が謀反を起こせなくするために、実力（資力＝石高）と権力が重ならないように配慮しました。そこで謀反をおこす可能性が高い外様大名には大きな石高を認める代りに政策にはタッチさせず、国政を担う老中は5万石から10万石の譜代大名（＝あまり資力のない子飼いの家来）から任命するようにしたのです。老中には月番が決められていて毎月交替で政務を見ることになっていましたが、職務多忙かつ重要案件は合議する必要があったことから非番の老中も毎日登城しており、月番はその月の事務責任者というイメージだったようです。以前「老中も部下次第？」で触れたように、老中というのはたいへんな権威があり、かつ頼みごとを持ち込む諸大名や旗本たちからの付け届けも多かったので、譜代の小大名にとってはあこがれのポストでした。老中になるための関門あこがれのポストである老中職ですが、そこにたどり着くためにはさまざまな関門ポストを突破する必要がありました。具体的にはこうなっています。門番（本丸大手、西丸大手の警備）　↓奏者番（儀式の差配）　↓寺社奉行（弁が立つ神官・僧侶の管理や訴訟の裁き）　↓大坂城代（雄藩の多い西国大名の統括）　↓京都所司代（権高な公家たちとの折衝）　↓老中（ゴール！）門番からはじまって京都所司代まで、5つの役職をクリアできれば国政担当能力があると認定されるわけです。まずは門番からスタートとなる大手門の門番については以前「暴れ隠居の横綱」で触れましたが、10万石以上の譜代大名が務めるポストです。それより小さい禄高の譜代大名は西丸大手門の門番となります。門番といっても、江戸城正門のガードですから当然武装した兵士を配備しなければなりません。そうして水も漏らさぬ警備を行なうのです。市岡正一の『徳川盛世録』によれば、大手門門番は鉄炮30挺、弓10張、長柄鎗20筋、持筒2挺、持弓2張の武器を備えて、10人の番士が詰めていたとあります。（西丸門番は鉄炮が20挺に減るだけで、あとは同じ）時代は少し下がりますが、明治4年に撮影された大手門奥「中之門」の写真が残っています（くわしく知りたい方はこちら）]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-06-14T08:00:48+00:00</published><updated>2026-06-14T08:29:22+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>徳川幕府の大臣職</h3><p>　旗本のキャリアパスについて説明したので、ついでに老中のキャリアパスにも触れておきます。</p><p>ご存じのように老中というのは現在の日本政府でいえば閣僚にあたるポストです。</p><p>老中を閣僚とすると、その上には総理大臣にあたる「大老」職がありますが、こちらは臨時に設けられるポストで、徳川幕府15代265年間で9名しか任命されていません。</p><p>いっぽう老中は常設で、常時4～5名が在籍して幕府の政務を総理します。</p><p>徳川幕府創設者の家康は、大名が謀反を起こせなくするために、実力（資力＝石高）と権力が重ならないように配慮しました。</p><p>そこで謀反をおこす可能性が高い外様大名には大きな石高を認める代りに政策にはタッチさせず、国政を担う老中は5万石から10万石の譜代大名（＝あまり資力のない子飼いの家来）から任命するようにしたのです。</p><p>老中には月番が決められていて毎月交替で政務を見ることになっていましたが、職務多忙かつ重要案件は合議する必要があったことから非番の老中も毎日登城しており、月番はその月の事務責任者というイメージだったようです。</p><p>以前「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/56381612" target="_blank" class="u-lnk-clr">老中も部下次第？</a>」で触れたように、老中というのはたいへんな権威があり、かつ頼みごとを持ち込む諸大名や旗本たちからの付け届けも多かったので、譜代の小大名にとってはあこがれのポストでした。</p><p><br></p><h3>老中になるための関門</h3><p>あこがれのポストである老中職ですが、そこにたどり着くためにはさまざまな関門ポストを突破する必要がありました。</p><p>具体的にはこうなっています。</p><p><br></p><blockquote>門番（本丸大手、西丸大手の警備）<br>　↓<br>奏者番（儀式の差配）<br>　↓<br>寺社奉行（弁が立つ神官・僧侶の管理や訴訟の裁き）<br>　↓<br>大坂城代（雄藩の多い西国大名の統括）<br>　↓<br>京都所司代（権高な公家たちとの折衝）<br>　↓<br>老中（ゴール！）</blockquote><p><br></p><p>門番からはじまって京都所司代まで、5つの役職をクリアできれば国政担当能力があると認定されるわけです。</p><p><br></p><h3>まずは門番から</h3><p>スタートとなる大手門の門番については以前「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/55201252" target="_blank" class="u-lnk-clr">暴れ隠居の横綱</a>」で触れましたが、10万石以上の譜代大名が務めるポストです。</p><p>それより小さい禄高の譜代大名は西丸大手門の門番となります。</p><p>門番といっても、江戸城正門のガードですから当然武装した兵士を配備しなければなりません。</p><p>そうして水も漏らさぬ警備を行なうのです。</p><p>市岡正一の『徳川盛世録』によれば、大手門門番は鉄炮30挺、弓10張、長柄鎗20筋、持筒2挺、持弓2張の武器を備えて、10人の番士が詰めていたとあります。（西丸門番は鉄炮が20挺に減るだけで、あとは同じ）</p><p>時代は少し下がりますが、明治4年に撮影された大手門奥「中之門」の写真が残っています（くわしく知りたい方は<a href="https://tokyo-trip.org/spot/visiting/tk0351/" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>）</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/a30eb69dadf1bc8675b4ddbac2ba2ab9_543f45c1f4808acfa5c31d408c7354f2.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">明治4年の江戸城「中之門」（『幕末・明治・大正回顧八十年史』第1輯）</h4><p><br></p><h3>寺社奉行は持ち出し、大坂城代で一息</h3><p>門番を無事に勤め上げると、次の関門は奏者番（そうしゃばん）です。</p><p>職務は年頭や五佳節、朔望などの登城日に諸大名が将軍に謁見するときの指図をしたり、進物の披露をしたりなど、殿中の礼式に関することをつかさどるもので、現代でいえば宮内庁の式部官のようなポストです。</p><p>人数は結構多くて、最大では24名いたときもあったようです。</p><p>寺社奉行はこの中から選ばれるため、奏者番は譜代大名が出世するための登竜門という位置づけでした。</p><p>そうしてここをパスすると、いよいよ江戸幕府三奉行のひとつ、寺社奉行です。</p><p>他の二つの奉行職（町奉行・勘定奉行）は旗本ポストですが、寺社奉行だけは大名が務めます。</p><p>職務は全国の神官・僧侶および寺社領の人民を治め、その訴訟を審理することです。</p><p>寺社奉行所というのがないため、自藩の藩邸を庁舎として訴訟をさばきます。</p><p>また旗本とちがって大名は家来を多く抱えているため、寺社奉行には町奉行の与力・同心のような配下がいません（調役のみ勘定所より出役）。</p><p>それで藩士の中の物頭や番頭などを大検使に任じて、日常的に寺社を巡視させ、犯罪事件はもとより、相撲や芝居興行などの取締りから神官・僧侶の素行調査も行なっていました。</p><p>これらに要する費用はすべて自己負担だったことから、藩主が寺社奉行になっている藩は経済的に苦しかったようです。</p><p>次のポストとなる大坂城代は、大坂城中に居住し、関西33国の総探題として治安維持ならびに訴訟を裁きました。</p><p>平時は大阪・堺の両町奉行を監督して、事変が起きれば関西33国の大名の総指揮をとることになります。</p><p>関西以西には外様の雄藩が多く譜代大名は少ないという土地柄なので、大坂城代は重要な役目をおびた職とされ、任に赴くときは将軍の謁をたまわり、軍司令官の証である黒印状と刀馬時服をさずけられました。</p><p>寺社奉行とは異なり、配下には城の警備に当たる定番（城番）、東西の町奉行、さらには金奉行（金銭の出納）や蔵奉行（米穀の出納）、具足奉行（城内備え付けの具足管理）など各種実働部隊がいたことに加え、大坂自体が裕福な町だったので、寺社奉行時代とは一転して経済的にはプラスになる職務でした。</p><p>この大坂城代までの職務を無事勤めあげた大名がいどむのが、最終関門の京都所司代です。</p><p><br></p><h3>京都所司代は公家で苦労</h3><p>京都所司代の職務について、江戸幕府の職制にくわしい大槇紫山はこのように述べています。（読みやすくするため現代仮名づかいに変え、一部漢字を平仮名にして、句読点を補なっています）</p><blockquote>京都所司代は、徳川幕府の対朝廷政策のために特設した最重要な職であり、将軍直属の顕職として幕府有能の士を選ぶを怠らなかった。<br>溜間（たまりのま）詰で役料一万石を給せられたのは、老中さえ無給であったに比し、いわゆる機密費か交際費かの意味あいのあったこと察知すべく、三万石以上の譜代大名のみが任命された。<br>（中略）<br>職務としては、禁闕を守護し官用を弁理する外、京都町奉行および奈良伏見の両奉行を管理し、訴訟を聴き、兼ねて社寺の事を総掌したもので承応三年（1654）十一月に始めて与力十人、同心百人を隷属せしめ不慮の変に備え、明暦元年（1655）八月に至って与力四十人を増してこれを五十騎とした。<br>【大槇紫山『江戸時代の制度事典』歴史図書社版】</blockquote><p>以前「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58386635" target="_blank" class="u-lnk-clr">殿席のランクと配置は？</a>」で説明したように、京都所司代が詰める「溜の間」は臣下にあたえられた最高の席」といわれ、大老クラスの家柄の大名や老中OBなどいわば将軍の政策顧問たちが詰める部屋です。</p><p>この高い格式に加えて、役料1万石（現代の貨幣価値におきかえれば交際費10億円！）が支給されています。</p><p>いいかえれば、それだけたいへんな職務だったということです。</p><p>幕末の京都については、元旗本の田中安国が大正6年（1917）の史談会でこのような話をしていました。（読みやすくするため現代仮名づかいに変え、一部漢字を平仮名にして、句読点を補なっています）</p><blockquote>その時分の公家様は神様気取りで、堂上方という者がおよそ百軒あまりもありましたもので、その百軒有余の堂上方を統御しなければならぬ。<br>いくら大名であっても吾妻夷（あずまえびす：関東の野蛮人）と言って軽蔑されて、なかなか統御することが出来ぬ。<br>それが京都の統御よろしきを得たくらいのひとであると、それから閣老に上って御老中となる。<br>【田中安国「慶応三年大阪警衛当時の実況」『史談会速記録　第290輯』】</blockquote><p>公家は家禄が少なくて五摂家筆頭の近衛家でも2,800石しかなく、「30石公家」という言葉があったほど貧しかったのですが、武家にくらべると官位だけはやたらと高くなっていました。</p><p>そのため、この高い官位をふりかざして幕府の役人にいやがらせをすることがよくあったようです。</p><p>田中は上方にいたのでこのような状況をよく知っていたのでしょう。</p><p>なんにせよ、老中選抜システムをくぐり抜けるのもなかなか大変だったようです。</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[優秀な人材は下級武士から]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58871983/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/0e0babfcbc9bd7b852b9d714bc989df8_e26ceef9c13d9b3404eb7e87cfa1db39.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58871983</id><summary><![CDATA[有為の才は俗吏に多し　前回の冒頭に、幕末に軍艦奉行や勘定奉行などをつとめた木村喜毅の言葉を紹介しました。彼は、幕府の官吏登用にはキャリア官僚となる「武人」とノンキャリア官僚である「小吏」の2種があると説明しています。木村の出自は代々浜御殿（現在は東京都中央区にある浜離宮恩賜庭園）奉行をつとめた家柄です。浜御殿奉行というのは、かんたんにいうと将軍の別荘管理責任者ですが、布衣（ほい：武家官位で六位に相当）の旗本で役料が400俵ありますから「武人」です。さらに学問吟味で優秀な成績を治めて登用されているので、彼はキャリア官僚のエリ－トといってよいでしょう。興味深いのは、その木村が「しかれども、古今往々有為の才を出だすは俗吏の方割合に武人より多しといえり」つまり、「昔から優秀な人材はノンキャリア（＝下級武士）の方に多く出現するといわれている」と語っていることです。じっさい、江戸中期の有名な儒学者荻生徂徠は、8代将軍吉宗に提出した意見書『政談』の中でこのように述べています。太平久しくなれば、よき人は下より出て、上の人はおろかになり行く事は、いかようなる事なれば、総じて人の才智はさまざまの難儀困究をするより出来るもの也。総じて人の身は使うところたくましくなり、強くなる物にて、手をつかう時はうで強くなり、足をつかえば足強くなる。弓・鉄炮などにねらいを仕つくれば目つよくなる。心を使えば心に才智生ず。難儀困究にさまざまあう時は、さまざまにもまれて才智たくましくなる。これ自然の道理なり。【荻生徂徠著　辻達也校注『政談』岩波文庫】徂徠は「人の身体というものは使うところが強くなる、才智も同じで、これは自然の道理なのだ」と看破しています。自ら刀を振るって戦った戦国時代が終わり、太平の世が長く続くと、上級武士の仕事は部下を管理するだけになります。さらに江戸時代はなにごとも前例踏襲でしたから、創意工夫はいりません。つまり上級武士はルーティンワークの繰り返しだけ。じっさいに手足を動かして仕事をするのは下級武士、現場で知恵をしぼるのも下級武士です。となれば上級武士は無能になり、手足に加えて頭も使う下級武士から優秀な人間が現れるのは、理の当然ということです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-06-07T08:00:17+00:00</published><updated>2026-06-07T08:02:24+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>有為の才は俗吏に多し</h3><p>　<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58833777" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>の冒頭に、幕末に軍艦奉行や勘定奉行などをつとめた木村喜毅の言葉を紹介しました。</p><p>彼は、幕府の官吏登用にはキャリア官僚となる「武人」とノンキャリア官僚である「小吏」の2種があると説明しています。</p><p>木村の出自は代々浜御殿（現在は東京都中央区にある浜離宮恩賜庭園）奉行をつとめた家柄です。</p><p>浜御殿奉行というのは、かんたんにいうと将軍の別荘管理責任者ですが、布衣（ほい：武家官位で六位に相当）の旗本で役料が400俵ありますから「武人」です。</p><p>さらに学問吟味で優秀な成績を治めて登用されているので、彼はキャリア官僚のエリ－トといってよいでしょう。</p><p>興味深いのは、その木村が「しかれども、古今往々有為の才を出だすは俗吏の方割合に武人より多しといえり」つまり、「昔から優秀な人材はノンキャリア（＝下級武士）の方に多く出現するといわれている」と語っていることです。</p><p>じっさい、江戸中期の有名な儒学者荻生徂徠は、8代将軍吉宗に提出した意見書『政談』の中でこのように述べています。</p><blockquote>太平久しくなれば、よき人は下より出て、上の人はおろかになり行く事は、いかようなる事なれば、総じて人の才智はさまざまの難儀困究をするより出来るもの也。<br>総じて人の身は使うところたくましくなり、強くなる物にて、手をつかう時はうで強くなり、足をつかえば足強くなる。<br>弓・鉄炮などにねらいを仕つくれば目つよくなる。<br>心を使えば心に才智生ず。<br>難儀困究にさまざまあう時は、さまざまにもまれて才智たくましくなる。<br>これ自然の道理なり。<br>【荻生徂徠著　辻達也校注『政談』岩波文庫】</blockquote><p>徂徠は「人の身体というものは使うところが強くなる、才智も同じで、これは自然の道理なのだ」と看破しています。</p><p>自ら刀を振るって戦った戦国時代が終わり、太平の世が長く続くと、上級武士の仕事は部下を管理するだけになります。</p><p>さらに江戸時代はなにごとも前例踏襲でしたから、創意工夫はいりません。</p><p>つまり上級武士はルーティンワークの繰り返しだけ。</p><p>じっさいに手足を動かして仕事をするのは下級武士、現場で知恵をしぼるのも下級武士です。</p><p>となれば上級武士は無能になり、手足に加えて頭も使う下級武士から優秀な人間が現れるのは、理の当然ということです。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/0e0babfcbc9bd7b852b9d714bc989df8_e26ceef9c13d9b3404eb7e87cfa1db39.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">荻生徂徠『先哲像伝・近世畸人伝・百家琦行伝』より<br>（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>賢才は下から取り立てよ</h3><p>徂徠は先ほどの文章に続けて、このように語っています。</p><blockquote>故に孟子にも「天より大任をこの人に下すべしと思召す時は、先ずさまざまの難儀をさする」ということあり。<br>殊に下にてもまれて出来たる才智ゆえ、下の事によく通達して、国の治めにもっとも宜しき也。<br>故に聖人の道にも「賢才を挙げよ」とありて、下よりとり立つる事をのたまい、また歴代を考うるに、賢才の人はみな下より出たる事にて、代々大禄の人には至って稀なる事前蹤（ぜんしょう：前人の事蹟、先例）鏡の如し。<br>【荻生徂徠　上掲書】</blockquote><p>江戸時代に人口の最多数を占めていたのは百姓（農村の住人）で、次は町人（都市の住人）でした。</p><p>民主主義社会では選挙というかたちで民意が反映されますが、江戸時代は身分制社会だったので百姓町人の民意を示す機会はありません。</p><p>そのため、為政者となる上級武士は、庶民の実情を知りません。</p><p>下級武士は身分は武士でも低所得で、内職をしないと生活できない者も多くいました。</p><p>つまり、「小吏」の多くは事実上の庶民です。</p><p>下級武士の家に生まれて苦労してきた者は庶民の実情をよく知っているので、国を治めるのにもっともふさわしいというのが、荻生徂徠の見解です。</p><p>それをいちばん忠実に実行したのが幕末の薩摩藩でした。</p><p><br></p><h3>「下から取り立てよ」を実践した薩摩</h3><p>激動期の幕末において、旧態依然とした門閥政治家たちでは、めまぐるしい変化に対応できません。</p><p>このため、あちこちの藩で無能な上級武士と、有能だがポストに就けない下級武士の対立が起きています。</p><p>たとえば、もともと上士と下士の対立が強かった土佐藩では、藩の人事に見切りをつけた坂本龍馬ら下級武士の脱藩が相次ぎ、藩は優秀な人材を多数失ってしまいました。</p><p>しかし、薩摩藩はそうではありません。</p><p>勝海舟は、薩摩から多くの偉人がでたのは島津斉彬と西郷隆盛が、それまでの慣例を無視して、能力のあるものを登用したからだと語っています。</p><blockquote>平生小児視して居る者の中に、存外非常の傑物があるものだから、上に立つ者は、よほど公平な考えをもって、人物に注意して居ないと、国家のため大変な損をすることがある。<br>全体薩州から樺山（資紀）だの松方（正義）だのといって、名高い政治家が出て居るのは、何の不思議なこともないのだ。<br>薩州はその藩主に斉彬公という明君が出て、その人が非常の英断で、何百年来の門閥を打破して、ごく軽輩なる西郷（隆盛）に、藩政の大権を握らしたのだ。<br>そこで西郷は、鋭意治を図ろうと思って、役に立ちそうな若手の連中を、それぞれその器に応じて、どしどし役人に引挙げて、権力を与えてやったから、そこで今の樺山も、松方も、その他の豪傑も出て来たのだ。<br>もしも西郷が因循姑息な人間であって、あんな英断をやることが出来なかったならば、樺山でも、松方でも、到底今のような顕要な地位を占めることは出来ずに、或は生涯青二才で終ったかも知れない。<br>【江藤淳・松浦玲編　勝海舟『氷川清話』講談社学術文庫】</blockquote><p>斉彬が西郷に「藩政の大権を握らした」というのは言い過ぎですが、家柄を無視して西郷を抜擢したのは事実です。</p><p>ただ斉彬は西郷に諸大名への使者という家老クラスの仕事をさせながらも、ポストは低いまま（庭方：庭師）でした。</p><p>これに対し、斉彬の死後に薩摩藩の実権を握った弟の久光は、上級武士が10年以上かけてたどりつく小納戸役という重要ポストに、下級武士の大久保利通をいきなり抜擢する人事をおこなって、藩内をおどろかせています。</p><p>それどころか、大久保はその1年すこし後に、ふつうなら小納戸役で10年前後のキャリアと功績のある者だけが選ばれる側役（そばやく：内閣官房長官に該当するポスト）に就任しています。</p><p>また、久光が毛嫌いしていた西郷隆盛についても、沖永良部島から呼び戻した翌月には軍賦役（ぐんぶやく：軍司令官）に任命しています。</p><p>有能であれば家柄や年功を無視して、各人の能力にふさわしいポストを与えるという思い切った人事を行なったことこそが、薩摩藩が明治維新のリーダーとなった要因だと私は思っています。</p><p><br></p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[幕府役人のキャリアパス]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58833777/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/255aa564630a9068e091a9de13a69025_9482f65935be9c54f6f8b6436dddb771.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58833777</id><summary><![CDATA[番士と小吏　現代日本の諸制度は江戸時代とつながっていると感じることが多いのですが、役人のキャリアパス（役職につくために必要なスキルや経験すべき部署）に関して、江戸幕府要人の興味深い発言を見つけました。幕末に軍艦奉行として勝海舟を従えて咸臨丸でアメリカに渡った木村喜毅（よしたけ）が、明治30年（1897）に出版された雑誌『旧幕府』に寄稿した記事の一部です。（読みやすくするため現代仮名づかいに変え、一部漢字を平仮名にして、句読点をおぎなっています）元来幕府官吏登庸の法は二途に出づ。二途とは番士と小吏なり。番士は多く武人にして、小吏は刀筆の俗吏なり。武人は目付に進むを以て栄えとなし、俗吏は勘定吟味役に登るを門戸とす。是より以往はその人その人の技量に従って紆紫縈青（うしえいせい：まといめぐる）、ほとんど芥を拾う（＝たやすく手に入る）が如きのみ。しかれども、古今往々有為の才を出だすは俗吏の方割合に武人より多しといえり。【木村芥舟「旧幕監察の動向」『旧幕府』第1巻第1号】話がそれますが、咸臨丸の渡米は日米修好通商条約調印のためでした。正使・副使はアメリカの船で行くのですが、それに随伴して日本人が操船する咸臨丸（オランダ製の蒸気帆船）が日本で初めて太平洋を横断しました。このとき咸臨丸の艦長が誰だったかがはっきりしません。一般的には勝海舟のように思われていますが、じつは「〇〇を艦長にする」という正式な発令は出ていなかったのです。福沢諭吉は『福翁自伝』の中で、「艦長は時の軍艦奉行木村摂津守（喜毅）、これに随従する指揮官は勝麟太郎」と書いています。ただ、木村には操艦などできないので、じっさいに艦の指揮をとっていたのは勝でした。