京都御所のかたち

安政の御造営

 江戸時代、京都御所はたびたび火災で焼失しています。

合計6回被災していますが、最後に焼失したのは嘉永7年(1854)4月6日でした。

正午ごろ内裏の東南にある女院御所から出火、東南の風にのって内裏は炎上、炎はさらにひろがって周辺の家屋をまきこみ、翌7日早朝にようやく鎮火しました。

原因は梅の木にびっしりついた毛虫を退治するために、下女が竹の先につけたワラを燃やして炎で焼き殺していたところ、その火が飛んで屋根に燃え移ったものです。

この火事で内裏の諸御殿が焼失しただけでなく、御所外にも燃え移って、焼失家屋5400余という大惨事になりました。

ここからが本論ですが、大火後に内裏を復旧する際に御所の敷地が少しだけ広げられており、島津斉彬がそれに一役かっています。

まず当時の御所ですが、火事の前は下の図のような形でした。

南西(黄色の星印)と南東(赤色の星印)が少し欠けています、面積は南西が約130坪、南東が約310坪で、合わせると440坪ほどになります。

北東部分は大きく欠けていますが、前々回ご説明した猿ヶ辻のあるところで、これは約2800坪あります。

今回お話しする安政2年(1855)の造営で広げられたのは星印の2カ所で、北東部の拡張は文久元年(1861)の和宮降嫁の謝恩として提案され、工事完了は慶応2年(1866)でした。

安政元年時点での京都御所の敷地形状

(京都大学付属図書館所蔵の「禁裏全図」および「禁裏建造図」を合成し加工)


斉彬、尾張藩主を通じて幕府を動かす

前述のように、御所の敷地拡張については島津斉彬の働きかけがあったのですが、重要な協力者がいました。

それは尾張藩主の徳川慶勝です。

当時のことを、尾張藩の家老成瀬家の家臣だった八木雕(あきら)が史談会でこのように話しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)

安政元年の頃で、御所が炎上になります。
再び御造営になろうという時に、御所が四角に成っておらぬ。
少し欠けております。
巽(たつみ:南東)の処と、坤(ひつじさる:南西)の処と、又艮(うしとら:北東)の方も欠けております。
それで御所において御評議になるに、今度御造営になる時にこれを四角にする時は少し広くなり御都合も宜い、僅か四百坪ばかり、それだけの地面を幕府に申して将軍家において広めて貰わるるが宜いということを御評議があった。
それから関東へ仰せ遣わされんとするときに、又再び詮議があって、今異国船も来て天下多事な時に、斯様な事を関東へ云って遣る事は止める方が宜かろうという事で御沙汰止みになったという。
こういう事を近衛様から(尾張)徳川家へ御文通がある。

そこで(当時藩主だった)先代慶勝は、その頃近臣の長谷川惣蔵に示しまして、「こういう御手紙が来た、どうだろうか」と申しました。

又、その時薩州公(斉彬)へも近衛様から文通があって、薩州から尾州へお話がある。

「この事は私(斉彬)から幕府へ言いにくい、あなた言われぬか」という事でありました。

もっとも、いったん朝廷の御沙汰止みになった事を近衛様が仰せらるのは謎のようなもので、欲しいは欲しいが、この節柄であるから言い出しにくい。

これは将軍家において御所の地面をお広めになるというようになしたらよかろうという事を薩州公と御相談の上、(尾張)徳川家から、その時若年寄は遠藤但馬守でござりますが、内縁があります、それへ長谷川を使者に遣りまして、「これは一つ将軍家から地所をお広めになった方がよかろうと思う」とて、その時閣老の「阿部伊勢守と御相談してくれぬか」という事をいって遣りました。

そこで遠藤は阿部閣老に申して、幕府よりそれだけをお広め申すという事で、巽と坤の方だけ広まる筈に決着致しました。

【「名古屋藩国事鞅掌に関する事実附十八節」『史談会速記録 第7輯』】


御所は本来四角形であるべきなのに、南東・南西・北東の3ヶ所の角が欠けている(凹みがある)。

朝廷としてはここを拡げてきれいな四角形にしたいのですが、工事をする資金も権限もすべて幕府がにぎっています。

北東は大規模な工事になりますが、南の2ヶ所は両方合わせても400坪あまりの小工事なので、せめてこの2ヶ所だけでもひろげてほしいと考えたわけです。

しかし、外国船対策で幕府が大変なときに、こんな要望は自制すべきとの意見が優勢になったので、朝廷からは言い出せません。

そこでこの拡張工事を幕府の方から持ちかけるように取りはからってもらえないか、というのが孝明天皇の意をふまえた近衛忠熈からの要請でした。

つまり、幕府から朝廷に「南東と南西の角を火除けのために少し拡げませんか」と言わせてくれ、と頼んできたのです。

斉彬も同じことを忠熈から頼まれています。【「九七 尾張中納言殿ヘ御所御手薄ノコトヲ告玉フ御書翰」『鹿児島県史料 斉彬公史料第二巻』169頁】

そこで斉彬は、「外様大名の自分が頼んでも幕府は動かないから、御三家の尾張から言ってくれないか」と慶勝に頼んだのです。

慶勝は尾張徳川家の分家である高須松平家から養子に入った人物で、高須藩主だった実父松平義建(よしたつ)が斉彬と親交があったことから、慶勝と斉彬も親しくしていました。

斉彬が慶勝に送った手紙には、「小石川にも相談の上で、老中に働きかけてほしい」とありますから、小石川に藩邸があった水戸藩の徳川斉昭にも頼んでいたことがわかります。

八木は尾張藩のことしか知らないので慶勝と斉彬の動きしか語っていませんが、斉彬は多方面に働きかけたようで、老中首座の阿部正弘や勘定奉行に頼んだと手紙に書いていますし、島津家事績調査員の市来四郎も「御同志の諸侯及び大小幕吏の間、百方御尽力あらせられたる」と記しています。【「一〇一 高須老公ヘ御返翰」『鹿児島県史料 斉彬公史料第二巻』172頁】

斉彬としては、西欧列強が迫っている中で国論を分裂させないためには朝廷と幕府の対立を回避することが不可欠で、幕府が内裏を少し拡げるだけで孝明天皇が喜ばれるのなら、これは結構なことだと考えたのでしょう。

斉彬が幅広い人脈を活かして、公武合体に尽力していたことがわかるエピソードです。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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