働いて×5

働くのは美徳

 今年の流行語大賞の年間大賞に高市早苗首相が自民党総裁就任スピーチでのべた「働いて働いて働いて働いて働いてまいります」がえらばれました。

この言葉がでる直前には「私自身もワークライフバランスという言葉を捨てます」と語っていますから、働くのが首相自身であることは明白です。

にもかかわらずSNSなどでは、「働き方改革はどこへ行った?」「長時間労働を美徳とする社会に逆戻りするのか」など反発する声もでています。

「24時間戦えますか」の時代に働いていた身としては首相はごくふつうのことを言っただけだと思うのですが、選考理由に「ここのところとんと聞かなくなった気合の入った物言いに、働き方改革推進に取り組む経済界はド肝を抜かれた」とあったので、時代の変化を感じています。

というのも昔は「勤労は美徳」が当り前だったからです。

ところで、幕末の薩摩藩にも高市首相同様に働きまくっている人物がいました。

名君島津斉彬です。


殿様はワーカホリック

斉彬は高市首相と同じく、朝から晩までひたすら仕事をしていました。

まさにワーカホリック(働き中毒)です。

国元で14歳のときに小坊主として出仕してからずっと斉彬の君側をつとめていた三原経備が明治36年の史談会にでたとき、会員で旧会津藩士の柴太一郎から斉彬の日常のようすをたずねられて、こう答えています。(読みやすくするため現代仮名づかいにして、一部漢字を平仮名に改め、明らかな誤字は修正しました)

(柴)「ご自身に御調べになるとか、御筆を執らるるということがござりますか」 
(三原)「一寸もただ居らるることはないというのでもないが、夜分も昼も、夜分は御奥に居られても何か書き物でござります。
大体十時が引け、その間は書き詰め。
私に経師屋をせよと云うことで、かしこまりましたといって稽古を致しました。
帳面など出してとじた。その釘ち方がドッサリある。
それは下から上申したもあり、御自身に書かれたもある。公然とやるもあり、人の居らぬ所でやるもある。
一人でいかぬから、ほかに小姓に教えてやりまして、日々とじておりました」 
(柴)「電信、時計などの事があるというは御奨励にもなったのでござりましょうが、詩を作り歌を詠むということはござりませぬか」 
(三原) 「それはありませぬ、暇がない。ただただ運動する位で余閑がない。
御慰みになるは朝貌(あさがお)でござりました。
今ならば珍しい朝貌がござりますが、その時は牡丹咲き位のものでありました。
酒は少しも上らぬ」
【三原経備「島津斉彬公の事蹟並三原経備君御側勤役中の事実附八節」 史談会速記録第127輯】 

斉彬は藩士や領民からの上申書はすべて目を通していましたし、藩が出す布告の多くは自分自身で書いていました。

また交際範囲も広かったので、諸大名や幕臣などとの手紙のやりとりも多かったそうです。

だから、三原が言うように夜十時まで「書き詰め」の状態だったのでしょう。

経師屋というのは経巻や和本などの装丁をする商売ですから、三原は斉彬の手元にある書類を綴じる、いわばファイリング担当になったということです。

下から上がってきた上申書や斉彬自身が書いた文書などですが、そのような書類があまりにも多かったのでついには手が足りなくなり、他の小姓に手伝わせて毎日書類綴じをしていたといっています。

人のいないところで綴じていたのは、幕府に知られては困る手紙のような機密文書でしょう。 

菱川師宣『和国諸職絵つくし』より「経師」(国立国会図書館デジタルコレクション)

「きゃうじ この まきぎり いかにしたるにか きりめの そろはぬよ」


斉彬は普通の文化人のように漢詩や和歌をつくるようなことはせず、朝顔栽培をたのしむ以外は仕事一筋の生活でした。

ちなみに斉彬が栽培していたのは「変化朝顔」とよばれるもので、下の図のように突然変異によって生じた花や葉の形が変わっている朝顔です。

穐叢園『朝顔花併』より牡丹咲き2種(国立国会図書館デジタルコレクション)


江戸でも働きづめ

国元の薩摩で働きづめだった斉彬ですが、その状況は江戸の藩邸にいるときも同じでした。

藩邸での斉彬の日常については、江戸で仕えていた本田孫右衛門が明治37年の史談会で、幹事の寺師宗徳や岡谷繁実の質問にこう答えています。

(寺師)「遊び場所に御出でになった事はござりませぬか」 
(本田) 「そう云う事はござりませぬ」 
(寺師)「御寺や名所旧蹟へは如何でありましたか」 
(本田) 「それは私共は判らぬが、ござりますまい」 
(寺師)「御大名の御楽みはどんなものでありましたか」 
(本田) 「御楽みは別にござりませぬ。能などは格別御好きでもござりませぬから」 
(岡谷)「茶は如何であります?」 
(本田) 「そう云う事も伺わぬが、御馬は随分御好きな方でござりました。弓もござりませぬ」 
(岡谷)「碁のようなものはござりませぬか」 
(本田) 「碁将棋などは私共は判らぬが、ドウでございましたか」
【本田孫右衛門「島津斉彬公逸事問答数條」 史談会速記録第269輯】

当時の大名の楽しみといえば、能(鑑賞だけでなく自分で舞います)、茶の湯、囲碁や将棋、名所旧跡をたずねて和歌や漢詩をつくるなどさまざまな 趣味があり、また宴席で世間話に花を咲かせることもありました。

しかし、斉彬はそんなことには目もくれず、全エネルギーを仕事に集中していたようです。

高市首相も就任して1ヶ月以上たってからようやく「就任後初の夜会食」と 報道されるほど仕事に没頭しているようですが、斉彬と一脈通じるものを感じますね。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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