松浦玲の『勝海舟』（中公新書）には「アメリカ側では、木村をアドミラル、勝をキャピタンと区別したようだ」と書かれています。閑話休題、木村によれば、幕府官吏は武人（＝上・中級旗本）が目付を目指し、小吏（＝下級旗本・御家人）は勘定吟味役を目指したというのです。泰平の時代には自分の父親を超えるポストに就くことはできませんでした。しかし、幕末になると様相が変わります。学問吟味という昌平坂学問所の学力試験が目付への登竜門となり、そこをパスすれば父親の役職を超えて出世できるようになりました。木村もその一人（木村家は代々浜御殿奉行＝別荘管理人）で、前回説明したように成績優秀として抜擢され、勘定奉行にまで昇進しました。番士は目付、小吏は勘定吟味役のポストに到達することができれば、あとは各人の技量に従ってさらにその上のポストに就くことも可能だったと木村は語っています。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-05-31T08:00:35+00:00</published><updated>2026-06-28T04:31:30+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>番士と小吏</h3><p>　現代日本の諸制度は江戸時代とつながっていると感じることが多いのですが、役人のキャリアパス（役職につくために必要なスキルや経験すべき部署）に関して、江戸幕府要人の興味深い発言を見つけました。</p><p>幕末に軍艦奉行として勝海舟を従えて咸臨丸でアメリカに渡った木村喜毅（よしたけ）が、明治30年（1897）に出版された雑誌『旧幕府』に寄稿した記事の一部です。（読みやすくするため現代仮名づかいに変え、一部漢字を平仮名にして、句読点をおぎなっています）</p><blockquote>元来幕府官吏登庸の法は二途に出づ。<br>二途とは番士と小吏なり。<br>番士は多く武人にして、小吏は刀筆の俗吏なり。<br>武人は目付に進むを以て栄えとなし、俗吏は勘定吟味役に登るを門戸とす。<br>是より以往はその人その人の技量に従って紆紫縈青（うしえいせい：まといめぐる）、ほとんど芥を拾う（＝たやすく手に入る）が如きのみ。<br>しかれども、古今往々有為の才を出だすは俗吏の方割合に武人より多しといえり。<br>【木村芥舟「旧幕監察の動向」『旧幕府』第1巻第1号】</blockquote><p><br></p><p>話がそれますが、咸臨丸の渡米は日米修好通商条約調印のためでした。</p><p>正使・副使はアメリカの船で行くのですが、それに随伴して日本人が操船する咸臨丸（オランダ製の蒸気帆船）が日本で初めて太平洋を横断しました。</p><p>このとき咸臨丸の艦長が誰だったかがはっきりしません。</p><p>一般的には勝海舟のように思われていますが、じつは「〇〇を艦長にする」という正式な発令は出ていなかったのです。</p><p>福沢諭吉は『福翁自伝』の中で、「艦長は時の軍艦奉行木村摂津守（喜毅）、これに随従する指揮官は勝麟太郎」と書いています。</p><p>ただ、木村には操艦などできないので、じっさいに艦の指揮をとっていたのは勝でした。</p><p>松浦玲の『勝海舟』（中公新書）には「アメリカ側では、木村をアドミラル、勝をキャピタンと区別したようだ」と書かれています。</p><p>閑話休題、木村によれば、幕府官吏は武人（＝上・中級旗本）が目付を目指し、小吏（＝下級旗本・御家人）は勘定吟味役を目指したというのです。</p><p>泰平の時代には自分の父親を超えるポストに就くことはできませんでした。</p><p>しかし、幕末になると様相が変わります。</p><p>学問吟味という昌平坂学問所の学力試験が目付への登竜門となり、そこをパスすれば父親の役職を超えて出世できるようになりました。</p><p>木村もその一人（木村家は代々浜御殿奉行＝別荘管理人）で、<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58830798" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>説明したように成績優秀として抜擢され、勘定奉行にまで昇進しました。</p><p>番士は目付、小吏は勘定吟味役のポストに到達することができれば、あとは各人の技量に従ってさらにその上のポストに就くことも可能だったと木村は語っています。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/255aa564630a9068e091a9de13a69025_9482f65935be9c54f6f8b6436dddb771.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">木村喜毅（ウイキメディアコモンズ）</h4><p><br></p><h3>勘定所の採用試験「筆算吟味」</h3><p>番士というのは、大番・ならびに両番（書院番・小姓組）をさします。</p><p>大番というのは戦で先鋒を務める精兵で、両番は大将の周りを固める近衛兵のことです。</p><p>彼らは平時においては江戸城や将軍の警護を担当するので、基本的には「折り目正しい旗本」から選ばれ、かつ職務の性質上、武芸の心得も必要とされます。</p><p>番士が目指すのはまず目付、最終目標は江戸町奉行（もしくは勘定奉行）です。</p><p>いっぽう小吏は「刀筆の俗吏」といわれるとおり、行政に関する事務を担当する役人で、武芸よりも筆記やソロバンの能力が必須になります。</p><p>こちらは行政が担当分野ですから、財政だけでなく幕府領（天領）の民政と司法も管轄していました。</p><p>その中心となる役所が「勘定所」です。</p><p>勘定所の長は勘定奉行で、これが小吏グループの到達する頂点ポストになります。</p><p>勘定奉行は通常4名が在籍し、財政を担当する「勝手方」と、民政・司法を担当する「公事方」をそれぞれ2名で担当していました。</p><p>勘定奉行の次席になるのが勘定吟味役で、これが番士の目付に相当する、小吏が目標とした役職です。</p><p>勘定奉行の業務を監査するという役目もあるため、奉行の部下ではなく、目付同様に老中直属となっていました。</p><p>さて、勘定所には番士にはなかったものがあります。</p><p>それが「筆算吟味」という職員採用試験です。</p><p>藤田覚元東京大学大学院教授は著書『勘定奉行の江戸時代』（ちくま新書）でこう書いています。</p><blockquote>勘定所には、職員採用試験である「筆算吟味」という試験制度があった。<br>これは、勘定所業務を遂行するうえで必要な文字・文章を書く能力（「筆」：原注）と計算能力（「算」：原注）を確かめ、勘定所職員としての適性をみる試験だった。<br>（中略）<br>（学問吟味及第は）幕府役職への採用や出世を約束するものではなかった。<br>だが、それが出世や昇進のきっかけになるケースもあった。<br>しかし、勘定所が行った筆算吟味は採用試験なので、合格するとしばらくして採用された。</blockquote><p>筆算吟味は下級の御家人でも受験できるだけでなく、採用試験なので合格者は必ず役人に採用されました。</p><p><br></p><h3>ノンキャリアがトップに到達できた</h3><p>島津斉彬と親交のあった勘定奉行川路聖謨（としあきら）を例にあげると、地方代官所の手代（＝幕臣ではない）の子で、小普請組（＝無職）の御家人川路家の養子となり、13歳で家督を相続、17歳の時に筆算吟味に合格します。</p><p>翌年18歳で勘定所支配出役（＝非正規社員）となり、就職に成功。</p><p>21歳で支配勘定本役、つまり正社員に採用されました。</p><p>その後順調に出世を重ね、35歳で勘定吟味役になり、52歳のときに最終目標である勘定奉行に就任しています。</p><p>現代でいえばノンキャリアで採用された人物が、財務省の事務次官になったようなものです。</p><p>はっきりいって、財務省（旧大蔵省を含む）ではノンキャリアがトップになることはこれまでありませんでしたし、今後もたぶんないでしょう。</p><p>江戸幕府でも勘定奉行就任者総数213名のうち、川路のようなノンキャリア出身者は23名だけで、圧倒的多数は中・上級旗本出身者つまりキャリア組です。【藤田前掲書】</p><p>とはいえ、ノンキャリアでも川路のように実力が飛びぬけていればトップになれるという点では、現代の官僚より江戸時代の幕府役人の方がフェアだったともいえるでしょう。</p><p>じっさい川路聖謨はきわめて優秀でした。</p><p>幕末史に詳しい小西四郎元東京大学史料編纂所教授は、川路についてこう述べています。</p><blockquote>幕吏たちの多くは、無為無策、「世の中は左様でござるごもっとも、なんとござるか、しかと存ぜぬ」と、上にへつらい賄賂をとり、怠惰安逸に流れていた。<br>川路の精励格勤は、そのような状態の中では特に目立った存在であり、上司としては、これは使える人物であると登用したのであろう。<br>川路は激務の間にも武芸に励み、また読書にも努め、文武両道を忘れない、当時の武士からぬ武士の中で、信頼するに足る人物と考えられた。<br>しかも上司から愛されるような、柔軟な態度も忘れない聡明さも身につけていたと思われる。<br>【小西四郎「川路聖謨と小栗上野介」『日本人物史大系　第5巻近代Ⅰ』朝倉書店】</blockquote><p>「なんとござるか、しかと存ぜぬ」は、現代の公務員も使っていそうな言葉ですが、そのような役人が多い中で、川路の働きぶりは群を抜いており、またそれをきちんと評価する上司がいたという運の良さもあったかと思われます。</p><p>「境遇に不満があっても仕事の手を抜くな。しっかり仕事をしていれば誰かが見ていてくれる」というのは私がサラリーマン時代に先輩から言われた言葉ですが、川路はまさにそういう仕事ぶりだったのでしょう。</p><p><br></p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[日本の科挙となった学問吟味]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58830798/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/57d174a4f2d410b010bedf6d7255aa4a_45aceebd1b4315207d53b0b28d80f013.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58830798</id><summary><![CDATA[超難関試験 　前回は旗本の筒井政憲が昌平坂学問所の学問吟味で甲科及第したのをきっかけに、昇進をかさねてとうとう旗本のトップの役職である江戸町奉行になったという話をしました。学問吟味の内容について、国立公文書館のホームページには次のように書かれています。学問吟味は初場（予備試験）と本試（本試験）に分かれ、「初場」で四書五経や小学の試験を行い、合格者が「本試」に進み、「経義科」「歴史科」「文章科」の試験を受けました。試験は数日間にわたり、成績優秀者には褒美が下賜されました。昌平坂学問所の学問吟味というのは3年に一度しか行なわれません。評定は、甲科及第・乙科及第・丙科及第・落第の4段階になっており、大学の評定にある優・良・可・不可に相当します。  学問吟味は寛政6年（1794）から元治元年（1865）の間に17回行なわれましたが、甲科及第者は全回合わせても66名です。（寛政3年の試験は評価基準があいまいなため除外）  学問吟味の受験者総数は不明なのですが、わかっている嘉永元年（1848）の学問吟味では受験者168人のうち甲科及第はわずか4名（2.4％）しかいませんでした。ちなみにこの時の及第者は、甲科4名、乙科22名、丙科30名、のこりの112名は落第です。さらにいえば、及第者として氏名が書きしるされているのは甲科・乙科のみで、丙科は及第とはいうものの総数のみで氏名の記録はなく、学問吟味再受験が可能とされていましたから、真の及第とはみなされていなかったようです。ということで、合格したと自慢できるのは名前が発表される甲科・乙科の計26名（15％）だけになります。3年に一度しかない試験で、合格率はわずか15％。現代日本に目をやると、国家資格のうちでも超難関といわれるのが司法試験です。その受験資格は法科大学院修了か予備試験合格で、2025年度の予備試験は12,581人が受験して、合格率は3.6％でした。有資格者が受験する本試験の合格率は41.2％（2025年度）と、こちらは意外と高くなっています。超難関は入口の予備試験ですが、これは受験資格がないので、だれでも受けられます。ということは、「大学の法学部にいるから、一応受けてみるか」などと考えて、受験する学生もけっこう混ざっている可能性があります（ブログ主の体験をもとに推定）。いっぽう学問吟味は昌平坂学問所の学生しか受けられませんから、司法試験以上の超難関試験だったといっても過言ではないでしょう。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-05-24T08:00:42+00:00</published><updated>2026-05-29T23:37:52+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>超難関試験</h3><p>&nbsp;　<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58827410" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>は旗本の筒井政憲が昌平坂学問所の学問吟味で甲科及第したのをきっかけに、昇進をかさねてとうとう旗本のトップの役職である江戸町奉行になったという話をしました。</p><p>学問吟味の内容について、<a href="https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/hatamotogokenin2/contents/04.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">国立公文書館のホームページ</a>には次のように書かれています。</p><p><br></p><blockquote>学問吟味は初場（予備試験）と本試（本試験）に分かれ、「初場」で四書五経や小学の試験を行い、合格者が「本試」に進み、「経義科」「歴史科」「文章科」の試験を受けました。<br>試験は数日間にわたり、成績優秀者には褒美が下賜されました。</blockquote><p><br></p><p>昌平坂学問所の学問吟味というのは3年に一度しか行なわれません。</p><p>評定は、甲科及第・乙科及第・丙科及第・落第の4段階になっており、大学の評定にある優・良・可・不可に相当します。&nbsp;</p><p>&nbsp;学問吟味は寛政6年（1794）から元治元年（1865）の間に17回行なわれましたが、甲科及第者は全回合わせても66名です。（寛政3年の試験は評価基準があいまいなため除外）&nbsp;</p><p>&nbsp;学問吟味の受験者総数は不明なのですが、わかっている嘉永元年（1848）の学問吟味では受験者168人のうち甲科及第はわずか4名（2.4％）しかいませんでした。</p><p>ちなみにこの時の及第者は、甲科4名、乙科22名、丙科30名、のこりの112名は落第です。</p><p>さらにいえば、及第者として氏名が書きしるされているのは甲科・乙科のみで、丙科は及第とはいうものの総数のみで氏名の記録はなく、学問吟味再受験が可能とされていましたから、真の及第とはみなされていなかったようです。</p><p>ということで、合格したと自慢できるのは名前が発表される甲科・乙科の計26名（15％）だけになります。</p><p>3年に一度しかない試験で、合格率はわずか15％。</p><p>現代日本に目をやると、国家資格のうちでも超難関といわれるのが司法試験です。</p><p>その受験資格は法科大学院修了か予備試験合格で、2025年度の予備試験は12,581人が受験して、合格率は3.6％でした。</p><p>有資格者が受験する本試験の合格率は41.2％（2025年度）と、こちらは意外と高くなっています。</p><p>超難関は入口の予備試験ですが、これは受験資格がないので、だれでも受けられます。</p><p>ということは、「大学の法学部にいるから、一応受けてみるか」などと考えて、受験する学生もけっこう混ざっている可能性があります（ブログ主の体験をもとに推定）。</p><p>いっぽう学問吟味は昌平坂学問所の学生しか受けられませんから、司法試験以上の超難関試験だったといっても過言ではないでしょう。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/57d174a4f2d410b010bedf6d7255aa4a_45aceebd1b4315207d53b0b28d80f013.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">湯島聖堂（旧昌平坂学問所）「大成殿」</h4><p><br></p><h3>及第者を優遇</h3><p>昌平坂学問所は、寛政9年（1797）に幕府お抱え儒者の林家（りんけ：初代は家康につかえた林羅山）が私塾として経営していた湯島聖堂を幕府直轄の学校としたときからはじまります。</p><p>直轄化を主導したのは寛政の改革を行なった老中松平定信で、学問奨励のため寛政3年（1791）に自ら聖堂を巡検し、手狭な学舎では多数の学生を収容できないとして建物を増築、林家以外の儒者も加えて教授陣を強化しました。</p><p>学問吟味のはじまりは私塾時代の寛政4年（1792）に15歳以上の旗本・御家人を対象に行なった試験です。</p><p>このときは280人が受験しましたが、儒学奨励を目的としていたため選考基準もあいまいで、及第者（人数不明）に賞品が授与されただけでした。</p><p>試験として整備されたのは寛政6年（1794）の第2回学問吟味からです。</p><p>そして、この試験からのちには、成績優秀者の「番入り」が行なわれるようになりました。</p><p>「番入り」というのは、父親が現職として勤務中の惣領息子（「部屋住み」とよばれる）が登用される制度です。</p><p>江戸時代は世襲制ですから、一家にひとつのポストしか与えられず、家の当主以外は職につけませんでした。</p><p>水谷三公（みつひろ）国学院大学教授の『江戸の役人事情』（ちくま新書）によれば、5千家以上の旗本が3千強しかないポストをあらそっていたそうですから、旗本といっても4割程度は無職でした。</p><p>旗本に向上心をもたせようと、享保9年（1724）吉宗将軍のときに「番入り」制度が作られたのですが、判断基準は武芸や素行、父の永年勤続などが中心でした。</p><p>定信はこれに学問吟味の成績を加えたのです。</p><p><br></p><h3>学問吟味及第は出世への近道</h3><p>筒井政憲が学問吟味に首席及第したのは享和3年（1803）、26歳のときでした。</p><p>じつは筒井はその前年に「学問技芸出精」によって番入りしていましたが、首席及第後の昇進スピードはめざましく、栗本鋤雲は「これをみて旗本たちは、はじめて学試及第の効果が四芸（弓馬槍剣）総免許を上回ることを知った」と語っています。【遺老瑣談】</p><p>ところで、「幕府」の語源は「陣幕をはった本部」つまり軍事指揮所ですから、幕府は軍人のあつまりです。</p><p>弓・馬術・槍・剣術の四芸はいずれも軍人にとって必要な技量であり、そのすべてに免許皆伝をおさめたとなれば、スーパー軍人といえるでしょう。</p><p>しかし時代の変化とともに武芸を活かす機会はなくなり、頭脳明晰な人物が求められるようになりました。</p><p>その判定基準が学問吟味及第だったのです。</p><p>昌平坂学問所では御家人も学びますから、御家人たちにとっても学問に励むインセンティブになります。</p><p>この及第者を積極的に登用したのが、弘化２年（1845）に老中首座となった阿部正弘でした。</p><p>阿部は、学問所御用を務めていた筒井政憲の推挙する甲乙科の及第者を積極的に登用して、新しくもうけた海防掛つまり外交部門に投入しました。</p><p>具体的には次のような人物です（カッコ内は担当した主な役職）</p><blockquote>永井尚志（軍艦奉行、大目付）&nbsp;<br>木村喜毅（軍艦奉行、勘定奉行）&nbsp;<br>水野忠徳（長崎奉行、外国奉行）&nbsp;<br>岩瀬忠震（目付、外国奉行）&nbsp;<br>栗本鋤雲（外国奉行、勘定奉行）&nbsp;<br>向山黄村（外国奉行、若年寄格）<br>田辺太一（書記官としてパリ万博派遣）</blockquote><p>さらにいえば、学問吟味だけでなく、勘定吟味という試験をへて出世したグループ（代表は川路聖謨）もありました。</p><p>幕末という国家存亡の危機に、家柄でもなく、武芸でもなく、頭脳で国家に貢献するという、それまでになかった新たな集団が誕生したのです。</p><p>彼らが幕末の日本外交を支えて、西洋列強による植民地化を防いだといえるでしょう。</p><p>こうした人たちは、自分は学問の力量でえらばれたのだということを自覚しています。</p><p>この流れは明治時代には主流となりました。</p><p>四民平等の世の中になり、だれでも勉強すれば立身出世が可能になる、「末は博士か大臣か」の原型は幕末にあったと私は思っています。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[斉彬の学問の師は名奉行]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58827410/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/14b932d0d41e9f89d5cfab05877fcccf_08f593ac625812d3b37a8105f6418477.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58827410</id><summary><![CDATA[名奉行三人のひとり　前回、島津斉彬は幕臣との交流も多かったのですが、なかでも「学問の師」と呼ばれて尊敬されていたのが筒井政憲（つつい　まさのり）です。筒井政憲は安永7年（1778）に、5100石の大身旗本久世広景の次男として生まれ、21歳の時に旗本（2200石）筒井正盈（まさみつ）の婿養子になっています。筒井が26歳になった享和3年（1803）、昌平坂学問所で行なわれた学問吟味（試験）では甲科第一（首席）というすばらしい成績をおさめました。そうして38歳で旗本エリートの登竜門となる「目付」に就任、その後長崎奉行になると思いやりのある政治で町の人々にしたわれ、筒井の武運長久を祈る額が地元の諏訪神社に奉納されるほどでした。（長崎奉行時代のエピソードはこちらにも）44歳のときにキャリア組旗本の頂点ポストとなる江戸町奉行（南町）に就任し、64歳までの20年間南町奉行をつとめました。（通常は2～3年）時代劇の影響で、江戸町奉行は刑事裁判だけやっていたように思われがちですが、そうではなく江戸の町人に関することはすべて町奉行の所管になります。現代でいえば東京都知事と警視総監、東京消防庁・検察庁・裁判所の各長官という5役を兼務しているポストでした。これを北町奉行と南町奉行が、月替わりで担当していたのです。旧幕臣の栗本鋤雲（じょうん）は明治24年の学士会講演で、「これまで町奉行が何人いたか分からないが、今も名前が伝わっているのは3人だけだ」として、大岡越前守（忠相）、根岸肥前守（鎮衛）、筒井伊賀守（政憲）の名をあげています。同じく幕臣だった大八木醇堂（おおやぎ　じゅんどう）はこれに遠山金四郎を加えていますが、「筒井は根岸以来の町奉行で、この2人は大岡のような裁きをみせた」と述べたのち、「遠山は然らず、別に一基軸をなす」といって、3人とは路線がちがうとの見解です。大岡・根岸・筒井の3人に共通するのは「知恵の裁き」ですが、遠山の金さんは‥‥「カッコいい裁き方」ですかね？]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-05-17T08:00:25+00:00</published><updated>2026-08-19T00:21:57+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>名奉行三人のひとり</h3><p>　<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58808738" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>、島津斉彬は幕臣との交流も多かったのですが、なかでも「学問の師」と呼ばれて尊敬されていたのが筒井政憲（つつい　まさのり）です。</p><p>筒井政憲は安永7年（1778）に、5100石の大身旗本久世広景の次男として生まれ、21歳の時に旗本（2200石）筒井正盈（まさみつ）の婿養子になっています。</p><p>筒井が26歳になった享和3年（1803）、昌平坂学問所で行なわれた学問吟味（試験）では甲科第一（首席）というすばらしい成績をおさめました。