幕府役人のキャリアパス

番士と小吏

 現代日本の諸制度は江戸時代とつながっていると感じることが多いのですが、役人のキャリアパス(役職につくために必要なスキルや経験すべき部署)に関して、江戸幕府要人の興味深い発言を見つけました。

幕末に軍艦奉行として勝海舟を従えて咸臨丸でアメリカに渡った木村喜毅(よしたけ)が、明治30年(1897)に出版された雑誌『旧幕府』に寄稿した記事の一部です。(読みやすくするため現代仮名づかいに変え、一部漢字を平仮名にして、句読点をおぎなっています)

元来幕府官吏登庸の法は二途に出づ。
二途とは番士と小吏なり。
番士は多く武人にして、小吏は刀筆の俗吏なり。
武人は目付に進むを以て栄えとなし、俗吏は勘定吟味役に登るを門戸とす。
是より以往はその人その人の技量に従って紆紫縈青(うしえいせい:まといめぐる)、ほとんど芥を拾う(=たやすく手に入る)が如きのみ。
しかれども、古今往々有為の才を出だすは俗吏の方割合に武人より多しといえり。
【木村芥舟「旧幕監察の動向」『旧幕府』第1巻第1号】


話がそれますが、咸臨丸の渡米は日米修好通商条約調印のためでした。

正使・副使はアメリカの船で行くのですが、それに随伴して日本人が操船する咸臨丸(オランダ製の蒸気帆船)が日本で初めて太平洋を横断しました。

このとき咸臨丸の艦長が誰だったかがはっきりしません。

一般的には勝海舟のように思われていますが、じつは「〇〇を艦長にする」という正式な発令は出ていなかったのです。

福沢諭吉は『福翁自伝』の中で、「艦長は時の軍艦奉行木村摂津守(喜毅)、これに随従する指揮官は勝麟太郎」と書いています。

ただ、木村には操艦などできないので、じっさいに艦の指揮をとっていたのは勝でした。

松浦玲の『勝海舟』(中公新書)には「アメリカ側では、木村をアドミラル、勝をキャピタンと区別したようだ」と書かれています。

閑話休題、木村によれば、幕府官吏は武人(=上・中級旗本)が目付を目指し、小吏(=下級旗本・御家人)は勘定吟味役を目指したというのです。

泰平の時代には自分の父親を超えるポストに就くことはできませんでした。

しかし、幕末になると様相が変わります。

学問吟味という昌平坂学問所の学力試験が目付への登竜門となり、そこをパスすれば父親の役職を超えて出世できるようになりました。

木村もその一人(木村家は代々浜御殿奉行=別荘管理人)で、前回説明したように成績優秀として抜擢され、勘定奉行にまで昇進しました。

番士は目付、小吏は勘定吟味役のポストに到達することができれば、あとは各人の技量に従ってさらにその上のポストに就くことも可能だったと木村は語っています。


木村喜毅(ウイキメディアコモンズ)


