井伊直弼はただの強情者だった
言いだしたら聞かない
前回の一橋慶喜に関連する話になりますが、慶喜を家定将軍の世子にしようとする「一橋派」の運動を阻止した中心人物が彦根藩主の井伊直弼でした。
井伊は安政の大獄を行なうなど強権をふるって幕府の権威を強化しようとしたものの、「桜田門外の変」で尊攘派の志士たちによって暗殺され、かえって幕府の権威を失墜させてしまいました。
ということで、今回のテーマは井伊直弼の人物像です。
直弼の親戚で親しく交流していた宇和島藩主の伊達宗城(むねなり)は、明治21年に島津家の事蹟調査で訪問した市来四郎たちに斉彬・久光の思い出を語った際、井伊直弼のことにも言及しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにして、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)
井伊はいったん僧侶までなりし人なれば、よほど学問はありし。
その性質を評せば、強情一辺にして、遠慮深謀を抱ける人にはあらず。
思い込みしことは必ず為すというべきも、先ず突き当たりて、ただ一筋にやり通すと云うて可なり。
深く精神を込めて尽せしに疑いなし。
しかしよほど疑念深く、狐疑するの癖ありし。
【「島津家事蹟訪問録 従一位伊達宗城君談話」『史談会速記録 第168輯』】
伊達宗城は養父宗紀(むねただ)の正室が井伊直弼の母方の従姉妹(観姫:みよひめ、鍋島治茂の娘で閑叟の叔母)であったことから、親戚として直弼と親しく交際していました。
安政の大獄が起きたとき直弼は養父の宗紀を呼び出して、「このままでは宗城が処罰されるが、その前に自発的に隠居すれば処罰はまぬがれる」とアドバイスしています。
そのような関係だったので、宗城は直弼の性格をよくわかっていたのでしょう。
思ったことはやり通すが、トラブルを起こさないようにうまく交渉するというタイプではなく、障害があってもひたすら突き進むという「猪突猛進型」で「うたぐり深い」性格、というのが伊達宗城の見解です。
井伊直弼 「小林鶯里『明治文明史』」(国立国会図書館デジタルコレクション)
就くはずのない地位に就いたから
井伊直弼がものごとを強引に進めるやり方は世間によく知られていたようで、旧水戸藩士の小瀬光清も明治37年の史談会でこのように語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにして、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)
井伊はことのほか才略もございましたろうが、第一癇癖(かんぺき)の強い人で、どうも自分の思い込んだことは後へ返すことがないというような性質の人だそうでございまして(以下略)
【「水戸藩小瀬光清君国事鞅掌の実歴附廿二節」『史談会速記録 第142輯』】
では直弼はなぜこのようなふるまいをしていたのか?
もって生まれた性格が大きいのですが、それに加えて、急に藩主の座がころがりこんだという事情もあったと思われます。
幕末史にくわしい町田明広神田外語大学教授は、井伊直弼の政治手法についてこのように書いています。
そもそも、直弼は一四男であり、藩主の座に就くことなどあり得ないはずだが、井伊家の男子が次々に早逝するなどの条件が重なった。
本来、就くはずがない立場、地位に就いた人は、より一層その立場にふさわしい人物でありたいと思い、張り切ってやり過ぎる傾向が見られるが、直弼はその典型かも知れない。
それは、大老就任時にも発揮される。
【町田明広『人物から読む幕末史の最前線』集英社 インターナショナル新書】
島津斉彬のように生まれたときから世子として育っていれば、他の大名や幕臣たちとの交流をつうじて、政治手法や人の使い方が身についていきます。
しかし世に出ることのない「部屋住み」として育てば、他大名はおろか藩士との交流もごくかぎられたものしかありません。
つまり社会経験が乏しいのです。
そのような人物が急に政治の第一線に立てば、やり方の分からないままで、自分の考えを押し通そうとすることはじゅうぶん考えられます。
町田先生が書いているように、井伊直弼もそうだったのでしょう。
断に富むが智には乏しい
徳川慶喜は明治42年(1902)になって安政4年(1857)当時を回想して語ったことがありますが、その際に井伊直弼についてこのように述べています。
ちなみにいう、掃部頭(直弼)は断には富みたれども、智には乏しき人なりき。
しかしてその動作何となく傲岸(ごうがん:おごり高ぶる)にして、人を眼下に見下すふうあり。
けだし体躯肥満にして常に反身(そりみ:体が後にそっている)をなせるより、自ら然(し)か見受けられしものか。
【渋沢栄一編 大久保利謙校訂『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』平凡社 東洋文庫】
伊達宗城は直弼を「よほど学問はありし」、つまり「そうとう学があった」と語っていましたが、慶喜は「智には乏しき人」と切り捨てています。
双方を勘案すると、知識はあったがそれを使いこなす知恵がなかったということでしょうか。
慶喜という人は弁舌がじつにたくみで、ディベートでは誰にも負けませんでした。
だから「智には乏しき」と言う発言になったのだと思います。
しかし、宗城がいうように並みの大名以上の学識あったはずです。
慶喜は直弼がいつもふんぞり返って周囲の人を見下すような態度だったと言ってから、肥満のために常に反身になっていたので傲慢なように見られたのだろうとフォローもしています。
ブレーンがいなかった
ところで、知恵が必要なら優秀なブレーンを身近におけば事足ります。
その典型例が、藤田東湖や戸田忠太夫・会沢正志斎などのそうそうたるブレーンを抱えていた水戸の徳川斉昭(烈公)であり、橋本左内や中根雪江がサポートした福井の松平春嶽です。
旧福井藩士で松平春嶽の側近だった村田氏寿(うじひさ)は、直弼のことをこうに語っていました。(読みやすくするため現代仮名づかいにして、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)
井伊公は大名に珍しく果断豪邁の方なりき。
とにかく徳川家の衰運を一身に負い、忠義の家柄に恥じざる心懸けにて、徳川家とともに倒れんと決心せし人なり。
惜しむらくはその配下に人物なかりき。
【「村田氏壽翁の談話」『旧幕府 第一巻第六号』】
井伊直弼は徳川家への忠誠心は強かったが、部下にめぐまれなかったために残念な結果となったというのが村田の見解です。
村田は橋本左内の親友で、左内がサポートをしたことによって春嶽が名君とたたえられていたのを間近に見てきました。
だからこのような発言をしたのでしょう。
つけ加えると、直弼が行なった安政の大獄について、島津斉彬と親しかった福岡藩主の黒田長溥はこう語っています。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)
井伊が尾張そのほか公家中などを暴(てあら)に取り計らいたる事も、考うに薩摩守(斉彬)が存生ならあのようの事は致さず。
井伊も気のきいたもの故、相談いたし、品能く取り計らいの都合ならんかとおもえり。
井伊は中々ひと通りの人物にはあらざりし故、(斉彬を)味方にして相談するは必定なり。
【「二四九 黒田長溥公市来廣貫へ御親話(明治十八年春)」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】
島津斉彬は安政5年(1858)7月に急逝しました。
井伊直弼が安政の大獄を行なったのはその直後です。
黒田は斉彬が直弼と交流があったことをよく知っていますから、もし斉彬が存命であったら井伊は斉彬に相談したはずで、そうすればあのように過酷な処分を下すことはなかっただろう、というのが彼の見立てです。
しっかりした相談相手をもつことは大切ですね。
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