</p><p>そうして38歳で旗本エリートの登竜門となる「目付」に就任、その後長崎奉行になると思いやりのある政治で町の人々にしたわれ、筒井の武運長久を祈る額が地元の諏訪神社に奉納されるほどでした。（長崎奉行時代のエピソードは<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/47181570" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>にも）</p><p>44歳のときにキャリア組旗本の頂点ポストとなる江戸町奉行（南町）に就任し、64歳までの20年間南町奉行をつとめました。（通常は2～3年）</p><p>時代劇の影響で、江戸町奉行は刑事裁判だけやっていたように思われがちですが、そうではなく江戸の町人に関することはすべて町奉行の所管になります。</p><p>現代でいえば東京都知事と警視総監、東京消防庁・検察庁・裁判所の各長官という5役を兼務しているポストでした。</p><p>これを北町奉行と南町奉行が、月替わりで担当していたのです。</p><p>旧幕臣の栗本鋤雲（じょうん）は明治24年の学士会講演で、「これまで町奉行が何人いたか分からないが、今も名前が伝わっているのは3人だけだ」として、大岡越前守（忠相）、根岸肥前守（鎮衛）、筒井伊賀守（政憲）の名をあげています。</p><p>同じく幕臣だった大八木醇堂（おおやぎ　じゅんどう）はこれに遠山金四郎を加えていますが、「筒井は根岸以来の町奉行で、この2人は大岡のような裁きをみせた」と述べたのち、「遠山は然らず、別に一基軸をなす」といって、3人とは路線がちがうとの見解です。</p><p>大岡・根岸・筒井の3人に共通するのは「知恵の裁き」ですが、遠山の金さんは‥‥「カッコいい裁き方」ですかね？</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/14b932d0d41e9f89d5cfab05877fcccf_08f593ac625812d3b37a8105f6418477.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">栗本鋤雲（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>速断速決</h3><p>栗本鋤雲は筒井南町奉行について、こう述べています。（読みやすくするため、一部漢字を平仮名にしています）</p><blockquote>よく下情に通じ、部下を統御し、市民を愛卹（あいじゅつ：愛しあわれむ）し、毫も私なきこと、罪の有無を断ずるの明なること、速決にして遅滞せざることを以て、おおいに民人に服され、<br>およそ訴えんと欲する者、むしろ一箇月後るるとも、南市尹（しいん：町奉行）の月番を待ちて願い出んというほどになれり。<br>【栗本鋤雲「遺老瑣談」『東京学士会員雑誌』第拾三編之五】</blockquote><p>筒井は町人たちの事情をよく知っているうえに、取調べにあたる部下もしっかり掌握しています。</p><p>市井の人々を愛しあわれみ、判定は公平無私かつ速決で、裁判が長引くことはなかったため、人々の信頼は絶大でした。</p><p>そのため、訴えを起こす者は１ヶ月待ってでも、南町奉行が月番の時に願い出るほどの状況になっていたそうです。</p><p>筒井が市井の事情をよく知っていたのには、理由があります。</p><p>筒井の実家は5100石という大身旗本ですから、町人にとっては雲の上の存在で、本来なら庶民の暮らしなど知りようがありません。</p><p>しかし筒井は、養子に入ってから、妻にも行き先を告げずに毎晩外出して深夜に戻るという生活を続けていました。</p><p>これを養家の親類たちが心配して、「学問と武芸に秀でているということだったが、こんな様子ではとても良家を相続することはできないだろう」と、養父正盈に離縁するよう持ちかけたのです。</p><p>しかし正盈は、「身持ちが悪いように見えるが、毎晩帰宅後は書斎に入って朝まで読書しているのでまったくダメなわけではないから、見捨てるには忍びない」と反対したため、この話は終りました。</p><p>養父の見込どおり、政憲はその後順調に出世して、筒井家の家名を高めたのです。</p><p>毎晩の外出で何をしていたかは不明ですが、親戚が心配するほどに遊んでいたのであれば、当然町人たちとも交流していたでしょう。</p><p>この時の経験があったから、下情に通じた名奉行になれたのかもしれません。</p><p><br></p><h3>牢屋がカラになった</h3><p>栗本鋤雲は同じ講演の中で、漢学者大槻磐渓（おおつき　ばんけい）が語った話として、筒井の面白いエピソードを紹介しています。</p><p>時期ははっきりしないのですが、家斉将軍の治世で江戸の人々が泰平の世を満喫していたころの話だそうです。</p><p>あるとき伝馬町の牢屋にいる囚人が減りつづけて、とうとう誰もいなくなってしまいました。</p><p>江戸時代の牢屋というのは現在の拘置所とおなじで、未決囚を一時的に収監するところです。</p><p>当時は拘禁刑という刑罰はなく<b>※</b>、行動を制限する場合には所払い（追放）や手鎖（てぐさり：手錠をはめて自宅謹慎）になりますから、牢屋に居続けることはありません。（<b>※</b>女子供で敲（たたき）刑に耐えられない者には同日数だけ入牢させるなど、若干の例外あり）</p><p>筒井は裁判が速いので、有罪の者は処罰のために牢から出され、無罪の者は釈放されてこちらも牢から出ていきました。</p><p>さらに裁判待ちで牢屋入りする者もいなくなったため、1ヶ月あまりの間、伝馬町の牢屋はヒッソリとして、餌が見つけられずに腹を空かせたネズミが白昼もうろつき回るという状況になりました。</p><p>そこに、たまたま一人の博徒が収監されることになって、牢屋に連れてこられたのです。</p><p>博徒は誰もいない牢屋を見て恐怖心にとらわれ、泣き叫んで哀れみを乞い、尋問される前に自分から進んで犯した罪をすべて白状しはじめました。</p><p>そうして、「決して包み隠しはいたしませんから、牢屋に戻さないでください」と歎願したのです。</p><p>薄暗いところに飢えたネズミが走り回っているだけの、だれ一人いない牢獄‥‥。</p><p>これは相当恐ろしい光景です。</p><p>泣いて歎願した博徒の気持ちもわかりますね。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[斉彬vs.直弼　ブレーンで大差]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58808738/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/eaded1c6d8ad0e01710fcd0e2fca748b_2cf22b138b695802dfdd947dff3696d2.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58808738</id><summary><![CDATA[井伊大老のブレーンは二人だけ　以前「井伊直弼はただの強情者だった」の話で、井伊大老が安政の大獄を行なったのはブレーンがいなかったから判断を間違えたのだという説明をしました。正確にはブレーンが「いなかった」のではなく、「ごく少数の人物しかいなかった」ということです。維新の興奮もおさまった明治21年に、ジャーナリストで社会運動家でもあった島田三郎が『開国始末（井伊掃部直弼伝）』を出版しました。島田は勤王派から違勅の極悪人と誹謗されていた井伊直弼の悪評を除くために、安政5年の開国（日米修好通商条約調印）の真相を明らかにして、井伊大老の施策が当時やむをえなかったことをわからせようとしたのです。『開国始末』は井伊直弼を弁護するための書ですから、直弼のことを悪くは書いてません。しかしそうでもない部分もあります。直弼のブレーンについては、こう書かれています。直弼の大政を執るに当り其の密議に参せしは新臣には長野（主膳）、旧臣には宇津木（六之丞）の二人ありしのみ。其の他は藩老と雖も其の藩内の常務を掌るに止まりて一つも大政に与かりて補翼の任に当る者なかりき。【島田三郎『開国始末』人物往来社　幕末維新史料叢書１】長野主膳（義言：よしとき）は国学者で、部屋住み時代の直弼が師事していた人物です。直弼は主膳の才能を知り、藩主となった後、家臣にとりたてました（新臣）。宇津木六之丞（景福：かげよし）は彦根藩士（旧臣）で、直弼の側役。直弼が大老に就任したのちは、公用人となってつねに直弼の側近く仕えていました。直弼の相談相手と呼べる者はこの二人しかおらず、彼を弁護したい島田も「直弼の独力政途に当り内外に良輔（よい補佐役）なかりしを見るべし」と書かざるを得ませんでした。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-05-10T08:00:45+00:00</published><updated>2026-08-19T00:15:45+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>井伊大老のブレーンは二人だけ</h3><p>　以前「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58744659" target="_blank" class="u-lnk-clr">井伊直弼はただの強情者だった</a>」の話で、井伊大老が安政の大獄を行なったのはブレーンがいなかったから判断を間違えたのだという説明をしました。</p><p>正確にはブレーンが「いなかった」のではなく、「ごく少数の人物しかいなかった」ということです。</p><p>維新の興奮もおさまった明治21年に、ジャーナリストで社会運動家でもあった島田三郎が『開国始末（井伊掃部直弼伝）』を出版しました。</p><p>島田は勤王派から違勅の極悪人と誹謗されていた井伊直弼の悪評を除くために、安政5年の開国（日米修好通商条約調印）の真相を明らかにして、井伊大老の施策が当時やむをえなかったことをわからせようとしたのです。</p><p>『開国始末』は井伊直弼を弁護するための書ですから、直弼のことを悪くは書いてません。</p><p>しかしそうでもない部分もあります。</p><p>直弼のブレーンについては、こう書かれています。</p><blockquote>直弼の大政を執るに当り其の密議に参せしは新臣には長野（主膳）、旧臣には宇津木（六之丞）の二人ありしのみ。<br>其の他は藩老と雖も其の藩内の常務を掌るに止まりて一つも大政に与かりて補翼の任に当る者なかりき。<br>【島田三郎『開国始末』人物往来社　幕末維新史料叢書１】</blockquote><p>長野主膳（義言：よしとき）は国学者で、部屋住み時代の直弼が師事していた人物です。直弼は主膳の才能を知り、藩主となった後、家臣にとりたてました（新臣）。</p><p>宇津木六之丞（景福：かげよし）は彦根藩士（旧臣）で、直弼の側役。</p><p>直弼が大老に就任したのちは、公用人となってつねに直弼の側近く仕えていました。</p><p>直弼の相談相手と呼べる者はこの二人しかおらず、彼を弁護したい島田も「直弼の独力政途に当り内外に良輔（よい補佐役）なかりしを見るべし」と書かざるを得ませんでした。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/eaded1c6d8ad0e01710fcd0e2fca748b_2cf22b138b695802dfdd947dff3696d2.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">島田三郎（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>斉彬のブレーンは「たくさん」</h3><p>井伊直弼と対照的なのが島津斉彬です。</p><p>直弼のように田舎住まいから突然藩主になったのとちがい、斉彬は正室の長男なので、江戸生まれの江戸育ちです。</p><p>そのため若いころから、他の大名だけでなく、幕吏や学者などさまざまな人たちと交流してきました。</p><p>『鹿児島県史料　斉彬公史料第三巻』には、「御交際の広いことでは、当時の大名で比べられる人がいなかった」とあり、次のような人名が書かれています。（読みやすくするため現代仮名遣いにあらため、一部漢字を仮名に変えて、誤字を修正しています。原文は<a href="https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221202130619-1.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>の133頁）</p><blockquote>御壮年の時分（二十七八、三十内外の御年齢：以下カッコ内はすべて原注）御懇交御往来の諸侯方には、<br>福岡侯（黒田斉溥）・八戸侯（南部信順）は勿論、金沢侯（米倉昌寿）・米沢侯（上杉斉憲）・徳島侯（蜂須賀斉裕）・福山侯（阿部正弘）・佐倉侯（堀田正睦）・富山侯（前田利声）・佐賀侯（鍋島斉正）・久留米候（有馬慶頼）・福井侯（松平慶永）・宇和島侯（伊達宗城）・藤堂侯（高猷、津藩主）・高知候（山内豊信）その他小藩侯は多数、<br>あるいは旗本有名なる筒井（政憲）・川路（聖謨）・岩瀬（忠震）・羽倉（用九）・下曽根（金三郎）・江川（太郎左衛門）・井戸（弘道）などいえる有力者も数多参邸、御懇交御交際の広きこと当時の大小侯に比なかりしという。<br>その人々ことごとく一能一芸あるか、或いは識見卓越名望ある当時有名なる人士なりしという。<br>【「一一二　御懇交ノ大小侯及ヒ有名ナル人士交際セラレシ人名」『鹿児島県史料　斉彬公史料第三巻』】</blockquote><p>同様のリストは<a href="https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221201085654-1.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">斉彬公史料第一巻（152頁）</a>にもあり、大名（紀州藩付家老を含む）が28名、幕臣（公家の家司を含む）が19名、漢学者7名、洋学者9名が挙げられていますが、こちらもみな当時有名な人物ばかりです。</p><p><br></p><h3>有名人士からひろく知識を吸収</h3><p>直弼のブレーンだった長野主膳と宇津木六之丞は、安政の大獄以前は無名でした。</p><p>大獄を行なわなければ歴史に名が残らなかった人物、つまり小物です。</p><p>いっぽう斉彬のブレーンは「当時有名なる人士」たちで、すでに名声を博している人物ばかりでした。</p><p>たとえば旗本の最初に名が出てくる筒井政憲は町奉行を20年もつとめ（通常は2～3年）、大岡越前とならぶ名奉行として高い評価を得ただけでなく、大目付格となってロシア使節との交渉を行うなど阿部老中の外交顧問的な立場にありました。</p><p>彼は斉彬の31歳年上で、島津家事績調査員の寺師宗徳は著書『贈正一位島津斉彬公記』の中で「（斉彬）公の学問の師たり」と述べています。</p><p>筒井は斉彬の相談相手の一人ですが、昌平坂学問所の学問吟味を甲科１席つまり首席で合格し、学問所御用として教鞭をとることもあったので、学問の師といわれても違和感はありません。</p><p>次に名前が出てくる川路聖謨は代官所の下級官吏の子でありながら勘定奉行にまで出世した才人で、「当時幕吏中屈指の名望家」とうたわれました。</p><p>ロシア使節来日時には幕府代表として、筒井と一緒にプチャーチンと交渉しています。</p><p>川路は斉彬と「ことに御懇交、時事談の友」で、折にふれ斉彬を訪ねてきていたそうです。</p><p>交際の幅広さは幕府官僚だけにとどまりません。</p><p>将軍の主治医（御匙）多紀楽真院とも親しく、篤姫が輿入れする際には大奥の動向などを教えてもらっています。</p><p>さらに高野長英や渡辺崋山といった洋学者、佐藤一斎や安井息軒などの漢学者とも交流がありました。</p><p>斉彬はこのような一流人士たちに交わることで、彼らの知恵を吸収したのでしょう。</p><p>島津斉彬が薩摩藩の教育を大改革したことで、薩摩から多くの偉人が生まれました。</p><p>井伊直弼が安政の大獄をおこなったことで、勤王佐幕を問わず優秀な人材が多数失われました。</p><p>「人を知らんと欲せば、すべからくその交わるところを見よ」という言葉があります。（『<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/1920510/1/6" target="_blank" class="u-lnk-clr">川路聖謨文書　第一</a>』例言）</p><p>ふたりの違いは交友関係に起因したのではないかと、ひそかに思っている次第です。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[備蓄石油と常平倉]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58779149/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/ad3d14d4587ae5c6640bb648d110579c_f3be41c0cb1345281a421afd8b2c14bb.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58779149</id><summary><![CDATA[物価安定が第一　アメリカとイランの戦争でホルムズ海峡が封鎖されているため、石油の供給がとどこおって、世界経済に大きな影響を与えています。日本は備蓄原油の活用や中東以外からの輸入拡大によって、ガソリンをはじめとするエネルギー価格の極端な上昇は押さえられていますが、ドイツでは一時ガソリンが23％、軽油にいたっては40％上昇したと報じられています。（「戦後最悪のエネルギー危機」ドイツも直面する燃料の高騰、割れる経済対策の“評価”、望まれる事態の鎮静化）エネルギー価格の上昇は家庭だけでなく全産業に悪影響を及ぼしますから、なにはともあれ戦争を早く終結させてほしいものです。このように影響力の大きい物価は、現代社会ではエネルギー価格が筆頭でしょうが、幕末の日本ではなんといっても米の価格でした。以前、「斉彬は米価を引き下げた」の記事で、島津斉彬が藩主となって真っ先に行なったのが、当時高騰していた米価を下げるために藩の貯蔵米を安値で放出したことだと書きました。しかし、これは一時的に米価を引き下げる効果はあっても、物価安定策としてはじゅうぶんではありません。そこで斉彬が考えたのが「常平倉（じょうへいそう）」の制度でした。常平倉とは常平倉というのは米の流通量を「常」に「平」準化させるための備蓄「倉」庫です。豊作の年には米が市場にあふれて米価が下がるので、それを市価より少し高く買い入れて保存しておき、凶作で米が不足し米価が高騰したときに放出して価格を引き下げ、庶民の生活を安定させようとするものです。もともとは古代中国で発案された制度で、日本でも平安時代などに行なわれましたが、普及はしませんでした。斉彬は藩主に就任した嘉永4年（1851）秋が豊作だったことから、藩士の所得にあたる給地高や郷士（半農）の自作高である作得米を藩で買い取ることを通達しました。給地高で10石以上受け取っている者からは1石につき2升、10石以下の者は同1升5合を囲い置く（1石以下は不要）こととし、作得米は1石につき1升を囲い置くことを命じました。そうして12月20日までに囲い高を高奉行に届けさせて総量を把握して、藩が代金を支払った上で常平倉に保管し、凶作の年にはこの囲い米を安く払い下げるのです。こうしてスタートした常平倉の制度ですが、その施行にあたって、いかにも斉彬らしい指示を加えています。それは執行する役人の人選についてでした。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて読み下し、一部漢字を平仮名にして、句読点をおぎなっています。原文はこちらの488頁）法はいたって易く候らえども、その法を能く取扱い候人物は少なきものの由、古来より申し伝え候間、折角念を入れ候て、常平の常平たるよう、取り計らい専一に候。（中略）掛り役々の義も、人柄よくよく吟味の上、常平法取扱いは勿論、遠郷迄も趣意丁寧に申し諭し方行き届き候様これ有りたし。はたまた抜き米の儀は前文にも申し述べ候ごとく、以来厳重取締り勿論の事に候。しかしながら心得違いの者これ有り、権威につのり、非道の取締りいたし候ては、かえって諸人の迷惑にも相成り候間、遠郷等取締り申し付け候人柄は、別けてよくよく吟味これ有るべく候。この段、掛り役々末々まで、心得違いこれ無きよう申し達し候、以上。【「二二二　常平倉創設並御書取付事実」『鹿児島県史料　斉彬公史料第一巻』】斉彬は、「法律を定めるのはたやすいが、その法律を適切に取り扱える人物は少ない。これは昔から言われていることなので、念入りに検討して、常平倉がきちんとワークするように取り計らうことが肝要だ」とした上で、「担当の役人については、人柄をよくチェックして、法律の施行はもちろん、遠隔地の村々にまで法律の趣旨が行きわたるよう、ていねいに申し渡すようにしたい」「前文（省略）でも述べたように囲い米を逃れて藩外に売り渡す『抜き米』を厳重に取り締まるのはもちろんだが、勘違いして権威を振りかざし非道の取締りをしたのでは、かえって人々の迷惑になるので、（藩庁の目が届きにくい）遠隔地担当の役人の人柄については特によく調べて、人選を誤らないようにせよ」「以上のことは、常平倉を担当する末端の役人まで徹底し、心得違いがないように申し渡しておく」などと細かく言い渡しています。これは、役人たちが乱暴な運用をして、せっかくの良法を悪法にしてしまわないようとの配慮でしょう。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-05-03T08:00:55+00:00</published><updated>2026-08-19T00:14:48+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>物価安定が第一</h3><p>　アメリカとイランの戦争でホルムズ海峡が封鎖されているため、石油の供給がとどこおって、世界経済に大きな影響を与えています。</p><p>日本は備蓄原油の活用や中東以外からの輸入拡大によって、ガソリンをはじめとするエネルギー価格の極端な上昇は押さえられていますが、ドイツでは一時ガソリンが23％、軽油にいたっては40％上昇したと報じられています。（<a href="https://wedge.ismedia.jp/articles/-/40551" target="_blank" class="u-lnk-clr">「戦後最悪のエネルギー危機」ドイツも直面する燃料の高騰、割れる経済対策の“評価”、望まれる事態の鎮静化</a>）</p><p>エネルギー価格の上昇は家庭だけでなく全産業に悪影響を及ぼしますから、なにはともあれ戦争を早く終結させてほしいものです。</p><p>このように影響力の大きい物価は、現代社会ではエネルギー価格が筆頭でしょうが、幕末の日本ではなんといっても米の価格でした。</p><p>以前、「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/56870034" target="_blank" class="u-lnk-clr">斉彬は米価を引き下げた</a>」の記事で、島津斉彬が藩主となって真っ先に行なったのが、当時高騰していた米価を下げるために藩の貯蔵米を安値で放出したことだと書きました。</p><p>しかし、これは一時的に米価を引き下げる効果はあっても、物価安定策としてはじゅうぶんではありません。</p><p>そこで斉彬が考えたのが「常平倉（じょうへいそう）」の制度でした。</p><p><br></p><h3>常平倉とは</h3><p>常平倉というのは米の流通量を「常」に「平」準化させるための備蓄「倉」庫です。</p><p>豊作の年には米が市場にあふれて米価が下がるので、それを市価より少し高く買い入れて保存しておき、凶作で米が不足し米価が高騰したときに放出して価格を引き下げ、庶民の生活を安定させようとするものです。</p><p>もともとは古代中国で発案された制度で、日本でも平安時代などに行なわれましたが、普及はしませんでした。</p><p>斉彬は藩主に就任した嘉永4年（1851）秋が豊作だったことから、藩士の所得にあたる給地高や郷士（半農）の自作高である作得米を藩で買い取ることを通達しました。</p><p>給地高で10石以上受け取っている者からは1石につき2升、10石以下の者は同1升5合を囲い置く（1石以下は不要）こととし、作得米は1石につき1升を囲い置くことを命じました。</p><p>そうして12月20日までに囲い高を高奉行に届けさせて総量を把握して、藩が代金を支払った上で常平倉に保管し、凶作の年にはこの囲い米を安く払い下げるのです。</p><p>こうしてスタートした常平倉の制度ですが、その施行にあたって、いかにも斉彬らしい指示を加えています。</p><p>それは執行する役人の人選についてでした。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて読み下し、一部漢字を平仮名にして、句読点をおぎなっています。