雑談無用
大名たちの話題は?
前回・前々回と斉彬の仕事人間ぶりを紹介してきましたが、斉彬は大名どうしの会話においても雑談などせず、ひたすら政治や軍事の話に没頭していました。
当時の大名の興味関心について伊達宗城が市来四郎に語った話を、市来が明治26年の史談会で披露しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにあらため、一部漢字を平仮名にして句読点をおぎなっています)
その時分は治世の極ともいうべき時であったから、我々が仲間という者は実の入りた話は先ずないともいうべきもので、酒呑みや女の話とか、小鳥草花の話、あがりが馬の話などであった。
(中略)
大名中では斉彬殿や春嶽や閑叟などは、登城したときは必ず一室に会うて、国事の話、軍事・手当の話などで余計な小話はなかったと覚ゆ。
その中に斉彬殿には年長ではあり、決断の速き親切な人であったから、師匠分に春嶽などと思うて、何事も相談して賢慮を問うたである。
【市来四郎「伊達宗城公修史に関する意見附一節」『史談会速記録 第7輯』】
宗城は「治世の極」といっていますが、宗城が藩主になったのは天保15年(1844)で、その2年前にはアヘン戦争で清が英国に敗れるという大事件がおこっていますし、同年には琉球に仏軍艦が来航して貿易と布教を要求しただけでなく宣教師を残留させています。
つまり日本を取り巻く環境は「治世の極」どころではなくなっていたのです。
にもかかわらず当時の大名仲間の会話というのはつまらない話題ばかりで、現代風にいえば酒・女・ペット・趣味の話だけで最後は自分のクルマの自慢をして終るというようなレベルでした。
一方で斉彬や松平春嶽・鍋島閑叟など、世間話などせず真剣に日本の行く末を論じるグループもありました。
彼らは江戸城に登城したら必ず一室に集まって、政治や軍事その他もろもろの手配りなどを話し合っていました。
宗城によれば、そのリーダーが斉彬だったそうです。
春嶽(斉彬の妻英姫の従兄弟)は斉彬の19歳年下、閑叟(斉彬の母方の従兄弟)も6歳年下だったので、しぜん斉彬が「師匠分」とみなされたのでしょう。
ちなみに宗城の夫人は閑叟の姉なので、彼も斉彬の9歳年下の親戚(従姉妹の夫)ということになります。
松平春嶽に清国の地図を見せて世界情勢を説く斉彬『照國公感旧録』挿絵
そうせい侯も指導
親戚といえば長州藩主の毛利敬親(たかちか)、いわゆる「そうせい侯」も斉彬の親戚でした。
敬親の義祖母三津姫は斉彬の母弥姫の姉(鳥取藩主池田治道の長女と四女)にあたるので、敬親は10歳年長の斉彬から何事によらず教示をうけており、斉彬も毛利家にたびたび足を運んで、藩政についての相談にのっていたとのことです。
旧長州藩士で敬親の側近としてつかえ、その後毛利家事蹟取調員になっていた竹中兼和は、明治21年に毛利邸を訪れた史談会幹事の寺師宗徳にこのような話をしています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)
(斉彬公は)毛利家にも折々ご来駕あり、常に種々国事上の御談(おはなし)ありしが如し。
もっとも敬親も親しく国事上の事柄は打ち開いて御相談せられし。
時に諸大名等夥多(かた:おびただしく)会合のことありても、概ね通俗の世談にすぎず。
また酒宴を催す位に止まりしも、斉彬公には始終格段の御話あるやにお見受け申上げたり。
兵式の事なども操銃の方法より小隊大隊の編制法に至るまで、かれこれ意見を陳べさせられ、蘭式にて見るところ斯く斯くなるも吾は之れを折衷して斯く斯くに定めたりなど、いちいち指示あらせられご丁寧親切なりき。
依って毛利家においても公のご助言により兵式を改正したることあり。
【「島津家事蹟訪問録 故竹中兼和君ノ談話」『史談会速記録 第175輯』】
宗城と同じく竹中も、当時の大名の会合というものは世間話をして酒を飲むだけだったと語っています。
しかし斉彬はそんな話はせず、もっぱら政治談義でした。
敬親から藩政についてのざっくばらんな相談をもちかけられて、それにきちんと回答するという親身の指導をしていたようです。
さらに銃の扱い方から兵士の部隊編制までこまかく説明して、「西洋ではこうなっているが、薩摩はこのように変えている」など軍事上の事柄についても具体的な指導をしていたことがわかります。
斉彬という人物は徹底的に真面目な性格だったのですね。
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