日本の科挙となった学問吟味
超難関試験
前回は旗本の筒井政憲が昌平坂学問所の学問吟味で甲科及第したのをきっかけに、昇進をかさねてとうとう旗本のトップの役職である江戸町奉行になったという話をしました。
学問吟味の内容について、国立公文書館のホームページには次のように書かれています。
学問吟味は初場(予備試験)と本試(本試験)に分かれ、「初場」で四書五経や小学の試験を行い、合格者が「本試」に進み、「経義科」「歴史科」「文章科」の試験を受けました。
試験は数日間にわたり、成績優秀者には褒美が下賜されました。
昌平坂学問所の学問吟味というのは3年に一度しか行なわれません。
評定は、甲科及第・乙科及第・丙科及第・落第の4段階になっており、大学の評定にある優・良・可・不可に相当します。
学問吟味は寛政6年(1794)から元治元年(1865)の間に17回行なわれましたが、甲科及第者は全回合わせても66名です。(寛政3年の試験は評価基準があいまいなため除外)
学問吟味の受験者総数は不明なのですが、わかっている嘉永元年(1848)の学問吟味では受験者168人のうち甲科及第はわずか4名(2.4%)しかいませんでした。
ちなみにこの時の及第者は、甲科4名、乙科22名、丙科30名、のこりの112名は落第です。
さらにいえば、及第者として氏名が書きしるされているのは甲科・乙科のみで、丙科は及第とはいうものの総数のみで氏名の記録はなく、学問吟味再受験が可能とされていましたから、真の及第とはみなされていなかったようです。
ということで、合格したと自慢できるのは名前が発表される甲科・乙科の計26名(15%)だけになります。
3年に一度しかない試験で、合格率はわずか15%。
現代日本に目をやると、国家資格のうちでも超難関といわれるのが司法試験です。
その受験資格は法科大学院修了か予備試験合格で、2025年度の予備試験は12,581人が受験して、合格率は3.6%でした。
有資格者が受験する本試験の合格率は41.2%(2025年度)と、こちらは意外と高くなっています。
超難関は入口の予備試験ですが、これは受験資格がないので、だれでも受けられます。
ということは、「大学の法学部にいるから、一応受けてみるか」などと考えて、受験する学生もけっこう混ざっている可能性があります(ブログ主の体験をもとに推定)。
いっぽう学問吟味は昌平坂学問所の学生しか受けられませんから、司法試験以上の超難関試験だったといっても過言ではないでしょう。
湯島聖堂(旧昌平坂学問所)「大成殿」
及第者を優遇
昌平坂学問所は、寛政9年(1797)に幕府お抱え儒者の林家(りんけ:初代は家康につかえた林羅山)が私塾として経営していた湯島聖堂を幕府直轄の学校としたときからはじまります。
直轄化を主導したのは寛政の改革を行なった老中松平定信で、学問奨励のため寛政3年(1791)に自ら聖堂を巡検し、手狭な学舎では多数の学生を収容できないとして建物を増築、林家以外の儒者も加えて教授陣を強化しました。
学問吟味のはじまりは私塾時代の寛政4年(1792)に15歳以上の旗本・御家人を対象に行なった試験です。
このときは280人が受験しましたが、儒学奨励を目的としていたため選考基準もあいまいで、及第者(人数不明)に賞品が授与されただけでした。
試験として整備されたのは寛政6年(1794)の第2回学問吟味からです。
そして、この試験からのちには、成績優秀者の「番入り」が行なわれるようになりました。
「番入り」というのは、父親が現職として勤務中の惣領息子(「部屋住み」とよばれる)が登用される制度です。
江戸時代は世襲制ですから、一家にひとつのポストしか与えられず、家の当主以外は職につけませんでした。
水谷三公(みつひろ)国学院大学教授の『江戸の役人事情』(ちくま新書)によれば、5千家以上の旗本が3千強しかないポストをあらそっていたそうですから、旗本といっても4割程度は無職でした。
旗本に向上心をもたせようと、享保9年(1724)吉宗将軍のときに「番入り」制度が作られたのですが、判断基準は武芸や素行、父の永年勤続などが中心でした。
定信はこれに学問吟味の成績を加えたのです。
学問吟味及第は出世への近道
筒井政憲が学問吟味に首席及第したのは享和3年(1803)、26歳のときでした。
じつは筒井はその前年に「学問技芸出精」によって番入りしていましたが、首席及第後の昇進スピードはめざましく、栗本鋤雲は「これをみて旗本たちは、はじめて学試及第の効果が四芸(弓馬槍剣)総免許を上回ることを知った」と語っています。【遺老瑣談】
ところで、「幕府」の語源は「陣幕をはった本部」つまり軍事指揮所ですから、幕府は軍人のあつまりです。
弓・馬術・槍・剣術の四芸はいずれも軍人にとって必要な技量であり、そのすべてに免許皆伝をおさめたとなれば、スーパー軍人といえるでしょう。
しかし時代の変化とともに武芸を活かす機会はなくなり、頭脳明晰な人物が求められるようになりました。
その判定基準が学問吟味及第だったのです。
昌平坂学問所では御家人も学びますから、御家人たちにとっても学問に励むインセンティブになります。
この及第者を積極的に登用したのが、弘化2年(1845)に老中首座となった阿部正弘でした。
阿部は、学問所御用を務めていた筒井政憲の推挙する甲乙科の及第者を積極的に登用して、新しくもうけた海防掛つまり外交部門に投入しました。
具体的には次のような人物です(カッコ内は担当した主な役職)
永井尚志(軍艦奉行、大目付)
木村喜毅(軍艦奉行、勘定奉行)
水野忠徳(長崎奉行、外国奉行)
岩瀬忠震(目付、外国奉行)
栗本鋤雲(外国奉行、勘定奉行)
向山黄村(外国奉行、若年寄格)
田辺太一(書記官としてパリ万博派遣)
さらにいえば、学問吟味だけでなく、勘定吟味という試験をへて出世したグループ(代表は川路聖謨)もありました。
幕末という国家存亡の危機に、家柄でもなく、武芸でもなく、頭脳で国家に貢献するという、それまでになかった新たな集団が誕生したのです。
彼らが幕末の日本外交を支えて、西洋列強による植民地化を防いだといえるでしょう。
こうした人たちは、自分は学問の力量でえらばれたのだということを自覚しています。
この流れは明治時代には主流となりました。
四民平等の世の中になり、だれでも勉強すれば立身出世が可能になる、「末は博士か大臣か」の原型は幕末にあったと私は思っています。
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