原文は<a href="https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221201090150-1.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>の488頁）</p><blockquote>法はいたって易く候らえども、その法を能く取扱い候人物は少なきものの由、古来より申し伝え候間、折角念を入れ候て、常平の常平たるよう、取り計らい専一に候。<br>（中略）<br>掛り役々の義も、人柄よくよく吟味の上、常平法取扱いは勿論、遠郷迄も趣意丁寧に申し諭し方行き届き候様これ有りたし。<br>はたまた抜き米の儀は前文にも申し述べ候ごとく、以来厳重取締り勿論の事に候。<br>しかしながら心得違いの者これ有り、権威につのり、非道の取締りいたし候ては、かえって諸人の迷惑にも相成り候間、遠郷等取締り申し付け候人柄は、別けてよくよく吟味これ有るべく候。<br>この段、掛り役々末々まで、心得違いこれ無きよう申し達し候、以上。<br>【「二二二　常平倉創設並御書取付事実」『鹿児島県史料　斉彬公史料第一巻』】</blockquote><p>斉彬は、</p><p>「法律を定めるのはたやすいが、その法律を適切に取り扱える人物は少ない。</p><p>これは昔から言われていることなので、念入りに検討して、常平倉がきちんとワークするように取り計らうことが肝要だ」</p><p>とした上で、</p><p>「担当の役人については、人柄をよくチェックして、法律の施行はもちろん、遠隔地の村々にまで法律の趣旨が行きわたるよう、ていねいに申し渡すようにしたい」</p><p>「前文（省略）でも述べたように囲い米を逃れて藩外に売り渡す『抜き米』を厳重に取り締まるのはもちろんだが、勘違いして権威を振りかざし非道の取締りをしたのでは、かえって人々の迷惑になるので、（藩庁の目が届きにくい）遠隔地担当の役人の人柄については特によく調べて、人選を誤らないようにせよ」</p><p>「以上のことは、常平倉を担当する末端の役人まで徹底し、心得違いがないように申し渡しておく」</p><p>などと細かく言い渡しています。</p><p>これは、役人たちが乱暴な運用をして、せっかくの良法を悪法にしてしまわないようとの配慮でしょう。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/ad3d14d4587ae5c6640bb648d110579c_f3be41c0cb1345281a421afd8b2c14bb.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">「常平倉跡の碑」（『南九州新聞』記事より）</h4><p><br></p><h3>常平倉のその後</h3><p>このようにして始まった常平倉ですが、米の買取や入れ替えを毎年継続していかないと意味がありません。</p><p>そこで、維持管理のための仕組み作りを家老たちに命じたのですが、これが進まなかったようで、翌嘉永5年（1852）2月に伊達宗城に出した手紙の中で、次のようになげいています。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて読み下し、一部漢字を平仮名にして、句読点をおぎなっています。原文は<a href="https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221201090530-1.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>の856頁）</p><blockquote>政事向きも、差し見得宜しからざる義も、家老共にも心附き候様子ながら、江戸の聞こえを恐れ候間、とかく延びがちに相成り候には困り申し候。<br>常平法取建之儀、なおまた書面にて大意申し達し、折角吟味いたし、永久連続の処申し談じるよう申し付け候えども、いまだ吟味済み兼ね申し候。<br>この儀はきっと取り計らい候考えに御座候。<br>【「四四六　伊達宗城へ書翰」『鹿児島県史料　斉彬公史料第一巻』】</blockquote><p>「これまでの誤った政策を改めようとして（斉彬が）打ち出す新政策について、家老たちも内心は良くないと気づいているようすだが、へたに動いて幕府から注意されることを恐れ、先送りにするので困っています」から始まり、</p><p>「常平倉の維持については、これもまた大意を説明したうえで、よく検討して永続化策を提案するように申し付けたのに、いまだに検討が終りません」</p><p>と嘆き、</p><p>「これはきっとやらせる考えです」</p><p>との決意を述べています。</p><p>高市首相も選挙で公約した「食品の食費税を2年間ゼロにする」について、事務方の動きが悪くて困っている雰囲気ですが、斉彬と同じ状況かも知れません。</p><p>それでも斉彬は常平倉の制度を軌道に乗せることには成功しました。</p><p>上の写真は、鹿屋市高須町にある「常平倉跡の碑」です。（2023年11月16日の南九州新聞記事から借用しました）</p><p>ただし続いたのは斉彬存命中だけで、没後は廃止されてしまいました。</p><p>さて、高市首相の消費税ゼロはどうなるでしょうか。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[井伊直弼と条約勅許]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58769929/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/6ba61e232b42fc38cdfe2ec6e90eb5f2_2fbd0d1082a305bc8354986974389371.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58769929</id><summary><![CDATA[開国か鎖国か　前回、言い出したら聞かない強情者だったと紹介した井伊直弼ですが、地元彦根では「日本を開国に導いた偉人」として高く評価されています。「欧米列強の圧力が迫る中、冷静に現状を分析し、自分の命をかけた決断によって開国に踏みきった偉人」と書かれたホームページもありました。ここで少し気になるのが、分析の内容です。というのも個人的には、慶喜が語っていた「断には富みたれども、智には乏しき人」という言葉が引っかかっているからです。井伊大老は条約締結に関して、どんなメリット・デメリットを比較考量したのか。それを知りたいと思っていたら、歴史学者の松浦玲氏がその当時の幕府の判断についてこのように書いているのを見つけました。戦争になるのは困るからできるだけ穏便に、というのは、紀州の慶福を支持する勢力である。開港したいわけではないが、開港か鎖国かよりも、徳川の現体制維持の方が大切で、現体制が崩壊するかもしれない危険を犯すよりは、先方の言うとおりに開港したらどうかというものである。安政四年末の段階では、溜間詰譜代大名はこの説にまとまっており、十一月二十八日、連名の建白書を出す。まとめたのは井伊直弼である。【松浦玲『徳川慶喜　増補版』中公新書】溜の間（たまりのま）というのは江戸城で家臣最高の席といわれ、井伊家（35万石）のような譜代大名の重鎮や会津松平家のような親藩で10万石を超える石高がある藩か、老中OBが詰める部屋です。徳川幕府の大臣に当たる老中はだいたい5万石～10万石の譜代大名がつとめますから、「溜の間詰譜代大名」は老中よりも家格が上の大名になります。この部屋の大名たちは将軍の政治顧問のようなものです。井伊直弼が大老になるのは安政5年（1858）4月ですから、安政4年末時点では幕府の役職には就いていません。当時溜の間詰めだった井伊直弼がとりまとめた建白書は、いわば幕府の政治顧問の意見表明にあたります。その政治顧問たちが選んだのは、リスクをおかさず現体制を維持することでした。彼らにとっての関心事項は、日本をどうするかではなく、現在のまま徳川幕府を存続させることにあったのです。（このあたりは、現在日本の近隣にある某国がとっている方針と共通するものを感じます）国内の多数派である攘夷主義者が反対しているから外国と通商をはじめるのは気が進まないものの、下手に戦争して幕府が崩壊するリスクを犯すよりは、先方の望むように開港して外国貿易をはじめる方を選んだということです。ところで、この時の「先方」というのはアメリカでした。ハリスのおどしアメリカの初代駐日領事として下田に駐在していたタウンゼント・ハリスは、当時中国で起きていたアロー戦争（イギリスと清が戦った、第2次アヘン戦争）を引き合いにだして、「イギリスはこの戦争が終れば次に日本を狙ってくるはずだから、イギリスの圧力で不利な条件をのまされる前に日米間で条約を結んでおき、それをイギリスにも適用すればいい」と幕府に持ちかけていたのです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-04-26T08:00:45+00:00</published><updated>2026-04-26T08:31:56+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>開国か鎖国か</h3><p>　<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58744659" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>、言い出したら聞かない強情者だったと紹介した井伊直弼ですが、地元彦根では「日本を開国に導いた偉人」として高く評価されています。</p><p>「欧米列強の圧力が迫る中、冷静に現状を分析し、自分の命をかけた決断によって開国に踏みきった偉人」と書かれた<a href="https://rekishi-king.com/ii_naosuke/" target="_blank" class="u-lnk-clr">ホームページ</a>もありました。</p><p>ここで少し気になるのが、分析の内容です。</p><p>というのも個人的には、慶喜が語っていた「断には富みたれども、智には乏しき人」という言葉が引っかかっているからです。</p><p>井伊大老は条約締結に関して、どんなメリット・デメリットを比較考量したのか。</p><p>それを知りたいと思っていたら、歴史学者の松浦玲氏がその当時の幕府の判断についてこのように書いているのを見つけました。</p><p><br></p><blockquote>戦争になるのは困るからできるだけ穏便に、というのは、紀州の慶福を支持する勢力である。<br>開港したいわけではないが、開港か鎖国かよりも、徳川の現体制維持の方が大切で、現体制が崩壊するかもしれない危険を犯すよりは、先方の言うとおりに開港したらどうかというものである。<br>安政四年末の段階では、溜間詰譜代大名はこの説にまとまっており、十一月二十八日、連名の建白書を出す。<br>まとめたのは井伊直弼である。<br>【松浦玲『徳川慶喜　増補版』中公新書】</blockquote><p><br></p><p>溜の間（たまりのま）というのは江戸城で家臣最高の席といわれ、井伊家（35万石）のような譜代大名の重鎮や会津松平家のような親藩で10万石を超える石高がある藩か、老中OBが詰める部屋です。</p><p>徳川幕府の大臣に当たる老中はだいたい5万石～10万石の譜代大名がつとめますから、「溜の間詰譜代大名」は老中よりも家格が上の大名になります。</p><p>この部屋の大名たちは将軍の政治顧問のようなものです。</p><p>井伊直弼が大老になるのは安政5年（1858）4月ですから、安政4年末時点では幕府の役職には就いていません。</p><p>当時溜の間詰めだった井伊直弼がとりまとめた建白書は、いわば幕府の政治顧問の意見表明にあたります。</p><p>その政治顧問たちが選んだのは、リスクをおかさず現体制を維持することでした。</p><p>彼らにとっての関心事項は、日本をどうするかではなく、現在のまま徳川幕府を存続させることにあったのです。</p><p>（このあたりは、現在日本の近隣にある某国がとっている方針と共通するものを感じます）</p><p>国内の多数派である攘夷主義者が反対しているから外国と通商をはじめるのは気が進まないものの、下手に戦争して幕府が崩壊するリスクを犯すよりは、先方の望むように開港して外国貿易をはじめる方を選んだということです。</p><p>ところで、この時の「先方」というのはアメリカでした。</p><p><br></p><h3>ハリスのおどし</h3><p>アメリカの初代駐日領事として下田に駐在していたタウンゼント・ハリスは、当時中国で起きていたアロー戦争（イギリスと清が戦った、第2次アヘン戦争）を引き合いにだして、</p><p>「イギリスはこの戦争が終れば次に日本を狙ってくるはずだから、イギリスの圧力で不利な条件をのまされる前に日米間で条約を結んでおき、それをイギリスにも適用すればいい」</p><p>と幕府に持ちかけていたのです。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/6ba61e232b42fc38cdfe2ec6e90eb5f2_2fbd0d1082a305bc8354986974389371.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">タウンゼント・ハリス（幕末・明治・大正回顧八十年史）</h4><p><br></p><p>国際情勢にうとい幕府はハリスの言葉を信用し、戦争終結前に条約を結んでおきたいと思う一方で、国内の攘夷派から猛反発を受けることも恐れました。</p><p>そこで起死回生策として出されたのが、攘夷派が信奉している天皇の許可を取りつけることでした。</p><p>孝明天皇が賛成しているのであれば、攘夷派も反発しないだろうと考えたのです。</p><p>安政5年（1858）1月、老中首座の堀田正睦（まさよし）は天皇の勅許を貰うために上京しました。</p><p>徳川幕府は元和元年（1615）に禁中並公家諸法度を定めて以来、朝廷をコントロールしてきました。</p><p>朝廷はこれまでずっと幕府の決定を追認してきたので、今回も問題なく承認してくれるだろうと楽観視していたのです。</p><p>ところが思いがけない事態に遭遇しました。</p><p>これについて、東大史料編纂所教授の本郷和人先生と国際日本文化センター所長の井上章一先生の対談が面白いのでご紹介します。</p><p><br></p><blockquote>＜本郷＞　幕末、ペリーが来航した時、江戸幕府は日和った。<br>開国を決断したにもかかわらず、大老・井伊直弼（老中・本田正睦の間違い）は幕府の決定に箔をつけるために、朝廷におうかがいを立ててしまった。<br>本当は、おうかがいを立てる必要などまったくなかったのです。<br>そうしたら、大の外国人嫌いだった孝明天皇が「ノー」と言ってきたわけです。<br><br>＜井上＞　名目だけしかないと思っていた会長のところへ判子をもらいに行ったら、「いやや」と言われてしまったわけやね。<br>井伊（堀田の間違い）は、事前に事務レベルで折衝をしていなかったのでしょうか。<br><br>＜本郷＞　たぶん、していなかったでしょう。<br>事前に折衝をしていたら、もうすこしやり方があったでしょうから。<br>幕府というシステムの錆が出たように思います。<br>【井上章一・本郷和人『日本史のミカタ』祥伝社新書】</blockquote><p><br></p><p>井上先生は建築畑で風俗史が専門のため、歴史学者とはちがう発想をされます。</p><p>お飾りだと思っていた会長に「いやや」と言われてしまった、というたとえがナイスですね。</p><p><br></p><h3>井伊直弼の決断？</h3><p>さて、孝明天皇が「いやや」と言ったために、デッドロックに乗り上げてしまった日米修好通商条約をどう決着させるか。</p><p>結局「断に富む」井伊直弼が、天皇の勅許なしでの締結を決断することになるのですが、直弼の独断ではなく、関係者が相談して決めたという証言がありました。</p><p>旗本でありながら譜代大名のポストである若年寄にまでなった優秀な幕吏、永井尚志（なおゆき）が明治21年（1888）に島津家事蹟調査員の市来四郎たちに語った話です。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています）</p><p><br></p><blockquote>米国条約の談判、勅許を得ざりしを以て調印をゆるされず。<br>しかるに米人（ハリス）はこれを促がすこと厳しく、殆んど困惑せり。<br>よって目付中に下して調印可否の議を決せしむ、予等も預れり。<br>種々の論ありしも、遂に勅許を得ざるも調印して外患を避くべし、是れ京都に於て深く外国の事情を知らしめさざるに由るものにて、後にて十分御了解あるべく申し開くときは、なにぶん強いてお咎めを蒙るに至るまじ、との論にて決せり。<br>この発論者は跡部甲斐守（良弼：原注）、その間種々の議論ありしも、終に跡部の議にて決せり。<br>大老閣老等にもこの議に同意したるものなり。<br>跡部は大腹の人物なり、物事に拘泥せざる性質の人なり。<br>平生細事には頓着なく常に居眠り居るも、事あるに当りては十分に議論をなすの風ありき。<br>【「島津家事蹟訪問録　故永井尚志君ノ談話」『史談会速記録　第173輯』】</blockquote><p><br></p><p>永井によれば井伊の独断ではなく事務方全員で協議してでた「無勅許調印」という結論を、責任者として承諾したというのが真相のようです。</p><p>井伊直弼は独断専行の人物のように思っていましたが、じつはそうでもなくて、この時は事務局会議を開催しています。</p><p>孝明天皇の事後承諾が得られなかったことから、井伊大老は勅許なしに条約を締結した責任を問われることになりますが、直弼の偉いところは責任から逃げなかったことです。</p><p>この点は現代の政治家も見習ってほしいものですね。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[井伊直弼はただの強情者だった]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58744659/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/ee942a1b5b4a7cc876d017a8d90c91a7_96b726ebe1a2184da6c0ca36c4ac5434.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58744659</id><summary><![CDATA[言いだしたら聞かない　前回の一橋慶喜に関連する話になりますが、慶喜を家定将軍の世子にしようとする「一橋派」の運動を阻止した中心人物が彦根藩主の井伊直弼でした。井伊は安政の大獄を行なうなど強権をふるって幕府の権威を強化しようとしたものの、「桜田門外の変」で尊攘派の志士たちによって暗殺され、かえって幕府の権威を失墜させてしまいました。ということで、今回のテーマは井伊直弼の人物像です。直弼の親戚で親しく交流していた宇和島藩主の伊達宗城（むねなり）は、明治21年に島津家の事蹟調査で訪問した市来四郎たちに斉彬・久光の思い出を語った際、井伊直弼のことにも言及しています。（読みやすくするため現代仮名づかいにして、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています）井伊はいったん僧侶までなりし人なれば、よほど学問はありし。その性質を評せば、強情一辺にして、遠慮深謀を抱ける人にはあらず。思い込みしことは必ず為すというべきも、先ず突き当たりて、ただ一筋にやり通すと云うて可なり。深く精神を込めて尽せしに疑いなし。しかしよほど疑念深く、狐疑するの癖ありし。【「島津家事蹟訪問録　従一位伊達宗城君談話」『史談会速記録　第168輯』】伊達宗城は養父宗紀（むねただ）の正室が井伊直弼の母方の従姉妹（観姫：みよひめ、鍋島治茂の娘で閑叟の叔母）であったことから、親戚として直弼と親しく交際していました。安政の大獄が起きたとき直弼は養父の宗紀を呼び出して、「このままでは宗城が処罰されるが、その前に自発的に隠居すれば処罰はまぬがれる」とアドバイスしています。そのような関係だったので、宗城は直弼の性格をよくわかっていたのでしょう。思ったことはやり通すが、トラブルを起こさないようにうまく交渉するというタイプではなく、障害があってもひたすら突き進むという「猪突猛進型」で「うたぐり深い」性格、というのが伊達宗城の見解です。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-04-19T08:00:28+00:00</published><updated>2026-04-19T08:28:24+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>言いだしたら聞かない</h3><p>　<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/56820274" target="_blank" class="u-lnk-clr">前回</a>の一橋慶喜に関連する話になりますが、慶喜を家定将軍の世子にしようとする「一橋派」の運動を阻止した中心人物が彦根藩主の井伊直弼でした。</p><p>井伊は安政の大獄を行なうなど強権をふるって幕府の権威を強化しようとしたものの、「桜田門外の変」で尊攘派の志士たちによって暗殺され、かえって幕府の権威を失墜させてしまいました。</p><p>ということで、今回のテーマは井伊直弼の人物像です。</p><p>直弼の親戚で親しく交流していた宇和島藩主の伊達宗城（むねなり）は、明治21年に島津家の事蹟調査で訪問した市来四郎たちに斉彬・久光の思い出を語った際、井伊直弼のことにも言及しています。（読みやすくするため現代仮名づかいにして、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています）</p><blockquote>井伊はいったん僧侶までなりし人なれば、よほど学問はありし。<br>その性質を評せば、強情一辺にして、遠慮深謀を抱ける人にはあらず。<br>思い込みしことは必ず為すというべきも、先ず突き当たりて、ただ一筋にやり通すと云うて可なり。<br>深く精神を込めて尽せしに疑いなし。<br>しかしよほど疑念深く、狐疑するの癖ありし。<br>【「島津家事蹟訪問録　従一位伊達宗城君談話」『史談会速記録　第168輯』】</blockquote><p>伊達宗城は養父宗紀（むねただ）の正室が井伊直弼の母方の従姉妹（観姫：みよひめ、鍋島治茂の娘で閑叟の叔母）であったことから、親戚として直弼と親しく交際していました。</p><p>安政の大獄が起きたとき直弼は養父の宗紀を呼び出して、「このままでは宗城が処罰されるが、その前に自発的に隠居すれば処罰はまぬがれる」とアドバイスしています。</p><p>そのような関係だったので、宗城は直弼の性格をよくわかっていたのでしょう。</p><p>思ったことはやり通すが、トラブルを起こさないようにうまく交渉するというタイプではなく、障害があってもひたすら突き進むという「猪突猛進型」で「うたぐり深い」性格、というのが伊達宗城の見解です。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/ee942a1b5b4a7cc876d017a8d90c91a7_96b726ebe1a2184da6c0ca36c4ac5434.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4>井伊直弼　「小林鶯里『明治文明史』」（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>就くはずのない地位に就いたから</h3><p>井伊直弼がものごとを強引に進めるやり方は世間によく知られていたようで、旧水戸藩士の小瀬光清も明治37年の史談会でこのように語っています。（読みやすくするため現代仮名づかいにして、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています）</p><blockquote>井伊はことのほか才略もございましたろうが、第一癇癖（かんぺき）の強い人で、どうも自分の思い込んだことは後へ返すことがないというような性質の人だそうでございまして（以下略）<br>【「水戸藩小瀬光清君国事鞅掌の実歴附廿二節」『史談会速記録　第142輯』】</blockquote><p>では直弼はなぜこのようなふるまいをしていたのか？</p><p>もって生まれた性格が大きいのですが、それに加えて、急に藩主の座がころがりこんだという事情もあったと思われます。</p><p>幕末史にくわしい町田明広神田外語大学教授は、井伊直弼の政治手法についてこのように書いています。</p><blockquote>そもそも、直弼は一四男であり、藩主の座に就くことなどあり得ないはずだが、井伊家の男子が次々に早逝するなどの条件が重なった。<br>本来、就くはずがない立場、地位に就いた人は、より一層その立場にふさわしい人物でありたいと思い、張り切ってやり過ぎる傾向が見られるが、直弼はその典型かも知れない。