韓人、米飯を狙って漂着す
島津斉彬の交際リスト、幕臣の筆頭は筒井政憲
薩摩藩の史料というのは意外と残っていません。
というのも、廃藩置県時に初代県令の大山綱良が藩の書類を焼却してしまい、民間に残っていた史料も西南戦争で鹿児島が焼け野原となったときに燃えてしまったからです。
そこで島津家では久光の遺命によって、幕末維新期における薩摩藩の活動にかんする本格的な調査を明治20年代からはじめました。
調査の中でもっとも力を注いだのが島津斉彬の事蹟です。
そうしてつくられた調査報告の中に、斉彬と親密な交流があった人びとのリストが残っています。【「一四一 有名ノ人士ニ声息ヲ通セラレシ事実」『斉彬公史料第一巻』の152頁】
水戸斉昭や松平春嶽などよく知られた大名たちが挙げられていますが、幕臣の名前も結構たくさん書かれており、斉彬の交友の広さがよく分ります。
その幕臣たちの筆頭に書かれている人物が、筒井肥前守(政憲 まさのり)です。
筒井政憲は安永6年(1778)生れ、文化14年(1817)から4年間長崎奉行をつとめ、その後文政4年(1821)から24年間ものあいだ南町奉行の座にありました。
長崎奉行や南町奉行時代の官名は「伊賀守」です。
外国船が日本近海に出没するようになると外交部門に転じ、弘化3年(1846)琉球にフランス艦隊が来航して交易を求めた際には、幕府の御用掛として薩摩藩家老の調所笑左衛門に対応しています。
おそらくこの頃から斉彬との交際が始まったのでしょう。
筒井はその後も全権代表としてロシアのプチャーチンと日露和親条約を締結したり、アメリカ公使ハリスの対応に当るなど外交官として活躍しています、没年は安政6年(1859)。
町奉行としても優秀だったようで、外国奉行をつとめた栗本鋤雲(くりもと じょうん)は、三人の名奉行として大岡越前守(忠相 ただすけ)・根岸肥前守(鎮衛 やすもり)と共に筒井伊賀守の名をあげています。
町奉行幾人ありしやを知らざれども、今世に伝うる所は唯三人にして、
其一は有名なる大岡越前守なり。
越前守は八代将軍(吉宗)が親しく抜擢せし所の賢奉行にして、此の人のことについては、大岡仁政録、大岡美談等の書ありて俗間に行なわる、もっともこれらの書には附会溢美もあるべけれど、ともかくも賢奉行たりしことは人のすでに知る所の如し。
其二は根岸肥前守という人なり。
肥前守は寛政年間に老中松平越中守(定信)が挙用せし人にて、元は卑賤の小吏より出て、諸国を遍歴し、土木のこと、水利のこと、聴訟のこと、治獄のことなど何事にても錬磨せざることなく、よく人情世故に通じたる評判のよき人にて、細事までもよく行き届きたることはその著せし耳嚢(みみぶくろ)といえる書に就いても一斑を知るを得べし。
其三は筒井伊賀守にて、此の人は文化年間より文政を経、天保年間まで二十有余年の間、町奉行を勤めたる人にて、十一代将軍(家斉)の時に採用せられたる人なり。(以下筒井の経歴業績をくわしく紹介)
【栗本鋤雲「遺老瑣談」『東京学士会院雑誌第十三編之五』(かなづかいは現代文に修正)】
テレビでは町奉行というと大岡越前か遠山の金さんですが、遠山金四郎景元は選外でした。
タダ飯狙いの朝鮮人漁師がわざと漂着
この筒井伊賀守が長崎奉行だった時の面白いエピソードが『想古録』という書物の中にあります。
『想古録』は明治25年(1892)11月1日より同31年(1898)5月29日までの間、『東京日日新聞』に断続的に連載された記事で、天保時代(1830~1844)を中心とした逸話集です。
面白いエピソードというのは、朝鮮人漁師の話です。
江戸時代に朝鮮人漁師の乗った船が毎年数艘日本に漂着していたのですが、その中には日本で出される食事がおいしいため、わざと流れ着く「常連」がいたようです。
それに気付いた長崎奉行の筒井伊賀守が、朝鮮人をこらしめるために食事をまずくして、さらに2回目からは3年間の苦役、3回目以上は7年間の苦役という処遇に改めたら、それが朝鮮で知れ渡って、数年後には漂流者が激減したという話です。
本文は次のとおり。
朝鮮の漁舟、毎年数艘山陰の海岸に漂着し、中には毎年又は一二年目ごとに又流されたりとて来るものあり。
これは日本の米飯を好み、漂流に託して来たり養われんとする者なりとの説をなすもの有りければ、筒井伊賀守の長崎奉行たりしころ、これを懲さんがために新法を設け、二度以上漂着せしものは三年留めて水汲み、米搗(つ)き、土方等の苦役に使い、三回以上に及ぶものは七年留めて前条の苦役に従事せしめ、且つ下等米の飯のみ与えて、梁肉(りょうにく:上等な米や肉)美味(おいしい食べ物)は箸にも触れしめざりけるに(一切出さなかったので)、このこと彼国の大評判となりて、漁夫等は深く漂流をおそれ、数年の後いちじるしくその数を減じけるとぞ。
このこと果して事実なれば、其の横着なること憎みてもなお飽きたらずと言うべし。(藤井長五郎)
【「一一二七 韓人、米飯を狙て漂着す」山田三川著 小出昌洋編『想古録2』平凡社東洋文庫(かなづかいは現代文に修正)】
『四十二国人物図説』より「朝鮮人」(京都大学付属図書館所蔵)
年平均10艘、35人の朝鮮人が漂着していた
江戸時代にどのくらい朝鮮人の漂着があったかについて、池内敏名古屋大学大学院教授の『薩摩藩士朝鮮漂流日記』(講談社選書メチエ)には、1599年から1872年までの274年間で971件(9,770人)にも及んだと書かれています。
漂着した朝鮮人はまず長崎に送られ、そののち対馬藩に委ねられて本国に送還されたそうです(逆に朝鮮に漂着した日本人は、漂着地→釜山→対馬→長崎→国元)。
274年間で971件なら3.5件/年となり、まさに「毎年数艘」です。
そして971件で9,770人ということは、10人/件ですから、1艘の船に平均10人が乗っていたようです。
つまり年平均35人の朝鮮人が漂着して、長崎で面倒を見ていたということです。
筒井長崎奉行の前後で変化があったかどうかわかれば面白いのですが、残念ながらそのデータは見つけられませんでした。
何にせよ待遇を悪くしたら漂着者が激減したというのであれば、食事狙いの者が多かったということを示しています。
この話を伝えた藤井長五郎が「その横着なことは、憎んでもなお飽きたらず」と言っていますが、日本人の善意を利用する朝鮮人には江戸時代の人も怒っていたのですね。
0コメント