勘定所の採用試験「筆算吟味」

番士というのは、大番・ならびに両番(書院番・小姓組)をさします。

大番というのは戦で先鋒を務める精兵で、両番は大将の周りを固める近衛兵のことです。

彼らは平時においては江戸城や将軍の警護を担当するので、基本的には「折り目正しい旗本」から選ばれ、かつ職務の性質上、武芸の心得も必要とされます。

番士が目指すのはまず目付、最終目標は江戸町奉行(もしくは勘定奉行)です。

いっぽう小吏は「刀筆の俗吏」といわれるとおり、行政に関する事務を担当する役人で、武芸よりも筆記やソロバンの能力が必須になります。

こちらは行政が担当分野ですから、財政だけでなく幕府領(天領)の民政と司法も管轄していました。

その中心となる役所が「勘定所」です。

勘定所の長は勘定奉行で、これが小吏グループの到達する頂点ポストになります。

勘定奉行は通常4名が在籍し、財政を担当する「勝手方」と、民政・司法を担当する「公事方」をそれぞれ2名で担当していました。

勘定奉行の次席になるのが勘定吟味役で、これが番士の目付に相当する、小吏が目標とした役職です。

勘定奉行の業務を監査するという役目もあるため、奉行の部下ではなく、目付同様に老中直属となっていました。

さて、勘定所には番士にはなかったものがあります。

それが「筆算吟味」という職員採用試験です。

藤田覚元東京大学大学院教授は著書『勘定奉行の江戸時代』(ちくま新書)でこう書いています。

勘定所には、職員採用試験である「筆算吟味」という試験制度があった。
これは、勘定所業務を遂行するうえで必要な文字・文章を書く能力(「筆」:原注)と計算能力(「算」:原注)を確かめ、勘定所職員としての適性をみる試験だった。
(中略)
(学問吟味及第は)幕府役職への採用や出世を約束するものではなかった。
だが、それが出世や昇進のきっかけになるケースもあった。
しかし、勘定所が行った筆算吟味は採用試験なので、合格するとしばらくして採用された。

筆算吟味は下級の御家人でも受験できるだけでなく、採用試験なので合格者は必ず役人に採用されました。


ノンキャリアがトップに到達できた

島津斉彬と親交のあった勘定奉行川路聖謨(としあきら)を例にあげると、地方代官所の手代(=幕臣ではない)の子で、小普請組(=無職)の御家人川路家の養子となり、13歳で家督を相続、17歳の時に筆算吟味に合格しました。

翌年18歳で勘定所支配出役(=非正規社員)となり、就職に成功。

21歳で支配勘定本役、つまり正社員に採用されました。

その後順調に出世を重ね、35歳で勘定吟味役になり、52歳のときに最終目標である勘定奉行に就任しています。

現代でいえばノンキャリアで採用された人物が、財務省の事務次官になったようなものです。

はっきりいって、財務省(旧大蔵省を含む)ではノンキャリアがトップになることはこれまでありませんでしたし、今後もたぶんないでしょう。

江戸幕府でも勘定奉行就任者総数213名のうち、川路のようなノンキャリア出身者は23名だけで、圧倒的多数は中・上級旗本出身者つまりキャリア組です。【藤田前掲書】

とはいえ、ノンキャリアでも川路のように実力が飛びぬけていればトップになれるという点では、現代の官僚より江戸時代の幕府役人の方がフェアだったともいえるでしょう。

じっさい川路聖謨はきわめて優秀でした。

幕末史に詳しい小西四郎元東京大学史料編纂所教授は、川路についてこう述べています。

幕吏たちの多くは、無為無策、「世の中は左様でござるごもっとも、なんとござるか、しかと存ぜぬ」と、上にへつらい賄賂をとり、怠惰安逸に流れていた。
川路の精励格勤は、そのような状態の中では特に目立った存在であり、上司としては、これは使える人物であると登用したのであろう。
川路は激務の間にも武芸に励み、また読書にも努め、文武両道を忘れない、当時の武士からぬ武士の中で、信頼するに足る人物と考えられた。
しかも上司から愛されるような、柔軟な態度も忘れない聡明さも身につけていたと思われる。
【小西四郎「川路聖謨と小栗上野介」『日本人物史大系 第5巻近代Ⅰ』朝倉書店】

「なんとござるか、しかと存ぜぬ」は、現代の公務員も使っていそうな言葉ですが、そのような役人が多い中で、川路の働きぶりは群を抜いており、またそれをきちんと評価する上司がいたという運の良さもあったかと思われます。

「境遇に不満があっても仕事の手を抜くな。しっかり仕事をしていれば誰かが見ていてくれる」というのは私がサラリーマン時代に先輩から言われた言葉ですが、川路はまさにそういう仕事ぶりだったのでしょう。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

0コメント

  • 1000 / 1000