<br>それは、大老就任時にも発揮される。<br>【町田明広『人物から読む幕末史の最前線』集英社　インターナショナル新書】</blockquote><p>島津斉彬のように生まれたときから世子として育っていれば、他の大名や幕臣たちとの交流をつうじて、政治手法や人の使い方が身についていきます。</p><p>しかし世に出ることのない「部屋住み」として育てば、他大名はおろか藩士との交流もごくかぎられたものしかありません。</p><p>つまり社会経験が乏しいのです。</p><p>そのような人物が急に政治の第一線に立てば、やり方の分からないままで、自分の考えを押し通そうとすることはじゅうぶん考えられます。</p><p>町田先生が書いているように、井伊直弼もそうだったのでしょう。</p><p><br></p><h3>断に富むが智には乏しい</h3><p>徳川慶喜は明治42年（1902）になって安政4年（1857）当時を回想して語ったことがありますが、その際に井伊直弼についてこのように述べています。</p><blockquote>ちなみにいう、掃部頭（直弼）は断には富みたれども、智には乏しき人なりき。<br>しかしてその動作何となく傲岸（ごうがん：おごり高ぶる）にして、人を眼下に見下すふうあり。<br>けだし体躯肥満にして常に反身（そりみ：体が後にそっている）をなせるより、自ら然（し）か見受けられしものか。<br>【渋沢栄一編　大久保利謙校訂『昔夢会筆記　徳川慶喜公回想談』平凡社　東洋文庫】</blockquote><p>伊達宗城は直弼を「よほど学問はありし」、つまり「そうとう学があった」と語っていましたが、慶喜は「智には乏しき人」と切り捨てています。</p><p>双方を勘案すると、知識はあったがそれを使いこなす知恵がなかったということでしょうか。</p><p>慶喜という人は弁舌がじつにたくみで、ディベートでは誰にも負けませんでした。</p><p>だから「智には乏しき」と言う発言になったのだと思います。</p><p>しかし、宗城がいうように並みの大名以上の学識あったはずです。</p><p>慶喜は直弼がいつもふんぞり返って周囲の人を見下すような態度だったと言ってから、肥満のために常に反身になっていたので傲慢なように見られたのだろうとフォローもしています。</p><p><br></p><h3>ブレーンがいなかった</h3><p>ところで、知恵が必要なら優秀なブレーンを身近におけば事足ります。</p><p>その典型例が、藤田東湖や戸田忠太夫・会沢正志斎などのそうそうたるブレーンを抱えていた水戸の徳川斉昭（烈公）であり、橋本左内や中根雪江がサポートした福井の松平春嶽です。</p><p>旧福井藩士で松平春嶽の側近だった村田氏寿（うじひさ）は、直弼のことをこうに語っていました。（読みやすくするため現代仮名づかいにして、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています）</p><blockquote>井伊公は大名に珍しく果断豪邁の方なりき。<br>とにかく徳川家の衰運を一身に負い、忠義の家柄に恥じざる心懸けにて、徳川家とともに倒れんと決心せし人なり。<br>惜しむらくはその配下に人物なかりき。<br>【「村田氏壽翁の談話」『旧幕府　第一巻第六号』】</blockquote><p>井伊直弼は徳川家への忠誠心は強かったが、部下にめぐまれなかったために残念な結果となったというのが村田の見解です。</p><p>村田は橋本左内の親友で、左内がサポートをしたことによって春嶽が名君とたたえられていたのを間近に見てきました。</p><p>だからこのような発言をしたのでしょう。</p><p>つけ加えると、直弼が行なった安政の大獄について、島津斉彬と親しかった福岡藩主の黒田長溥はこう語っています。（読みやすくするため、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています）</p><blockquote>井伊が尾張そのほか公家中などを暴(てあら)に取り計らいたる事も、考うに薩摩守（斉彬）が存生ならあのようの事は致さず。<br>井伊も気のきいたもの故、相談いたし、品能く取り計らいの都合ならんかとおもえり。<br>井伊は中々ひと通りの人物にはあらざりし故、（斉彬を）味方にして相談するは必定なり。<br>【「二四九　黒田長溥公市来廣貫へ御親話（明治十八年春）」『鹿児島県史料　斉彬公史料第三巻』】</blockquote><p>島津斉彬は安政5年（1858）7月に急逝しました。</p><p>井伊直弼が安政の大獄を行なったのはその直後です。</p><p>黒田は斉彬が直弼と交流があったことをよく知っていますから、もし斉彬が存命であったら井伊は斉彬に相談したはずで、そうすればあのように過酷な処分を下すことはなかっただろう、というのが彼の見立てです。</p><p>しっかりした相談相手をもつことは大切ですね。</p><p><br></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[慶喜は嫌われ者だった]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/56820274/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/36cfcba31454c6e7f22ab660b4b5c346_4affe0b5d730eb67ec97bf12186f80e5.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/56820274</id><summary><![CDATA[文久の改革 　幕末の改革で重要なもののひとつに、文久2年（1862）に行なわれた「文久の改革」があります。この年、島津久光が率兵上京をして「一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老にせよ」という勅命をとりつけ、勅使大原重徳がしぶる幕府とハードネゴを行なって、勅命を呑ませました。慶喜・春嶽の政治復帰および京都守護職を新設して会津藩主松平容保を任命した「人事改革」に、幕府や大名に関する諸制度を変更した「制度改革」をあわせて「文久の改革」と呼ばれます。「制度改革」を行なったのは、新設の政事総裁職（職務は大老と同じ）についた松平春嶽でした。そのおもな内容は、1．参勤交代の緩和（隔年から3年に1度に変更し、滞在期間も100日に短縮）2．正室世子の江戸拘束を解き、帰国を認める 3．式典・服装・文書の簡素化 4．洋学研究の推進　蕃書調所を洋書調所にし、海外留学を新設5．軍制改革で陸軍を洋式に変え、兵賦令発布6．京都守護職新設で、このうち1と2は大名の財政負担を軽減して浮いた費用を国防費にあてるべきという、島津斉彬の持論に沿ったものでした。東大史料編纂所教授だった山本博文氏の著書『江戸時代を[探検]する』によれば、参勤の年は大名の出費のうち5～6割が参勤交代費用で、2割ぐらいを江戸での生活費、残りの2割が国元での生活費あるいは政治に使うお金という状況だったので、支出の中で大きなウエートを占める参勤交代と妻子の江戸居住を簡素化すれば支出は大幅に軽減され、国防費が捻出できるというもくろみです。斉彬は4年前の安政5年（1858）に亡くなっていますが、存命であれば春嶽を手助けしたはずです。この改革について、旧幕臣の福地源一郎は次のように酷評しています。春嶽氏総裁にて行なわれたる幕府の改革は如何なる事になりしかと観れば、諸向より失政への贈物を止め、大名火消を廃し、御茶壺の上下（あげさげ）を簡易にし、文書の繁縟（はんじょく）を省き、評定所の誓詞を廃し、月次御礼を止め、衣服の制度を略し、大小名の共連を省きたる等にありけるが、詰る所は陳腐の旧套を襲いたる改革にして、観るに足るべきものなきが上に、幕府の政略には最も緊要なりける武家の秩序・格式・礼儀は、これがために一時に破毀せられたるが故に、将軍家の尊厳は、この時よりして大いにその威光を墜されたること、争うべからざるの事実なりき。 【福地源一郎『幕府衰亡論』平凡社東洋文庫】 福地は、春嶽の改革は陳腐なもので見るに足るようなものはなかったが、「この改革が将軍の威光を失墜させて、幕府滅亡の種をまいた」と、文久の改革の悪口を言っています。福地は幕臣だったので徳川家第一に考えたのでしょうが、春嶽は親藩でありながら、徳川家よりも日本国のことを優先してこの改革を行ないました。 ]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-04-12T08:00:11+00:00</published><updated>2026-04-12T08:15:32+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>文久の改革&nbsp;</h3><p>　幕末の改革で重要なもののひとつに、文久2年（1862）に行なわれた「文久の改革」があります。</p><p>この年、島津久光が率兵上京をして「一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を大老にせよ」という勅命をとりつけ、勅使大原重徳がしぶる幕府とハードネゴを行なって、勅命を呑ませました。</p><p>慶喜・春嶽の政治復帰および京都守護職を新設して会津藩主松平容保を任命した「人事改革」に、幕府や大名に関する諸制度を変更した「制度改革」をあわせて「文久の改革」と呼ばれます。</p><p>「制度改革」を行なったのは、新設の政事総裁職（職務は大老と同じ）についた松平春嶽でした。</p><p>そのおもな内容は、</p><p>1．参勤交代の緩和（隔年から3年に1度に変更し、滞在期間も100日に短縮）</p><p>2．正室世子の江戸拘束を解き、帰国を認める&nbsp;</p><p>3．式典・服装・文書の簡素化&nbsp;</p><p>4．洋学研究の推進　蕃書調所を洋書調所にし、海外留学を新設</p><p>5．軍制改革で陸軍を洋式に変え、兵賦令発布</p><p>6．京都守護職新設</p><p>で、このうち1と2は大名の財政負担を軽減して浮いた費用を国防費にあてるべきという、島津斉彬の持論に沿ったものでした。</p><p>東大史料編纂所教授だった山本博文氏の著書『江戸時代を[探検]する』によれば、参勤の年は大名の出費のうち5～6割が参勤交代費用で、2割ぐらいを江戸での生活費、残りの2割が国元での生活費あるいは政治に使うお金という状況だったので、支出の中で大きなウエートを占める参勤交代と妻子の江戸居住を簡素化すれば支出は大幅に軽減され、国防費が捻出できるというもくろみです。</p><p>斉彬は4年前の安政5年（1858）に亡くなっていますが、存命であれば春嶽を手助けしたはずです。</p><p>この改革について、旧幕臣の福地源一郎は次のように酷評しています。</p><blockquote>春嶽氏総裁にて行なわれたる幕府の改革は如何なる事になりしかと観れば、<br>諸向より失政への贈物を止め、<br>大名火消を廃し、<br>御茶壺の上下（あげさげ）を簡易にし、<br>文書の繁縟（はんじょく）を省き、<br>評定所の誓詞を廃し、<br>月次御礼を止め、<br>衣服の制度を略し、<br>大小名の共連を省きたる等にありけるが、<br>詰る所は陳腐の旧套を襲いたる改革にして、観るに足るべきものなきが上に、<br>幕府の政略には最も緊要なりける武家の秩序・格式・礼儀は、これがために一時に破毀せられたるが故に、<br>将軍家の尊厳は、この時よりして大いにその威光を墜されたること、争うべからざるの事実なりき。&nbsp;<br>【福地源一郎『幕府衰亡論』平凡社東洋文庫】&nbsp;</blockquote><p>福地は、春嶽の改革は陳腐なもので見るに足るようなものはなかったが、「この改革が将軍の威光を失墜させて、幕府滅亡の種をまいた」と、文久の改革の悪口を言っています。</p><p>福地は幕臣だったので徳川家第一に考えたのでしょうが、春嶽は親藩でありながら、徳川家よりも日本国のことを優先してこの改革を行ないました。&nbsp;</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/36cfcba31454c6e7f22ab660b4b5c346_4affe0b5d730eb67ec97bf12186f80e5.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">松平春嶽（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><p>ここで気になったのが、将軍後見職に任命された一橋慶喜の動きです。</p><p>というのも、久光の働きによって両者が同時に幕府の要職についたにもかかわらず、制度改革を進めるにあたって慶喜の名がまったく出てこないからです。</p><p><br></p><h3>慶喜はどうしていたか</h3><p>では、慶喜は何をしていたのでしょうか。</p><p>調べていると、明治42年の昔夢会でこのようなやりとりがありました。</p><p>質問者は『徳川慶喜公伝』の編集にあたった井野辺茂雄です。</p><blockquote>井野辺　後見職という御職掌について伺います。<br>後見職と申します御職掌は、将軍家の後見をなさるもので、朝廷で申しますれば摂政のごとき者に当ると思いますが、将軍家に代って一切の政（まつりごと）を御裁決になる御機能を持っておいでになりましたのでございましょうか。<br>&nbsp;公（慶喜）　それは後見職の名義から言えば、そういうふうに相違ないが、しかしその節の後見職はそういうわけでないので、いろいろそこに事情がある。（中略）&nbsp;<br>&nbsp;まず早く言うと、閣老なら閣老、目付なら目付、三奉行なら三奉行を召して、たいがい腹が決まった上で……。&nbsp;<br>井野辺　御相談で……。<br>公　形は御相談だけれども、実は同意させて、後見・総裁の名前を出して行おう、そうすれば朝廷も何もおっしゃらない、諸大名もお受けをするのがよかろうという考えのようだった。（中略）<br>井野辺　政事総裁職などは、現在の総理大臣の意味でありましょうが、総理大臣だけの権限はお持ちになっておらぬのでございますか。&nbsp;<br>公　実権は持っておらぬ。&nbsp;<br>井野辺　ただ形式だけでございますか。&nbsp;<br>公　ただ形式だけだ。是非置くと（朝廷が）おっしゃるから、それを置いてこちら（幕府）の都合になるようにというわけだね。&nbsp;<br>【渋沢栄一編　大久保利謙校訂『昔夢会筆記　徳川慶喜公回想談』平凡社東洋文庫】&nbsp;</blockquote><p>&nbsp;何のことはない、朝廷の命令なので仕方なく受け入れたが、実権は持たせず名目だけの存在にされていたようです。</p><p>春嶽はそれでもがんばって文久の改革を行いましたが、慶喜の将軍後見職は老中以下の協力が得られず、名ばかりの存在だったと語っています。</p><p>早くいえば「蚊帳の外」に置かれていたのです。</p><p><br></p><h3>嫌われ者だった斉昭と慶喜</h3><p>ではなぜ慶喜が疎外されたのか？</p><p>一言でいえば、「みんなに嫌われていたから」です。</p><p>その原因は実父斉昭にありました。</p><p>慶喜を将軍家定の世子にして幕府を立てなおそうと安政4年（1857）から翌年にかけて行なわれた幕府改革運動、いわゆる一橋派の運動のことを、旧幕臣の戸川残花がこう語っています。</p><blockquote>一橋公（慶喜）を養君に為し参らせんと計るに当り頗る困難なりしは、元来一橋公の実父水戸前中納言（斉昭）の人と為りが将軍を初めとして幕吏の好む所ならず。<br>烈公は非凡の人なりと雖も有徳にして春風の温然たる君にはあらず。<br>寧（むしろ）秋霜烈日の国君なり。<br>特に家風の勤王論が余りに耳立ちし事も多く、其子の一橋公をして養君となさば如何に幕府をば搔き廻さんかとの杞憂はありしならん。<br>戊辰の当年すらも慶喜公は江戸に於て一般の人望は薄かりしなり。&nbsp;<br>【戸川残花『幕末小史』人物往来社　幕末維新史料叢書10】</blockquote><p>要するに実父である水戸斉昭が、過激な言動で幕府の役人たちから毛嫌いされていたため、慶喜が将軍の世子となって江戸城に入れば、斉昭も乗り込んできて引っかき回すにちがいないと、嫌がられたのです。&nbsp;</p><p>旧彦根藩士の石黒務も、松平春嶽から聞いた話として、「当時の現状は、将軍家を始めその奥向きも総て水戸家を嫌うと共に、一橋卿を忌むこと蛇蝎の如く」と語っています。（石黒務「松平春嶽卿極密話を筆記するもの左の如し」『旧幕府　第四巻第参号』）</p><p>幕吏だけでなく、家定将軍も大奥も、皆が斉昭とその息子である慶喜を嫌っていたというのです。</p><p>将軍後見職になったときの将軍は家茂でしたが、幕吏や大奥の慶喜に対する嫌悪感は変わっていませんでした。</p><p>慶喜は将軍になってからも江戸での人望がなかったと書いていますから、一度固まったイメージは変えられなかったようです。</p><p>前々回の「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58688450" target="_blank" class="u-lnk-clr">斉彬はなぜ名君になれたのか？</a>」で、寺島宗則が斉彬から、「いくら良いプランがあっても、日ごろの交際を通じて、お互いの気持ちが分かり合えていなければ協力が得られず、実現できない」と言われた話を紹介しましたが、コミュニケーションを大切にして、人に嫌われないようにしたいものです。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[阿部正弘も斉彬を頼った]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58712519/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/5bbc7953736f789f9df6d9673662a9a5_7becccc38d293045d6d54761f254dcc0.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58712519</id><summary><![CDATA[政治の中心は阿部老中　激動の時代と称される「幕末」は、ふつう嘉永6年（1853）の黒船来航から、明治元年（1868）までの期間をさします。わずか16年という短い年数ですが、それまで200年以上続いた天下泰平の時代とは様変わりしました。それを端的に示しているのが、幕府の政治をつかさどった老中の交代頻度です。手元にある日正社の『日本史小典』を見ると、「江戸幕府の大老・老中（幕府開設前の年寄職などをふくむ）」の総数は188名で、対象期間は275年間になります。この188名のうち、幕末に在任していた者（老中格をふくむ）は延べ50名いました。残り138名が幕末期を除く259年間の在任者です。幕末の老中は5人体制でしたが、それ以前も4～5人で務めていたので、いちおう幕末以前を4人体制と仮定して、一人あたりの任期を計算すると幕末以前：259年×4名÷138名＝7.5年幕末期　：16年×5名÷50名＝1.6年となり、幕末期の老中がひんぱんに交代していたことがよくわかります。そのような中で、幕末以前に就任してから幕末期に亡くなるまで、15年間老中を続けた人物がいました。阿部正弘です。歴史学者の松浦玲氏はその著書『徳川の幕末』の中で、「阿部正弘が生きているかぎり、政治は彼を中心に動いた」と述べていますが、まさに幕府の中心人物でした。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-04-05T08:00:39+00:00</published><updated>2026-04-05T08:03:17+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>政治の中心は阿部老中</h3><p>　激動の時代と称される「幕末」は、ふつう嘉永6年（1853）の黒船来航から、明治元年（1868）までの期間をさします。</p><p>わずか16年という短い年数ですが、それまで200年以上続いた天下泰平の時代とは様変わりしました。</p><p>それを端的に示しているのが、幕府の政治をつかさどった老中の交代頻度です。</p><p>手元にある日正社の『日本史小典』を見ると、「江戸幕府の大老・老中（幕府開設前の年寄職などをふくむ）」の総数は188名で、対象期間は275年間になります。</p><p>この188名のうち、幕末に在任していた者（老中格をふくむ）は延べ50名いました。</p><p>残り138名が幕末期を除く259年間の在任者です。</p><p>幕末の老中は5人体制でしたが、それ以前も4～5人で務めていたので、いちおう幕末以前を4人体制と仮定して、一人あたりの<span style="font-size: 16px; letter-spacing: 0.2px;">任期を計算すると</span></p><p>幕末以前：259年×4名÷138名＝7.5年</p><p>幕末期　：16年×5名÷50名＝1.6年</p><p>となり、幕末期の老中がひんぱんに交代していたことがよくわかります。</p><p>そのような中で、幕末以前に就任してから幕末期に亡くなるまで、15年間老中を続けた人物がいました。</p><p>阿部正弘です。</p><p>歴史学者の松浦玲氏はその著書『徳川の幕末』の中で、「阿部正弘が生きているかぎり、政治は彼を中心に動いた」と述べていますが、まさに幕府の中心人物でした。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/5bbc7953736f789f9df6d9673662a9a5_7becccc38d293045d6d54761f254dcc0.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

