日々是勉強

夜も勉強

 前回もとりあげた高市首相ですが、就任以来「実質休みゼロ」で、「執務が終わるとまっすぐ宿舎に戻って勉強している」と報道されています。

「夜は宴会のはしご」というのがこれまでの政治家のイメージですが、それとは真逆のスタイルです。

じつは島津斉彬も同様でした。

斉彬の下で集成館事業に従事した市来四郎は、明治26年の史談会で次のように語っています。(読みやすくするため句読点とカギ括弧をおぎない、一部漢字を平仮名にかえています) 

記憶が強く、元来頴敏(えいびん)な生まれつきでござります。
藩内では一を聞て十をさとる人だと申しております。
仏学でも儒学でも歌でも詩でも、かなり一通りは出来た人でござります。
夜分に伽役(とぎやく)などが出まして下らぬ話を致す様な事はなかったと承ります。
酒も飲まぬ人で、伽役などは必ず学者をつかって話を聞く人で、寺島が侍医のときは医道では仕えませず、伽役で使うてござります。
小姓や女なんぞに按摩でも取らせながら、寺島はソコに於て外国の歴史とか地理書とか何とかを読んで、その講釈をさせて聞かれたそうです。
それは私どもはよく知っております。
他にはいたずらな話(=無駄話)などはさせぬ人であった様子で、記憶は強し、それを記憶して考え、実地に行うことが長所であったろうと考えます。 
【市来四郎「薩隅日尊王論の大勢及尊王家勃興の事実附三十一節」『史談会速記録第8輯』】 

斉彬は生まれつき記憶力がよくて頭の回転がはやいから、「一を聞いて十を知る」人物でした。

しかも、当時の教養である仏教・儒教・和歌・漢詩などもかなりの水準に達していたとのことです。

伽役というのは大名の側近くにいて雑談の相手をしたり、自分の経験談や軍談を語ったりする人のことですが、斉彬は「下らぬ話」などさせずに、寺島宗則(当時の名は松木弘安)が洋書を翻訳して読み上げるのを聞いていました。

寺島は侍医という肩書きでしたが、医術で仕えていたのではありません。

彼は優秀な蘭学者で、その才能に注目した斉彬が、そばに置いて使うために侍医に起用しました。

当時は身分制度がやかましかったため、城下士よりもさらに身分の低い郷士の次男に生まれた寺島は、いくら優秀でも殿様に口をきける身分ではありません。

そのために斉彬は医者という武士階級とは別枠のポジションにおいて、身近に仕えさせたのです。

市来が語っているように医者の仕事はせず、洋書を読んで斉彬に西洋の知識や情報をつたえるというのが寺島の役割でした。 

つけくわえておくと、斉彬は酒が「飲めない」のではなく、「飲もうとしなかった」のです。

江戸にいるときは大名どうしのつき合いで少しは飲むこともあったようですが、薩摩ではそのような気づかいは無用だったので一切飲まなかったのでしょう。

「日本が西欧列強の植民地にされるかも知れない状況のときに、酒を飲んでいる時間などない」ということです。


寺島宗則(国立国会図書館デジタルコレクション)


マルチタスク

斉彬は仕事熱心だっただけではなく、複数の作業を同時にこなしていました。

市来四郎は先ほどの話に続けて、こう語っています。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名にしてカギ括弧をおぎなっています)

寺島が今も話しまするに、「斉彬公は脳が二つあったかと思う」と。
何でも話をする中に小姓や小納戸役などが出て、「何はこう致しました、これよりドウ致しましょう」と申出ますると、「それはこうこうして、それはコウせよ」など下知を致す様なことで、そういう時に話を止めるが嫌であって、止めずに語らなければならぬことであった。
そういう人であったから、今考えると脳が二つあったのだろうと思うと話しております。
【市来前掲書】

斉彬が部下に指示しているときでも、洋書を読みきかせるのをやめてはいけなかったようです。

部下の話を聞いてそれに指示を出しながら、同時に読みあげさせている洋書の内容が理解できるものか。

私などは片方しか頭に入りませんが、斉彬はそうではなかったようです。

というのも、市来の甥である寺師宗徳も寺島から斉彬の日常を聞いて、こう語っているからです。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名にしてあります)

寺島伯の一つ話に、斉彬公は頴敏であったという話に、朝々髪を結(ゆわ)せながら側で書物を読ませておらる中にも、近習役どもが伺事の下知をなし、あるいは聞きながら手紙を書きておらるることもあり、その時読んでも耳に入るまいと思ってゴマカスと叱られたこともあったそうです。
【市来前掲書】

市来の話は夜でしたが、寺師によれば朝の整髪時間にも寺島に洋書を読ませていたようです。

斉彬が近習に指示を出したり手紙を書いたりしているので、聞く方はおろそかになっているだろうと考えた寺島がいい加減な説明をすると叱られたという話を披露しています。

聖徳太子が同時に八人(十人という説もあります)の話を聞き分けたという伝説もありますが、斉彬の場合は寺島のはっきりした証言が残っていますから、間違いはないのでしょう。

同時並行で仕事を処理できる、現在風にいうならマルチタスク人間でした。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

0コメント

  • 1000 / 1000