幕府医師のピンとキリ

世襲できない奥医師

 江戸時代は身分制社会でしたから、父親の職業とその地位を長男が代々継承していくというのが基本ルールでした。

幕府内における地位も同様です。

前回まで取り上げてきた川路聖謨のように、下級武士から旗本の最高ポストに到達するようなケースは、ごくわずかな例外にすぎません。

しかし、そのような例外も許されず、実力のみで選ばれるポストもありました。

それは「奥医師」です。

医師は腕が悪いと生命にかかわるので、これだけは家柄ではなく、実力で選ばれました。

幕府に仕えていた医師の種類はこうです。


奥医師:将軍家・大奥の診察をし、薬を調合 
奥詰医師:奥医師の見習 
表番医師:城中に詰めて不時の病人に対応
寄合医師:医者の家柄だが無能なので名目のみ 


奥医師というのは将軍一家や大奥の診察・調剤を行なう医師で、内科・外科・鍼科・口科・眼科の5科に分かれていました。

その中でも、将軍の拝診は「御匙(おさじ)」と呼ばれる2名の内科医師で、これになると医師の最高位となる法印(五位の格式)に任ぜられます。

2名いた理由は、将軍や御台所の診断に誤りがあってはいけないので、相互にチェックさせたためです。

年始に登城する奥医師の姿(左は平の医師、右は法眼・法印)
(市岡正一『徳川盛世録』より 岡崎市立中央図書館蔵)


ヤブ医者無用

現代のような医師の資格制度がもうけられたのは明治16年(1883)で、それ以前の医師教育はすべて徒弟制度でした。

結果として江戸時代は医師の技量に大差があり、代々の医者の家柄に生まれても才能がないヤブ医者も結構いたようです。

先ほど示した 「幕府に仕えていた医師」の最後にあった「寄合医師」というのがそれで、先祖が名医だったという家柄により家禄を得ているが、医師としての力量がないために医療業務は任せられないという存在です。

このように家柄だけで実力のない医師に幕府も困って、宝暦年間(1751~1764)に、「医師の息子が出来が悪くていくら教えても技量が向上しない場合は、御家人でも町医者でもいいから即戦力となる者を養子に迎えるように」との布達を出したのですが、慶応3年に再度以下のような布達を出しています。 


医師の儀は、医薬を以て召し出だされ候事に付き、その忰(せがれ)どもは専ら修行仕らせ、御用立ち候よう厚く世話致すべきは勿論に候えども、その者の性質に寄り何程世話致し候とも、医術成熟致さざる者もこれあるべし。
(中略)
既に養子の儀、家業宜しく仕り、早速御用にあい立つべき者をあい願い候者、御目見え以下町医師らの忰にても養子に仰せ付けらるべく旨、宝暦度あい触れ候通りにこれあり候
(中略)
依って実子に候とも医業未熟、御用にあい立ち兼ね候わば、右を差し置き家業相応出来、早速御用にあい立つ者を養子にあい願い候わば、願いの通り仰せ付けらるべく候。
【加藤貴校注『徳川制度(中)』岩波文庫】


要するに「前にも言ったけど、実子でも見込のない奴は放っておいて腕の立つ即戦力を養子に願い出れば、認めてやるからね」ということです。

身分制社会ではどの家の何番目に生まれたかで人生が決まるのですが、医者の世界は実力本位だったのがこの布達でわかると思います。

優秀な医師がほしい幕府は、名医と評判の町医者を選び、試験をした上で採用していました。

たとえば島津斉彬と親しかった奥医師(御匙)の多紀元堅(楽真院)は、平安時代から続く医者の家に生まれましたが、五男だったので家を出て町医者として開業していました。

彼は 腕が良かったことから患者の評判が良く、その実力が認められて奥詰医師となり、1年で奥医師に上がっています。


幇間医者

しかし、厳選されていたはずの奥医師にも例外はあったようで、口先だけで奥医師に成り上がった人物もいました。

幕末の志士で明治には裁判官を務めた薄井龍之が、大正4年の史談会で高村隆徳という奥医師の話を紹介しています。

薄井は高村のことを、

「不思議な先生で、殆ど無学文盲と言ってよい人で、交際術に長じた人であったので、遂にお目見えから御番医師になって、間もなく奥医師になった」

「これは立志伝というより幇間(ほうかん:たいこもち)伝」

と言っていますが、まさに舌先三寸で奥医師になったという話です。

江戸時代の医師は、漢方医なら漢文で書かれた書物、蘭方医ならオランダ語の書物が読めないと、一流にはなれません。

ところが、この先生はほとんど無学文盲、つまりろくに字が読めず学識もなかったようです。

なぜそんな人間が、江戸医学界の最高権威である奥医師になれたのか?

元々は槇島隆徳という田舎のヤブ医者で、一旗あげようと江戸に出てきた人物だったそうです。

ところが江戸は田舎医者がすぐに開業できるほど甘くはなかったので、生活のために「按摩針」つまり鍼も打てる按摩として、夜に笛を吹きながら江戸の町を流していました。

そうしているうちに、中西織江という産婆と親密になり、この中西が妊婦のところへ診察によばれたときに、わざと難産になりそうだと診断して、最近田舎から出て来た槇島隆徳が名医だから診察してもらうようにと勧めて回ったそうです。

もともと問題ない妊婦ばかりだから難産になるはずがないのですが、そうとは知らない患者たちからは、隆徳先生の治療が良かったから安産だったと評判になったようです。


ニセの診断で名医にみせ、幕府重職に接近

運のいいことに、中西が将軍の側御用取次をつとめる土岐豊前守(朝旨か?)の妹の診察を頼まれました。

中西は診察後、たいそう心配なそぶりをして、用人に「これは逆子なので大変な難産になる」と告げ、「自分では対処出来ないが、名医を知っている」として隆徳を紹介します。

診察した隆徳は、「これは奥方の一命に関わるかも知れないが、私に任せてくださればなんとかしましょう」と言ってだまし、毎日かよって按摩をつづけました。

もとより逆子でも何でもないので、臨月にはやすやすと出産できました。

しかし、裏事情を知らない産婦は大喜びでお祝いの席を設け、兄の土岐豊前守に隆徳先生のおかげで安産だったと報告し、ぜひ隆徳に会ってやってくださいと頼みました。

それで隆徳が豊前守の前に出て挨拶したところ、「拙者の屋敷へ来い」のようなニュアンスのことを言われました。

さあ、ここからが隆徳の口八丁の見せ所になるのですが、長くなるので続きは次回に。



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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