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			<h4 style="text-align: center;">阿部正弘肖像（ウイキメディア・コモンズ）</h4><p><br></p><h3>阿部が斉彬に接近</h3><p>なぜ幕府の政治が阿部を中心に動いたのか？</p><p>こういうと身も蓋もないのですが、じつは彼以外の老中が全員低レベルだったからです。</p><p>旗本でただ一人、大名ポストの若年寄にまで昇進した永井尚志（なおゆき）は、当時の老中についてこう語っています。</p><blockquote>旧時の閣老と申すは、多くは自分の意見ある人は少なし。<br>皆奥右筆等の意に出るもの多し。只阿部侯（正弘：原注）のみは自ら意見を出すの人なりし。<br>余人（は）意見を述ぶれば黙して聞くのみ、更に可否を云うことあらざりき。&nbsp;<br>【「島津家事蹟訪問録　故永井尚志君ノ談話」『史談会速記録　第173輯』】&nbsp;</blockquote><p>老中が参加する会議で発言するのは阿部だけで、あとの老中はみな事務方である奥右筆のいいなりで、自分の意見がなかったというのです。</p><p>これでは政治が阿部老中を中心に動いたはずです。</p><p>その阿部が頼りにしたのが、島津斉彬でした。</p><p>旧幕臣の福地源一郎がこのように書いています。（読みやすくするために、送り仮名をあらためています。原文は<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/1918535/1/36" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>）</p><blockquote>水野越前守（忠邦：原注）は、幕府を滅ぼすものは必ず薩摩ならんと予言せし程なれば、薩摩は幕府が近づけざる所たりしに、<br>阿部閣老は、この旧慣の疎遠を打ち破り、薩摩宰相（斉彬）を引き入れて幕府を輔佐せしめんと望み、おもむろにその款（よしみ）を通じたるに、<br>薩摩宰相もまた、日本のために、今日の長計は幕府を佐（たす）けて国家の元気を振興するに在りと信じ、<br>薩摩と阿部との交際は遂に親密になり（以下略）<br>【福地源一郎『幕府衰亡論』国文館】</blockquote><p>天保の改革で有名な老中水野忠邦は、「薩摩は関ヶ原の戦いで徳川にやぶれたうらみを忘れないはずだから、気を許してはいけない。幕府を倒すものは薩摩にちがいない」と言って薩摩藩を敵視していました。</p><p>しかし阿部正弘は、そのような古い思考を打破し、名君斉彬を仲間に引き入れて幕府を輔佐させようと望んで斉彬に接近しました。</p><p>また斉彬の方でも、日本のためには幕府に協力して国力を高める必要があると信じていたので、二人は親密な友人となったのです。</p><p><br></p><h3>斉彬は阿部邸に居続け</h3><p>斉彬と阿部正弘の親密な交際ぶりについて、江戸藩邸の馬廻役として斉彬に仕えていた本田孫右衛門が、このように語っています。（読みやすくするために、一部漢字を平仮名に変えています）</p><blockquote>その時分の御老中の筆頭は阿部侯で、始終阿部家へは朝御登城前に入らっしゃる。<br>そうすると御登城の時間になると阿部侯は其儘（そのまま）御登城になると、（斉彬）公は後に残って御居でのことが多うござりました。<br>又其時分の阿部侯と云うと大変利けて居られまして、世間の評判には幕府の政治の事も半分は島津公の御意見であると云う事を話して居りました。&nbsp;<br>【本田孫右衛門「島津斉彬公逸事問答数條」『史談会速記録第269輯』】</blockquote><p>本田は馬廻役なので斉彬の外出には必ず同行しますから、斉彬の動静はよく知っています。</p><p>斉彬は、朝阿部老中の登城前に阿部邸に行って、阿部が江戸城に登城したあとも阿部邸に残り、阿部の帰宅を待ち受けて、また続きを話し合っていたようです。</p><p>そのころの阿部は世間の評価が非常に高かったのですが、斉彬との親密な関係も知られていたので、阿部が行なう幕府の政治も半分は斉彬の意見だろうと噂されていた、と本田が語っています。</p><p>福地源一郎は先ほどの文章のあとに、</p><p>「もし薩摩宰相と阿部閣老とをして、その寿（寿命）を永からしめば、水戸をも乖離せしめず、安政五年の変もなかりしならんに、薩・阿部両侯ともに世を早くせられたる（早逝した）は幕府衰亡の運なりと云うべきか。」</p><p>と綴っています。</p><p data-placeholder="">安政五年の変というのは、安政5年6月に大老井伊直弼が孝明天皇の勅許をうけずに日米修好通商条約を結んだことに端を発した一連の弾圧事件です。</p><p data-placeholder="">福地は<span style="font-size: 16px; letter-spacing: 0.2px;">阿部と斉彬の両人が長生きしていればこのような事件は起こらなかったと書いていますが、たしかに二人が存命であったら</span><span style="font-size: 16px; letter-spacing: 0.2px;">その後の日本の歴史が大きく異なっていたことは間違いないでしょう。</span></p><p><br></p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[斉彬はなぜ名君になれたのか？]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58688450/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/b88a5d312b868317278297517b5b38de_b01a143dddfa86c188493a39d93902df.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58688450</id><summary><![CDATA[益友　タイトルがいきなり『ブラタモリ』のお題みたいになってしまいました。じつは、ここのところ、来月に照國神社で行なう講演「斉彬公交遊録～大名編～」のパワーポイント資料とレジュメの作成に取り組んでいます。その中でふと気になることがありました、それが「なぜ名君になれたのか？」です。島津斉彬が名君だというのはどんな本にも書かれていますが、なぜ名君になったのかという考察はあまり見かけません。いちおうの指摘として、「母親（弥姫：いよひめ）の教育がよかった」とか、「蘭癖といわれた曾祖父（重豪：しげひで）の影響で西洋のものに興味をもった」とか書かれてはいますが、要は「もともと頭が良かった上に、使命感が強く、勉強熱心だった」から名君になれたというイメージです。でも、それだけでは何となく物足りません。今回、講演のために史料を読み直していたら、興味深い意見を見つけました。斉彬に仕えて集成館事業やフランス軍艦購入の秘密交渉（斉彬急逝でキャンセル）にたずさわり、維新後は島津家事蹟調査員となって、斉彬の事蹟を追って多数の関係者に聞き取り調査を行なった市来四郎の発言です。（読みやすくするため、一部漢字を平仮名に変えています）斉彬は御同族方大小名その他に交際の広き人で、ことさらに御交わり申したは水戸烈公を始めとして、これは師として仰ぎ居られた様子に聞いております。友達には尾州（徳川慶勝）公、（松平）春嶽公、（山内）容堂公、伊達宗城公、蜂須賀（斉裕）侯、佐賀（鍋島直正）侯、米沢侯（上杉斉憲）等、その他幕吏の中にも有名な筒井（政憲）、川路（聖謨）、岩瀬（忠震）などの人々にて、今日より見ますれば誠によい御友達で、益友であったと考えます。 （中略） いわゆる友達がよいから、それが為めにも大に当人の知恵を研いだであろうと存じます。とかく天稟（てんぴん）の才はありても交友が第一でござります。 【市来四郎「薩隅日尊王論の大勢及尊王家勃興の事実附三十一節」『史談会速記録第8輯』】 「友達がよかったから」というのが、市来の見解です。市来は「益友」という表現を使っていますが、これは中国の古典『晏子春秋（あんししゅんじゅう）』に出て来る言葉で、「聖賢の君，皆益友を有す」とあります。「聖賢の君だから益友が集まってくる」のか「益友がいたから聖賢の君になれた」のか、市来は「天稟の才はありても交友が第一」と語っていますから、益友というべき人々とつきあっていたから知恵や人格が磨かれたとの見解です。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-03-29T08:00:58+00:00</published><updated>2026-03-29T08:01:09+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>益友</h3><p>　タイトルがいきなり『ブラタモリ』のお題みたいになってしまいました。</p><p>じつは、ここのところ、来月に照國神社で行なう講演「斉彬公交遊録～大名編～」のパワーポイント資料とレジュメの作成に取り組んでいます。</p><p>その中でふと気になることがありました、それが「なぜ名君になれたのか？」です。</p><p>島津斉彬が名君だというのはどんな本にも書かれていますが、なぜ名君になったのかという考察はあまり見かけません。</p><p>いちおうの指摘として、「母親（弥姫：いよひめ）の教育がよかった」とか、「蘭癖といわれた曾祖父（重豪：しげひで）の影響で西洋のものに興味をもった」とか書かれてはいますが、要は「もともと頭が良かった上に、使命感が強く、勉強熱心だった」から名君になれたというイメージです。</p><p>でも、それだけでは何となく物足りません。</p><p>今回、講演のために史料を読み直していたら、興味深い意見を見つけました。</p><p>斉彬に仕えて集成館事業やフランス軍艦購入の秘密交渉（斉彬急逝でキャンセル）にたずさわり、維新後は島津家事蹟調査員となって、斉彬の事蹟を追って多数の関係者に聞き取り調査を行なった市来四郎の発言です。（読みやすくするため、一部漢字を平仮名に変えています）</p><p><br></p><blockquote>斉彬は御同族方大小名その他に交際の広き人で、ことさらに御交わり申したは水戸烈公を始めとして、これは師として仰ぎ居られた様子に聞いております。<br>友達には尾州（徳川慶勝）公、（松平）春嶽公、（山内）容堂公、伊達宗城公、蜂須賀（斉裕）侯、佐賀（鍋島直正）侯、米沢侯（上杉斉憲）等、その他幕吏の中にも有名な筒井（政憲）、川路（聖謨）、岩瀬（忠震）などの人々にて、今日より見ますれば誠によい御友達で、益友であったと考えます。<br>&nbsp;（中略）&nbsp;<br>いわゆる友達がよいから、それが為めにも大に当人の知恵を研いだであろうと存じます。とかく天稟（てんぴん）の才はありても交友が第一でござります。<br>&nbsp;【市来四郎「薩隅日尊王論の大勢及尊王家勃興の事実附三十一節」『史談会速記録第8輯』】&nbsp;</blockquote><p><br></p><p>「友達がよかったから」というのが、市来の見解です。</p><p>市来は「益友」という表現を使っていますが、これは中国の古典『晏子春秋（あんししゅんじゅう）』に出て来る言葉で、「聖賢の君，皆益友を有す」とあります。</p><p>「聖賢の君だから益友が集まってくる」のか「益友がいたから聖賢の君になれた」のか、市来は「天稟の才はありても交友が第一」と語っていますから、益友というべき人々とつきあっていたから知恵や人格が磨かれたとの見解です。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/b88a5d312b868317278297517b5b38de_b01a143dddfa86c188493a39d93902df.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

		<div>
			<h4 style="text-align: center;">市来四郎（東京科学博物館編『江戸時代の科学』）</h4><p><br></p><p><br></p><h3>江戸では来客が絶えず</h3><p>以前「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58219665" target="_blank" class="u-lnk-clr">日々是勉強</a>」で書きましたが、明治政府で外務卿（外務大臣）や元老院議長などの要職を務めた寺島宗則（旧名松木弘安）は、若いころ斉彬の侍医兼伽役として仕えていました。&nbsp;</p><p>寺島は常に斉彬の側にいたため、斉彬のことをよく知っています。</p><p>明治18年に斉彬の言行調査に訪れた市来四郎らに寺島が渡した書付には、斉彬の事業や人使いなどさまざまなことが書かれていますが、その中にこのような記述がありました。（読みやすくするため現代仮名づかいに変えています。原文は<a href="https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221202131133-1.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>の782頁）</p><blockquote>公謂（い）えらく、善政勧誘の功は、交際相通じ情誼相貫くにあらざれば之を遂ぐるを得ず。&nbsp;<br>故を以て幕府当時の顕官には阿部伊勢守、堀田備中守等、及び藩主は蜂須賀斉裕・黒田斉溥・鍋島斉正・松平春嶽・伊達宗城・藤堂高猷・山内容堂等と交わり、来住断ることなく、在東の時には日々来客なきことあらん。<br>【「四七〇　寺島宗則記述」『鹿児島県史料　斉彬公史料第三巻』】</blockquote><p>寺島は斉彬から聞いた話として、「いくら良いプランがあっても、日ごろの交際を通じて、お互いの気持ちが分かり合えていなければ協力が得られず、実現できない」と書いています。</p><p>斉彬は幕府や他の大名を「善政に勧誘」するには日頃の付き合いが重要だと考え、そのために老中や有力藩主たちと幅広く交流していたようです。&nbsp;</p><p>寺島によれば、「斉彬公は来る人を拒むことがなかったので、江戸にいるときは毎日来客があった」とのこと。&nbsp;</p><p>とはいえ、誰とでも付き合うのではなく、遊び友達というのはいません。</p><p>みな益友というべき人たちで、彼らとの交流によって斉彬自身も向上していたのです。</p><p>そして、このような親密な付き合いがあったから諸大名や幕府の協力を得ることができて、成果をあげ、江戸時代最高の名君と呼ばれるようになったのでしょう。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[人使いはガマンから]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58274212/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/803ace99e7c7e2bf828440749ccaae0a_d38af1a31ae0e960e7905af448005137.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58274212</id><summary><![CDATA[薩摩では「学者」は蔑称だった　今回は久しぶりに島津斉彬を取り上げます。斉彬が藩主になったときの薩摩は、まだ戦国時代の気風を引きずっていて、学問よりも武勇をたっとぶ風潮がありました。斉彬に侍医として仕え、明治政府で外務卿（外務大臣）をつとめた寺島宗則（旧名　松木弘安）が、明治18年に斉彬の事績をたずねてきた市来四郎に渡した書付には、このような記述がありました。（読みやすくするために、一部漢字を仮名に変えて句読点を補っています。原文はこちらの782頁）藩風、従来武を嗜（たしな）み文に疎（うと）し。（斉彬）公の時に至って大いにその弊風を正さんとて、文武併行を主とせられたり。江夏十郎・平川宗之進・郡山一介・清水源兵衛等は、人これを学者と称して用えず。けだし学者は迂闊（うかつ）の謂（いい：呼び名）なりし。然れども公、無学の徒に勝れりとて、これを挙用せらる。【「四七〇　寺島宗則記述」『鹿児島県史料　斉彬公史料第三巻』】斉彬は、文よりも武を優先するという、時代にあわない薩摩の藩風をただすために、「文武併行」を主張します。つまり、「武道の心得も大事だが、それだけではだめで、学問も身に付けよ」ということです。そのころの薩摩では、「学者」は「頭でっかちの役立たず」を意味する蔑称でした。しかし、斉彬は「無学な者よりはましだ」といって江夏（こうか）十郎・平川宗之進・郡山一介・清水源兵衛ら学者と呼ばれて馬鹿にされていた人々を積極的に採用しました。使える人物たち寺島によれば、江夏十郎など斉彬が新規採用した人々は、「或は方正を以て称せられ、或いは吏務に長ぜり」とあるので、品行方正だったり、実務にたけていたりする、一言でいえば「使える人物」でした。鹿児島の仙巌園に隣接する集成館は斉彬が日本近代化のモデルにするために造った工場群ですが、『島津斉彬言行録』には集成館の掛役人の中に江夏・清水・郡山の名前が書かれています。このうち江夏十郎は、集成館事業の中心になる、反射炉製造の担当に選ばれました。そうして何度も失敗を重ねながらもあきらめず、ついに反射炉を完成させています。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-03-22T08:00:18+00:00</published><updated>2026-08-18T09:06:33+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<h3>薩摩では「学者」は蔑称だった</h3><p>　今回は久しぶりに島津斉彬を取り上げます。</p><p>斉彬が藩主になったときの薩摩は、まだ戦国時代の気風を引きずっていて、学問よりも武勇をたっとぶ風潮がありました。</p><p>斉彬に侍医として仕え、明治政府で外務卿（外務大臣）をつとめた寺島宗則（旧名　松木弘安）が、明治18年に斉彬の事績をたずねてきた市来四郎に渡した書付には、このような記述がありました。（読みやすくするために、一部漢字を仮名に変えて句読点を補っています。原文は<a href="https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221202131133-1.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>の782頁）</p><blockquote>藩風、従来武を嗜（たしな）み文に疎（うと）し。<br>（斉彬）公の時に至って大いにその弊風を正さんとて、文武併行を主とせられたり。<br>江夏十郎・平川宗之進・郡山一介・清水源兵衛等は、人これを学者と称して用えず。<br>けだし学者は迂闊（うかつ）の謂（いい：呼び名）なりし。<br>然れども公、無学の徒に勝れりとて、これを挙用せらる。<br>【「四七〇　寺島宗則記述」『鹿児島県史料　斉彬公史料第三巻』】</blockquote><p>斉彬は、文よりも武を優先するという、時代にあわない薩摩の藩風をただすために、「文武併行」を主張します。</p><p>つまり、「武道の心得も大事だが、それだけではだめで、学問も身に付けよ」ということです。</p><p>そのころの薩摩では、「学者」は「頭でっかちの役立たず」を意味する蔑称でした。</p><p>しかし、斉彬は「無学な者よりはましだ」といって江夏（こうか）十郎・平川宗之進・郡山一介・清水源兵衛ら学者と呼ばれて馬鹿にされていた人々を積極的に採用しました。</p><p><br></p><h3>使える人物たち</h3><p>寺島によれば、江夏十郎など斉彬が新規採用した人々は、「或は方正を以て称せられ、或いは吏務に長ぜり」とあるので、品行方正だったり、実務にたけていたりする、一言でいえば「使える人物」でした。</p><p>鹿児島の仙巌園に隣接する集成館は斉彬が日本近代化のモデルにするために造った工場群ですが、『島津斉彬言行録』には集成館の掛役人の中に江夏・清水・郡山の名前が書かれています。</p><p>このうち江夏十郎は、集成館事業の中心になる、反射炉製造の担当に選ばれました。</p><p>そうして何度も失敗を重ねながらもあきらめず、ついに反射炉を完成させています。</p><p><br></p>
		</div>
	
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/803ace99e7c7e2bf828440749ccaae0a_d38af1a31ae0e960e7905af448005137.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

		<div>
			<h4 style="text-align: center;">旧集成館にあった反射炉の復元模型（仙厳園　世界遺産オリエンテーションセンター）</h4><h4 style="text-align: center;">（後方に見える石垣は反射炉跡：ブログ主撮影）</h4><p><br></p><p>寺島宗則は、江夏について、このように述べています。（読みやすくするために、一部漢字を仮名に変えて句読点を補っています。原文は<a href="https://www.pref.kagoshima.jp/ab23/reimeikan/siroyu/documents/6756_20221202131133-1.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>の781頁）</p><blockquote>公の言に、人を用ゆるに各一事に適せざるものなし。<br>これに短なるも、彼れに長ずる処あり。<br>たとえば、江夏十郎の如きは、単に君命を貫徹するの任に堪う。<br>かつて磯に製鉄竃（反射炉）を築けと令したる時、福崎助八等しきりにその浪費を嫌い、異議せしも、彼（江夏）これを推して建築成功せり。<br>これらは十郎にあらざれば他人為すこと能わずと。<br>今当時在官の人を想えば、多くは尋常に抜け出ずることなしと雖も、公これを適宜に使用せられしは、実に止むを得ざる時勢なりと雖も、容忍の君才あるにあらざれば此に至ること能わず。<br>【「四七〇　寺島宗則記述」『鹿児島県史料　斉彬公史料第三巻』】</blockquote><p>江夏十郎の長所は「命じられたことを忠実に遂行する」ところにありました。</p><p>斉彬はそれを見抜いて、江夏に反射炉築造を担当させたのです。</p><p>福崎助八というのは藩の用人（建築掛）ですが、現代の財務官僚のような緊縮財政論者で、トライアンドエラーを繰り返すばかりの反射炉築造を「金食い虫だ」と言って異議を唱えていました。</p><p>しかし、そのような福崎の抵抗にもかかわらず、江夏は斉彬から与えられた使命の達成に全力を尽くし、とうとう完成させました。</p><p>それで寺島は、「これらは十郎でなければ。他の人ではできなかった」と書いているのです。</p><p><br></p>
		</div>
	
		<div>
			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/5e92e5f12a50055895446c94b3514c11_c4f034365f958e4b98d8b1c950c05cbb.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

		<div>
			<h4 style="text-align: center;">寺島宗則（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>容認の君才</h3><p>斉彬は、「人間は誰でも、何か一つはできるものがある。これはだめでも、あれは上手だというものがある」と言っています。</p><p>寺島は、「いま、あのころいた人々を思い出せば、多くは普通の能力しかない人だったが、斉彬公が彼らを適所に配置して使ったのは、人材がいないのでやむを得なかったとはいえ、『容忍の君才』がなければ、このような成果をあげることはできなかっただろう」と書いています。</p><p>「容忍の君才」というのは少しわかりにくいのですが、「ものごとを耐え忍んで受け入れる才能」という意味でしょう。</p><p>斉彬は、部下たちを各人の長所を活かした部署に配属しました。</p><p>優秀な人間は少なく、ほとんどは平凡な人たちです。</p><p>したがって、失敗も多かったことでしょう。</p><p>しかし、斉彬は彼らの失敗には目をつぶり、じっとがまんして、それぞれが与えられたポストで自分の持ち味を発揮するまで待っていました。</p><p>要は各人の適性を見抜いて、適所に配置するということです。</p><p>昭和を代表する経営者のひとり、本田技研創業者の本田宗一郎氏はこう語っています。</p><blockquote>石は石でいいんですよ、ダイヤはダイヤでいいんです。<br>そして、監督者は部下の得意なものを早くつかんで、伸ばしてやる、適材適所へ配置してやる。<br>そうなりゃ、石もダイヤもみんなほんとうの宝になるよ。<br>【「本田宗一郎語録」『本田宗一郎　夢を力に』日経ビジネス人文庫】</blockquote><p>名経営者の考えることは同じですね。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[江戸時代の「暗記カード」]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58594376/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/f8e3cb4708a5f19426e314a7209e7ac3_17e9d3cbe2486a3e6a138697b5959f5a.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58594376</id><summary><![CDATA[下座見カルタ　前回は大名行列の先頭を歩きながら向こうからやってくる行列の槍鞘を見て、だれの行列かをすばやく判断する「下座見」という役割を紹介しました。ここでひとつ疑問がわきます。それは、「下座見はどのようにして各大名の槍鞘をおぼえたのか？」です。武鑑の各ページを繰りながらおぼえていったのでしょうか？じつは、私たちが英単語を暗記するときにつくった「単語カード」と同じようなものがありました。それが「下座見カルタ」です。たとえば、このようなもの（タテ7.8cm　ヨコ4.5cm）。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-03-15T08:00:09+00:00</published><updated>2026-03-15T08:01:50+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<h3>下座見カルタ</h3><p>　前回は大名行列の先頭を歩きながら向こうからやってくる行列の槍鞘を見て、だれの行列かをすばやく判断する「下座見」という役割を紹介しました。</p><p>ここでひとつ疑問がわきます。</p><p>それは、「下座見はどのようにして各大名の槍鞘をおぼえたのか？」です。</p><p>武鑑の各ページを繰りながらおぼえていったのでしょうか？</p><p>じつは、私たちが英単語を暗記するときにつくった「単語カード」と同じようなものがありました。</p><p>それが「下座見カルタ」です。</p><p>たとえば、このようなもの（タテ7.8cm　ヨコ4.5cm）。</p>
		</div>
	
		<div>
			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/f8e3cb4708a5f19426e314a7209e7ac3_17e9d3cbe2486a3e6a138697b5959f5a.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

		<div>
			<h4 style="text-align: center;">下座見カルタ（ブログ主蔵）</h4><p><br></p><p>じつはこれ、以前に古美術商のカタログで見つけて、何かよくわからないまま買ってみたものです。</p><p>届いたものを見ると、カルタといいながら札が1種類しかありませんでした。</p><p>つまり「読み札」と「取り札」のセットではないのです。</p><p>これではカルタ取りはできません。</p><p>では神経衰弱のように遊んだのかと思えば、図柄は全部違っています。</p><p>いったい何に使ったものか、わからないままに放置していました。</p><p><br></p><h3>暗記カード</h3><p>その後『史談会速記録』で「下座見は槍印を知らねばならない」と語っているのを読んだときに、ふとこのカルタのことを思い出しました。</p><p>そこで、「下座見カルタというのは、新任の下座見役が使った暗記カードではないのか」とひらめいたのです。</p><p class="">つまり中学や高校の時に、英単語を覚えるために作ったアレです。</p>
		</div>
	
		<div>
			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/f1687f3c2a2866e06d3c239d868bb221_a976fabf0fe3232523ea606fe8b48b91.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

		<div>
			<p>これは、ブログ主の仮説です。</p><p>というか、そもそも歴史学者は下座見カルタなど取り上げません。</p><p>ちなみに、ブログ主所有の下座見カルタはこういう状態です。</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/7b87e16a920fdafe3fcbbfe63588b466_08f2b18ad0c414e42eb572b7eb4b64ef.jpg?width=960" width="100%">
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			<p>墨で黒く塗られた木箱に263枚の札が入っていて、箱の底とふたの裏に小さく「ホ」と書かれています。</p><p>これも推測ですが、どこかの大名家で使われて5セット以上あったものの5番目（イロハ順）かと思われます。</p><p>書かれている大名たちの名前からすると、慶応元年時点のものです。</p><p>武鑑にある大名の札が欠けていたり、おなじ札が2枚入っていたりするのは、ほかのセットと入りまじってしまったのでしょう。　</p><p>インターネットで調べると、尾張徳川家の所蔵品にも「<a href="https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=TAM47181" target="_blank" class="u-lnk-clr">大名かるた</a>」という名称の下座見カルタが伝わっており、次のように説明されています。　</p><blockquote>表に大名の名前、裏には家紋と大名行列の指標となる毛槍（けやり）・長刀（なぎなた）・立傘（たてがさ）の諸道具を描く。<br>裏を広げておいて、大名の名乗（なのり）を読み上げ、合う札を取ったのであろう。<br>「下座見（げざみ）かるた」とも呼ばれ、登城する大名の答礼を判断する下座見役が、諸道具で大名を識別する訓練に役立った。<br>札に書かれた大名の名乗から、天保年間（1830～44）の頃に製作されたことがわかる。&nbsp;&nbsp;</blockquote><p>説明には「登城する大名の答礼を判断する下座見役が、諸道具で大名を識別する訓練」に使ったとされていますが、名古屋城に登城する大名はいませんから、門番役の下座見ではなく、江戸城に登城する行列の先頭に立つ下座見が使ったものでしょう。</p><p>「大名の名乗を読み上げ」とありますが、そうであれば「読み札」が必要です。</p><p>この札を読み札に使ってしまえば、場には「合う札」がなくなります。</p><p>これはやはり暗記カードと考えるべきでしょう。</p><p>彩色も美しく見事な仕上がりで、さすが御三家と言いたくなります。</p><p><br></p><h3>カルタ取り</h3><p>国立歴史民俗博物館のホームページにある「歴史民俗資料調査カード（民俗）」の「<a href="https://khirin-a.rekihaku.ac.jp/rekimin-minzoku/rf32847089" target="_blank" class="u-lnk-clr">大名槍印かるた　下座見かるたともいう&nbsp;</a>」という項目には、兵庫県芦屋市にある<a href="http://www.tekisui-museum.biz-web.jp/collection/index.html" target="_blank" class="u-lnk-clr">滴翠美術館</a>（カルタのコレクションがあります）の所有する下座見カルタが紹介されています。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/dddff7dde775f221d2f0433f1ebcd16b_8ca5b36a7d64dbc0a5619b954d2198ba.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">大名槍印かるた（国立民俗博物館ホームページ）</h4><p><br></p><p>このカルタの説明は以下のとおりです。</p><blockquote>製作年代：江戸・天保期<br>製作法・材料：紙地　肉筆　（表）白地素地　（裏）金箔粗散し<br>出札は姓名・城地・立道具の種類、説明を書いた字札。地札は表の上部に家紋、下部に立道具を簡単な彩色入で描いた絵札。出札同様の説明を書入れ、裏に姓名城地を書いてある。</blockquote><p>こちらは字札（出札）と絵札（地札）がセットになっているので、カルタとりに使われた可能性がありますね。</p><p>ちなみに、大岡越前守は慶応2年の武鑑ではこのように記載されています。</p><p>槍の横にはカルタと同様に「黒らしや　上ギン　三角」と書かれています。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/cf73585b5de69d3ee36966c662246ab4_a96ec5f8bca354514c5b33c9e347d322.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">『新版改正慶応武鑑』（大岡越前守部分、国立公文書館蔵）</h4><p><br></p><h3>幼少の家茂将軍は下座見カルタで遊んだ</h3><p>調べていたらじっさいにカルタとして使用した話もありました。</p><p>これは旧幕臣の戸川安宅（とがわ　やすいえ）が書いたもので、14代将軍家茂がまだ紀州藩主だったころのエピソードです。（読みやすくするため、一部漢字を仮名に改め、句読点をおぎなっています。原文は<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/991619/1/87" target="_blank" class="u-lnk-clr">こちら</a>）</p><blockquote>高橋五助は公の御補導掛りなり。<br>ある時、同藩臣堀内信に大名カルタというを認（したた）めよと申されしゆえ、半年ばかりも毎月朔日と十五日（幕府の式日）に桔梗御門と桜田御門の下馬先に通い、二百六十有余の大名の槍、長刀、道具の実際を正し、領知高・領国・爵位官名を認めたるを差し上げしに、暫時（ざんじ：わずかのま）に御記憶になり、領知高国郡を半分読み上ぐるや否や速やかに取り給いしとぞ。<br>この時公は六七歳ならんという。<br>【「逸事逸話」戸川安宅『幕末小史』春陽堂】</blockquote><p>家茂はわずか4歳で家督を継ぎ、6歳で元服して慶福（よしとみ）を名乗っています。</p><p>６、７歳の時の話と書いているので、元服のころでしょうか。</p><p>慶福から大名カルタ作成を命じられた家臣の堀内信が、大名の登城日のつど江戸城に通い、実際に道具の形を確認してカルタを作成しました。</p><p>槍・長刀の絵と石高・領国・官位が書かれた札を作って渡したら、すぐに覚えてしまい、石高と領国を半分読み上げたところですばやく札を取ったとあります。</p><p>おそらくは滴翠美術館のカルタのように、字札と絵札が分かれている形式だったのでしょう。</p><p>家茂将軍の記憶力の良さを示すエピソードとして書かれたものですが、ブログ主としてはどんなカルタだったのかが気になるところです。</p>
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	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[大名行列を見分ける専門職がいた]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58579097/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/c4aac943a31aa9541b7bee8ffe7bd46f_7aa19815d99843bb7680c9225aae6525.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58579097</id><summary><![CDATA[下座見　前回の話で旧広島藩主の浅野長勲（ながこと）が、江戸市中では大名行列どうしが出会うことが始終あり、そのばあい「向うから行列を見ると、上杉弾正大弼様というふうに、先におる者が知らせる」と語っていたことを紹介しました。この「先におる者」というのが「下座見（げざみ）」です。一般的には、「下座見は江戸城諸門の門番下役で、登城行列の鑑別を行なった」とされていますが、大名行列にも下座見がいました。大名行列での下座見の役割 について、國學院大學の根岸教授は「先払いは『下座見』ともいわれ、通行の先触れだけではなく、近づいてくる他の行列を、その行粧や槍印で判断し対応を決める能力を要求されていた」 と解説しています。【真田宝物館の特別展「真田家の大名行列」図録109頁】「通行の先触れ」というのは、時代劇で大名行列が進むときに言う「下にい～、下にい～」ですが、実際には「控えろ～」とか「よけろ～」のように、わかりやすい言葉だったようです。それ以上に重要な役目が、「近づいてくる他の行列を、その行粧や槍印で判断」することでした。浅野長勲が語っていたように、向こうから来る行列が一般の大名ならすれ違いざまに駕籠の戸をあけて目礼するだけですが、御三家クラスなら駕籠をおりて平伏しなければなりません。そのため、もし遠目に見える行列が御三家であればコースを変更し、脇道に入って出会いを回避する必要がありました。下座見の責任は重かったのです。下の錦絵は毛利家の行列を描いたものですが、先頭にいる二人が下座見です。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-03-08T08:00:29+00:00</published><updated>2026-03-08T08:01:38+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>下座見</h3><p>　前回の話で旧広島藩主の浅野長勲（ながこと）が、江戸市中では大名行列どうしが出会うことが始終あり、そのばあい「向うから行列を見ると、上杉弾正大弼様というふうに、先におる者が知らせる」と語っていたことを紹介しました。</p><p>この「先におる者」というのが「下座見（げざみ）」です。</p><p>一般的には、「下座見は江戸城諸門の門番下役で、登城行列の鑑別を行なった」とされていますが、大名行列にも下座見がいました。</p><p>大名行列での下座見の役割 について、國學院大學の根岸教授は</p><p>「先払いは『下座見』ともいわれ、通行の先触れだけではなく、近づいてくる他の行列を、その行粧や槍印で判断し対応を決める能力を要求されていた」&nbsp;</p><p>と解説しています。【真田宝物館の特別展<a href="https://www.sanadahoumotsukan.com/up_images/bok/bok_828b6e38.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">「真田家の大名行列」図録</a>109頁】</p><p>「通行の先触れ」というのは、時代劇で大名行列が進むときに言う「下にい～、下にい～」ですが、実際には「控えろ～」とか「よけろ～」のように、わかりやすい言葉だったようです。</p><p>それ以上に重要な役目が、「近づいてくる他の行列を、その行粧や槍印で判断」することでした。</p><p>浅野長勲が語っていたように、向こうから来る行列が一般の大名ならすれ違いざまに駕籠の戸をあけて目礼するだけですが、御三家クラスなら駕籠をおりて平伏しなければなりません。</p><p>そのため、もし遠目に見える行列が御三家であればコースを変更し、脇道に入って出会いを回避する必要がありました。</p><p>下座見の責任は重かったのです。</p><p>下の錦絵は毛利家の行列を描いたものですが、先頭にいる二人が下座見です。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/c4aac943a31aa9541b7bee8ffe7bd46f_7aa19815d99843bb7680c9225aae6525.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">周延『温故東の花　旧諸侯参勤御入府之図』（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>見分けの専門職</h3><p>先触れについて、実際に大声を上げるのは行列本体より少し先を行く中間（ちゅうげん）、つまり雇われ人足たちです。</p><p>下座見のメインの仕事は先触れではありません。</p><p>斉彬の馬廻役をつとめた本田孫右衛門が、明治37年の史談会の質疑応答でこのように語っています。&nbsp;</p><blockquote>寺師（宗徳）　国主大名と譜代大名の御会釈振は如何でありましたか。&nbsp;<br>岡谷（繁実）　それは譜代の方で譲る、下座見がチャンと見て居る。&nbsp;<br>本田（孫右衛門）　道具と六尺の印しを知らねばならぬ。&nbsp;<br>【本田孫右衛門「島津斉彬公逸事問答数条」『史談会速記録　第169輯』】</blockquote><p>本田は、「下座見が見損なってはならぬから、そればかりの職掌である」とも語っています。</p><p>つまり下座見というのは、向こうから来るのが誰の行列なのかをすばやく見分ける専門職でした。</p><p>見分ける基準は本田が言うように、「道具（槍、長刀）と六尺の印し（中間の衣服）」です。</p><p>そのなかでも、ひときわ目立つのが「槍」でした。</p><p>というのも、槍は立てて持つので遠くからでも目立つ上に、鞘の形が家によって異なっていたからです。</p><p>下座見は前方からくる行列にかかげられている槍鞘の形を遠くからみて、「ナントカカントカ様～」と呼びあげ、それを聞いた行列のコントローラー（おそらく供頭）は相手が誰かによって対応を変えました。</p><p>もしそれが御三家だったら、急いで脇道を探したことでしょう。</p><p><br></p><h3>武鑑でも槍鞘を表示</h3><p>槍鞘はこのように重要な目印となるので、大名名鑑である『武鑑』では、藩主名のすぐ近くに槍鞘と長刀鞘の形状が表示されています。</p><p>たとえば、薩摩藩の場合はこうです。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/b212a616c9983ff80cde16cbd116e629_88c879a534ba3dcf94c1b553ced8e313.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">『安政大成武鑑』島津斉彬冒頭部分（ブログ主蔵）</h4><p><br></p><p>以前も書きましたが『武鑑』は大名行列見物ガイドブックの機能もあったので、家紋と並んで大名判別の重要なポイントである槍鞘が名前の近くに書かれています。</p><p>残念ながら薩摩藩の槍鞘は現存していないため武鑑との照合ができませんが、さいわい松代藩真田家の博物館である「真田宝物館」には真田家の道具類が残っており、槍鞘も実物と武鑑をくらべて見ることができます。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/87627d69757cf4c38276d15dcee56f93_d15108b822033c5221500fbc4c5c17be.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">松代藩真田家槍鞘　（真田宝物館<a href="https://www.sanadahoumotsukan.com/up_images/bok/bok_828b6e38.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">『松代藩の参勤交代』図録</a>61頁）</h4>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/00a3fb30ced5fe706a500b401d53a316_c70c8f98679f8c16da274c67d2552875.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">『安政大成武鑑』真田家槍鞘部分</h4><h4 style="text-align: center;">左の槍鞘には「山鳥の毛」右の槍鞘には「黒らしや」の注記がある</h4><p style="text-align: center;"><br></p><p>ついでに陸尺（ろくしゃく、六尺）の衣装も見てみましょう。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/c9a5515a3f35b32f0bc23d3aacb38a7d_46ea9c8bbfd55310fba71bc35971ec13.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">松代藩真田家陸尺衣服　（真田宝物館<a href="https://www.sanadahoumotsukan.com/up_images/bok/bok_828b6e38.pdf" target="_blank" class="u-lnk-clr">『松代藩の参勤交代』図録</a>63頁）</h4>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/09abcd828f93bbf07feb470edaaa9b95_d73b09e97417d7193ba73a402c2b9d83.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">『安政大成武鑑』真田家陸尺部分（上左は写真左の衣装柄、下は右の衣装）</h4><p><br></p><p><br></p><h3>錦絵でも正確に描写</h3><p>冒頭にあげた錦絵『温故東の花第四篇 旧諸侯参勤御入府之図 』は明治22年（1889）に製作されたものですが、槍鞘が武鑑どおりに描かれています。</p>
		</div>
	
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/8eb1a4afd593693a49d8864da9ba0d02_e9252ea655b1744cfa0348b88bf331ad.jpg?width=960" width="100%">
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		<div>
			<h4 style="text-align: center;">周延『温故東の花　旧諸侯参勤御入府之図（部分）』（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/b21a7f547c45d1d444c623f424140c19_14e27c865c0f4df82fcc1bddeb20f601.jpg?width=960" width="100%">
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		<div>
			<h4 style="text-align: center;">『安政大成武鑑』にある毛利家の槍鞘</h4><p class=""><br></p><p class="">作者の楊州周延（ようしゅう　ちかのぶ）は天保9年（1838）生まれの旧高田藩士で、慶応元年（1865）の第2次長州戦争にも参加していますから、大名行列も実際に見ていたでしょう。</p><p class="">製作されたのは明治22年でも、江戸時代の行列をできるだけ忠実に再現したのだと思います。</p><p class="">日本人の気質でしょうが、リアリティーを求めるという考え方は昔から変わりません。</p><p>現在でも時代劇にはかならず「時代考証」の担当がいますし、「<a href="https://jidaikousyou.jp/" target="_blank" class="u-lnk-clr">時代考証学会</a>」という学会まであります。</p><p>歴史はファンタジーだと考えている国や、歴史はプロパガンダだと考えている国も日本の近くにはあるようですが、真実を追求する姿勢は失いたくないものです。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[大名行列の挨拶]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58407471/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/5b8652839a922aace6f80f632b616948_14c5435e4ababea308914d8eb146d1be.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58407471</id><summary><![CDATA[大名行列が出会ったとき 　江戸時代は、さまざまなしきたりにしばられた社会でした。なかでもうるさかったのが、「礼儀作法」です。武士階級においてはこれによって身分の違いを分からせたので、さまざまな場面での「礼儀作法」つまり「どのようにふるまうか」が細かく定められていました。大名どうしが出会ったときのルールも、とうぜん定められています。念のために言っておくと、『暴れん坊将軍』のようなドラマや映画の世界とはちがって、大名が単独で出歩くことはありません。特に江戸市中では少し出かけるだけでも、身分に応じた行列を組む必要がありました。さらにその行列どうしが出会ったときには、どのように挨拶するかという細かな定めまであります。旧幕臣の市岡正一が明治中期に江戸時代のようすを振り返って書いた『徳川盛世録』には、大名や役人が路上で出会ったときにとる行動をこのようにしるしています。万石以上以下とも、日光御門主・三家・三卿に出逢いたるときは歩を止め駕を下りて礼をなす。その法式先箱にて下馬下乗をなし、打物来たりたるとき腰を屈め、乗物間近くなりぬれば平伏す（国主等のごときは少しく違いありき）。このとき万石以上・五千石高役人には、三家・三卿は乗物を下り歩を進めて会釈す（その歩を進むる身分によりて差別あり）。万石未満・五千石高役人未満には乗物のまま会釈をなす。江戸にて万石以上の面々、公家衆等に出逢いたるときは、横道に入り駕を後の方に向け居り。【「途上礼式の次第」市岡正一『徳川盛世録』平凡社東洋文庫】日光御門主というのは徳川家康を祀る日光山輪王寺の門跡のことで、歴代将軍の墓所がある上野の寛永寺貫主も兼務していました。このポストには代々天皇家か宮家の出身者が就いていたため、その格式はきわめて高かったのです。市岡によれば、諸大名や幕府の役人が路上で「日光御門主・三家・三卿」の行列に出くわしたときの対応はこのようになります。「先箱」（行列の先頭にくる家紋のついた挟み箱）が来たら自分の行列をとめて、馬や駕籠をおりる。「打物」（先頭から少しあとに続く槍や長刀）が来たときには、腰をかがめる。「乗物」（行列の中央にある殿様の駕籠）が近づいたら、平伏する。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-03-01T08:00:15+00:00</published><updated>2026-03-01T08:24:01+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
		<div>
			<h3>大名行列が出会ったとき</h3><p>&nbsp;　江戸時代は、さまざまなしきたりにしばられた社会でした。</p><p>なかでもうるさかったのが、「礼儀作法」です。</p><p>武士階級においてはこれによって身分の違いを分からせたので、さまざまな場面での「礼儀作法」つまり「どのようにふるまうか」が細かく定められていました。</p><p>大名どうしが出会ったときのルールも、とうぜん定められています。</p><p>念のために言っておくと、『暴れん坊将軍』のようなドラマや映画の世界とはちがって、大名が単独で出歩くことはありません。</p><p>特に江戸市中では少し出かけるだけでも、身分に応じた行列を組む必要がありました。</p><p>さらにその行列どうしが出会ったときには、どのように挨拶するかという細かな定めまであります。</p><p>旧幕臣の市岡正一が明治中期に江戸時代のようすを振り返って書いた『徳川盛世録』には、大名や役人が路上で出会ったときにとる行動をこのようにしるしています。</p><blockquote>万石以上以下とも、日光御門主・三家・三卿に出逢いたるときは歩を止め駕を下りて礼をなす。<br>その法式先箱にて下馬下乗をなし、打物来たりたるとき腰を屈め、乗物間近くなりぬれば平伏す（国主等のごときは少しく違いありき）。<br>このとき万石以上・五千石高役人には、三家・三卿は乗物を下り歩を進めて会釈す（その歩を進むる身分によりて差別あり）。<br>万石未満・五千石高役人未満には乗物のまま会釈をなす。<br>江戸にて万石以上の面々、公家衆等に出逢いたるときは、横道に入り駕を後の方に向け居り。<br>【「途上礼式の次第」市岡正一『徳川盛世録』平凡社東洋文庫】</blockquote><p>日光御門主というのは徳川家康を祀る日光山輪王寺の門跡のことで、歴代将軍の墓所がある上野の寛永寺貫主も兼務していました。</p><p>このポストには代々天皇家か宮家の出身者が就いていたため、その格式はきわめて高かったのです。</p><p>市岡によれば、諸大名や幕府の役人が路上で「日光御門主・三家・三卿」の行列に出くわしたときの対応はこのようになります。</p><p>「先箱」（行列の先頭にくる家紋のついた挟み箱）が来たら自分の行列をとめて、馬や駕籠をおりる。</p><p>「打物」（先頭から少しあとに続く槍や長刀）が来たときには、腰をかがめる。</p><p>「乗物」（行列の中央にある殿様の駕籠）が近づいたら、平伏する。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/5b8652839a922aace6f80f632b616948_14c5435e4ababea308914d8eb146d1be.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

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			<h4 style="text-align: center;">「紀伊家紅葉山予楽途中供連の図（部分）」『徳川盛世録』を加工<br>（岡崎市立中央図書館蔵）</h4><p><br></p><p>上の図は御三家のひとつ紀伊家の行列に幕府の役人とみられる武士が出会ったときのようすです。</p><p>赤丸で囲ったのが紀伊藩主の乗った駕籠で、①の武士は駕籠が近づいたため地面に平伏し、②の武士は長刀が前を通っているので腰をかがめています。</p><p>相手が五千石以上の旗本や大名であれば御三家の方も駕籠からおりて会釈するのですが、どちらの武士も供の数が少ないので五千石未満と思われ、御三家は駕籠の中から会釈するだけです。</p><p><br></p><h3>大名同士の出会い</h3><p>これが御三家のような格式の高い行列ではなく、一般の大名ならまたちがった挨拶になります。</p><p>大名どうしが出会ったときの挨拶のようすが、三田村鳶魚が最後の広島藩主浅野長勲（ながこと）から聞き取った記録「<a href="https://dl.ndl.go.jp/pid/1684389/1/27" target="_blank" class="u-lnk-clr">浅野老侯のお話</a>」に書かれていました。</p><blockquote>道中で大名が行合いになることは、滅多になかったが、江戸では始終出会いました。<br>向うから行列を見ると、上杉弾正大弼様というふうに、先におる者が知らせる。<br>行き違う時に、引き戸の駕籠なら、半ばこれを引く。<br>打上げのは、駕籠脇が簾に手を掛け、それで目礼する。<br>駕籠は止めはしません。<br>どんな大名でも、行き会えばこういうふうにする。<br>相手が三家ですと、駕籠を下りなければならないのですが、この時は大概避けます。<br>【三田村鳶魚「浅野老侯のお話」『江戸百話』大日社】</blockquote><p>大名どうしの場合は、御三家に出会ったときのように駕籠をおりて平伏するのではなく、駕籠を進めながら従者が駕籠の戸をあけて、大名は互いに目礼するだけです。</p><p>注意してほしいのは、「向こうから行列を見ると、（中略）先におる者が知らせる」「相手が三家ですと、（中略）大概避けます」と語っていることです。</p><p>相手がただの大名なら問題ないのですが、御三家であれば駕籠からおりなければならないのでそれは避ける、つまり向こうの方に見えてきた行列の主が御三家であれば、急いで道を変えて出会うことを回避していたというのです。</p><p>はじめにとりあげた市岡も、「江戸にて万石以上の面々、公家衆等に出逢いたるときは、横道に入り駕を後の方に向け居り」と書いていました。</p><p>「公家衆等」は「日光御門主・三家・三卿」をさすと思われますので、浅野老侯が「避けます」という相手と同じです。</p><p>具体的には脇道に入って、もといた道に背を向けることで気づかないふりをしていました。</p><p>このときに大事なポイントは、向こうから来るのが誰の行列なのかをすばやく見分けることです。</p><p>長くなるので、それについては次回に。</p><p><br></p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[下馬評]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58548852/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/37223b62adfdb4e761e0d68bf2cf1c68_7693f479bdf7f76aa1c9d8ed8ffbea27.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58548852</id><summary><![CDATA[従者はつらいよ　前回もふれましたが、大名や諸役人が江戸城に登城するときは、大手門の橋の手前にある下馬所のところで従者の数をへらして、玄関に向かいました。下馬所には「下馬」と書かれた高札が立っており、従者たちの多くはその近くに待機して殿様の下城を待つことになります。老中や若年寄など幕府要職の従者だけは下の絵にある長屋内にて待機できますが、その他諸家の従者は家格も先着順もなく、入り乱れての待機となります。ムシロを敷いているグループもいれば、地面にそのまましゃがんでいる者もいます。この状態で、主人が退出するまで待機しなければなりません。大名の登城日は月に3日ですが、幕府の役人は交代制をとるものの、毎日登城です。登城時刻は老中が四つ（午前10時）、若年寄はそれより早い五つ（午前8時）で、下城は八つ（午後2時）が定刻でした。つまり最低でも4時間から6時間は待機していたのです。]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-02-22T08:00:00+00:00</published><updated>2026-02-22T08:03:53+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>従者はつらいよ</h3><p>　前回もふれましたが、大名や諸役人が江戸城に登城するときは、大手門の橋の手前にある下馬所のところで従者の数をへらして、玄関に向かいました。</p><p>下馬所には「下馬」と書かれた高札が立っており、従者たちの多くはその近くに待機して殿様の下城を待つことになります。</p><p>老中や若年寄など幕府要職の従者だけは下の絵にある長屋内にて待機できますが、その他諸家の従者は家格も先着順もなく、入り乱れての待機となります。</p><p>ムシロを敷いているグループもいれば、地面にそのまましゃがんでいる者もいます。</p><p>この状態で、主人が退出するまで待機しなければなりません。</p><p>大名の登城日は月に3日ですが、幕府の役人は交代制をとるものの、毎日登城です。</p><p>登城時刻は老中が四つ（午前10時）、若年寄はそれより早い五つ（午前8時）で、下城は八つ（午後2時）が定刻でした。</p><p>つまり最低でも4時間から6時間は待機していたのです。</p><p class=""><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/37223b62adfdb4e761e0d68bf2cf1c68_7693f479bdf7f76aa1c9d8ed8ffbea27.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">「式日大手登城の図（部分）」『徳川盛世録』（岡崎市立中央図書館蔵）</h4><p><br></p><p class="">ちなみに雨天時でも蓑笠姿にて屋外待機でした、従者の仕事も楽ではありません。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/77e56956f176ae0b8912762d9da6b59e_3b863657ca0a3048e2a388485f614b45.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">「西丸下馬先の図」『徳川盛世録』（岡崎市立中央図書館蔵）</h4><p><br></p><h3>下馬所の風評</h3><p>主人が城内にいるあいだ従者たちはひまですから、いろいろな話をして時間をつぶしました。</p><p>そこで交わされるうわさ話が「下馬所の風評」、略して「下馬評」です。</p><p>当事者ではない人たちがする話ですから信頼度は低いとはいえ、幕府役人の家来から各藩主の近侍までさまざまな人間が集まっているので、核心に迫るものもあんがい多かったようです。</p><p>明治25年（1892）から26年にかけて『朝野新聞』に連載された「徳川制度」には、下馬評についてこのように書かれていました。</p><blockquote>さてその声々を子細に聴き分けんには、蛙鳴蝉噪（あめいせんそう：がやがやしゃべること）の中に容易ならぬ一種の予言を籠（こ）めたるも事々し。<br>一種の予言とは、役人の黜陟（ちっちょく：昇進や降格）などに関する風評にして、この風評はしばしばよく肯綮（こうけい：ものごとの急所）を射て貫けり。<br>（中略）<br>たとえば要路の役官に空位あれば、今度は誰殿こそ後任なるべけれといい、<br>また今度誰殿が所司代より御老中に栄進せし理由は云々（しかじか）なりと評し、<br>すでに就職すれば同列との議はかくなりと噂し、<br>また年号は幾日頃改元あるべし、<br>今度誰殿（諸大名：原注）の邸にて云々の騒動ありなど、<br>世の人の未だ得知らぬ先に下馬評に係ること不思議なり。<br>【加藤貴校注『徳川制度（中）』岩波文庫】</blockquote><p><br></p><p>朝野新聞によれば、幕府の役人人事についての下馬評はよく当たっていたそうです。</p><p>くわえて、昇進した理由や同僚とのようす、さらには秘密にされているはずの改元日程や大名屋敷内のできごとなど、世の中に広まる前に下馬評にあがっていたのは不思議だと伝えています。</p><p><br></p><h3>下馬評は貴重な情報源</h3><p>世間に知られていない情報がいちはやく入手できるとなれば、インテリジェンス機関が放っておくはずがありません。</p><p>さきほどの「徳川制度」にはこうも書かれています。</p><blockquote>かくありければ、南北両奉行は日々同心を下馬に派して、余所（よそ）ながらかれらの風評を聴き取らせ、仕儀によりては風聞書と称して詳細に談話の模様を書き取り、己の手許まで申し達せしめぬ。<br>諸大名の供も日々出勤の分は、この評を聞く便りあれど、三日（さんじつ：毎月の登城日）のほか登城せざる族（やから）は、これまた特に家来を派出して風聞書を作らしめ、重役の許に差し出さしめしとなり。<br>【前掲書】</blockquote><p>現在警視庁が行なっている首都の治安維持は、江戸時代には南北二つの町奉行所が月交代で担当していました。</p><p>長官は大岡越前で有名な「南町奉行」と、遠山の金さんでおなじみの「北町奉行」で、いずれも現在の警視総監に相当します。</p><p>その両奉行が、配下の同心（刑事ですね）を毎日下馬所に派遣してこっそりと風評を聴き取らせ、重要と思われる件については詳細な報告書を上げさせていたというのです。</p><p>また、諸藩も登城日でない日にわざわざ家臣を派遣して下馬所の風聞書を作らせ、重役に報告させていたそうです。</p><p>現在に置きかえると、さしずめSNS上でとびかう情報を集めているようなものでしょうか。</p><p>最近のマスコミはSNSの話を転記しただけの「コタツ記事」（家でコタツに入ったままのように、社外に取材に行かないで書いた記事）が増えているそうですが、江戸時代は下馬所に足を運んでいただけマシかもしれません。</p>
		</div>
	]]></content><rights>Copyright © Shusaku YASUKAWA All Rights Reserved</rights></entry><entry><title><![CDATA[大名にもコーチがいた]]></title><link rel="alternate" href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58337041/"></link><link rel="enclosure" type="image/jpeg" href="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/eaf648023e4bbe9344d72c4b0b05f524_feca2e57cfb74a6bb83893e7e58c5c55.jpg"></link><id>https://www.yasukawa1953.net/posts/58337041</id><summary><![CDATA[教えるのは誰？　先週の衆院選では高市自民党が歴史的大勝利をおさめました。今回初当選した議員が60人以上いるそうですが、今後「高市チルドレン」と呼ばれるのでしょう。そこで少し気になるのが、この新人たちの指導をどうするのかということです。以前であれば、ほとんどの新人議員は党内のいずれかの派閥に所属して、その派閥内で議員としての教育を受けていました。しかし、岸田首相のときに麻生派以外の派閥はすべて解散して（させられて？）います。となると、自民党はどうやって新人議員の教育を行なうのでしょうか。企業であれば、職場の先輩が教えたり外部の研修会社に手伝ってもらったりしますが、石破首相のときに大敗しているから先輩は少ないし、国会議員のようなニッチな仕事を教える研修会社はないでしょう。部外者ながら気になります。ということで、今回のテーマは「新人大名の教育システム」をとりあげました。新人大名には介添役がついたこれまでになんども書いていますが、江戸時代のルールは「前例踏襲」です。何事においても、古くからのしきたりを知っていないと務まりませんでした。そのため、前例やしきたりを教えるコーチ役の先輩が必要になります。大名の身近な先輩といえば父親ですが、大名家によっては息子がおらず、藩主死亡時に急きょ分家から養子を迎えるというケースも結構ありました。そういう場合は、藩主になるという準備ができていません。であれば江戸城内のしきたりを誰かから学ばねばなりません。これは家老や側用人ではできないのです。というのも、江戸城の本丸御殿に入ることができるのは大名本人（または代理となる世子）にかぎられていたからです。大名が登城するときは大人数の行列で藩邸を出ますが、江戸城の敷地に入ると供（とも）の数は極端に制限されます。家格によって違いがありますが、島津家のような国持の大大名でも下馬所からは駕籠かきをふくめて13人、下乗橋からはわずかに5人の供がつくだけです。さらに、その先は‥‥。玄関を入ってからは大名一人の行動となる。自分の屋敷にもどれば、数百人以上の家臣・奉公人にかしずかれる身分を思えば、初めて江戸城へ登城する大名にとってはさぞ心細く、「将軍の御威光」を思い知らされたことであろう。【深井雅海『図解　江戸城をよむ』原書房】このため、藩主となって初めて登城する時には、親族の大名2人に付添いとして同道してもらったそうです。【「浅野老侯の話」三田村鳶魚『武家の生活』中公文庫】]]></summary><author><name>yasukawa1953</name></author><published>2026-02-15T08:00:49+00:00</published><updated>2026-02-15T08:25:34+00:00</updated><content type="html"><![CDATA[
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			<h3>教えるのは誰？</h3><p>　先週の衆院選では高市自民党が歴史的大勝利をおさめました。</p><p>今回初当選した議員が60人以上いるそうですが、今後「高市チルドレン」と呼ばれるのでしょう。</p><p>そこで少し気になるのが、この新人たちの指導をどうするのかということです。</p><p>以前であれば、ほとんどの新人議員は党内のいずれかの派閥に所属して、その派閥内で議員としての教育を受けていました。</p><p>しかし、岸田首相のときに麻生派以外の派閥はすべて解散して（させられて？）います。</p><p>となると、自民党はどうやって新人議員の教育を行なうのでしょうか。</p><p>企業であれば、職場の先輩が教えたり外部の研修会社に手伝ってもらったりしますが、石破首相のときに大敗しているから先輩は少ないし、国会議員のようなニッチな仕事を教える研修会社はないでしょう。</p><p>部外者ながら気になります。</p><p>ということで、今回のテーマは「新人大名の教育システム」をとりあげました。</p><p><br></p><h3>新人大名には介添役がついた</h3><p>これまでになんども書いていますが、江戸時代のルールは「前例踏襲」です。</p><p>何事においても、古くからのしきたりを知っていないと務まりませんでした。</p><p>そのため、前例やしきたりを教えるコーチ役の先輩が必要になります。</p><p>大名の身近な先輩といえば父親ですが、大名家によっては息子がおらず、藩主死亡時に急きょ分家から養子を迎えるというケースも結構ありました。</p><p>そういう場合は、藩主になるという準備ができていません。</p><p>であれば江戸城内のしきたりを誰かから学ばねばなりません。</p><p>これは家老や側用人ではできないのです。</p><p>というのも、江戸城の本丸御殿に入ることができるのは大名本人（または代理となる世子）にかぎられていたからです。</p><p>大名が登城するときは大人数の行列で藩邸を出ますが、江戸城の敷地に入ると供（とも）の数は極端に制限されます。</p><p>家格によって違いがありますが、島津家のような国持の大大名でも下馬所からは駕籠かきをふくめて13人、下乗橋からはわずかに5人の供がつくだけです。</p><p>さらに、その先は‥‥。</p><p><br></p><blockquote>玄関を入ってからは大名一人の行動となる。<br>自分の屋敷にもどれば、数百人以上の家臣・奉公人にかしずかれる身分を思えば、初めて江戸城へ登城する大名にとってはさぞ心細く、「将軍の御威光」を思い知らされたことであろう。<br>【深井雅海『図解　江戸城をよむ』原書房】</blockquote><p><br></p><p>このため、藩主となって初めて登城する時には、親族の大名2人に付添いとして同道してもらったそうです。【「浅野老侯の話」三田村鳶魚『武家の生活』中公文庫】</p><p><br></p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/eaf648023e4bbe9344d72c4b0b05f524_feca2e57cfb74a6bb83893e7e58c5c55.jpg?width=960" width="100%">
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			<h4 style="text-align: center;">揚州周延「千代田の御表　正月元日諸侯登城御玄関前之図」（部分）<br>（国立国会図書館デジタルコレクション）</h4><p><br></p><h3>そうせい侯は斉彬が指導</h3><p>新人大名が知っておくべきことは江戸城内のしきたりだけではありません。</p><p>同僚との交際や大名としての心得についても教わらねばなりません。</p><p>そこで、当時大名が家督を継ぐときは数名の先輩藩主に介添役（御師匠役）をたのむという慣例がありました。</p><p>以前「<a href="https://www.yasukawa1953.net/posts/58299778" target="_blank" class="u-lnk-clr">雑談無用</a>」のところでも取り上げましたが、島津斉彬が介添役を頼まれたのが、藩主就任後20日で急死した兄の後を継いで急きょ長州藩主となった毛利敬親(たかちか）でした。</p>
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			<img src="https://cdn.amebaowndme.com/madrid-prd/madrid-web/images/sites/1892823/604bcd765bdbf076e8196f1776f6591d_59aeee8f08ba4bf178e6c0f64dfbaf67.jpg?width=960" width="100%">
		</div>
		

		<div>
			<h4 style="text-align: center;">毛利敬親（京都大学付属図書館蔵）</h4><p><br></p><p>旧長州藩士で敬親の側近としてつかえていた竹中兼和は、旧薩摩藩士の寺師宗徳に、敬親の介添役を斉彬に依頼したと語っています。&nbsp;（読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています）</p><p><br></p><blockquote>旧時大名家督となるときは、互いに介添役を頼むの慣例あり。&nbsp;<br>すなわち先代敬親の介添役、すなわち世に御師匠役と申しました、この役をお頼み申上げしは御先代斉彬公と細川越中守殿、誰某お三方なりし。&nbsp;<br>特に斉彬公は御年齢も長（た）けさせたれば、万事につき教示をかたじけのうせられぬ。<br>【「島津家事蹟訪問録　故竹中兼和君ノ談話」『史談会速記録　第175輯』】&nbsp;</blockquote><p><br></p><p>敬親が家督を継いだ天保7年（1836）当時、斉彬は当時まだ藩主になっていませんが、父斉興の代理としてすでに大広間席でも一目置かれる存在でしたから、介添役をたのまれたのでしょう。&nbsp;</p><p>敬親の義祖母となる三津姫は斉彬の母弥姫（いよひめ）の姉（鳥取藩主池田治道の長女と四女）ですから、たのみやすかったのかも知れません。</p><p>敬親は10歳年長の斉彬から何事によらず教示をうけており、斉彬も毛利家にたびたび足を運んで、藩政についての相談にのっていたとのことです。</p><p>その毛利敬親ですが、本名よりも「そうせい侯」という名の方が知られています。</p><p><br></p><blockquote>有名な話ですが、幕末の長州のお殿さんで、毛利敬親は「そうせい侯」という綽名（あだな）があったわけです。<br>「いかがいたしましょうか」と家臣に問われると「よきに計らえ」と答える。<br>「では、こういたします」と言われると「そうせい」と。<br>だから「そうせい侯」。<br>しかし、他の藩でも殿様は大体「そうせい侯」だったのです。<br>【渡辺京二『私の幕末明治維新史』新潮選書】</blockquote><p><br></p><p>「そうせい侯」というありがたくないあだ名をつけられて家臣のあやつり人形のように見られていた敬親ですが、他藩にさきがけた海外留学生（長州ファイブ）派遣や、高杉晋作の抜擢などじつは名君だったという説もあります。</p><p>江戸時代をつうじて最高の名君とされる斉彬から個人指導をうけていたのですから、敬親が名君に育ったというのは理解できなくもありません。</p><p>幕末の長州藩は尊皇攘夷をとなえる過激派の巣窟のようになっていましたので、連中の刃が藩主に向かないよう、無能なふりをしてたくみに身をかわしていたとも考えられます。</p><p>元治元年（1864）の禁門の変で薩摩・会津連合軍に敗れた長州藩は、「薩賊会奸」と呼んで薩摩藩を憎んでいましたが、斉彬が存命であれば敬親と連携して、はじめから良好な関係のままで明治維新をなしていたかも知れません。</p>
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