斉彬はなぜ名君になれたのか?

益友

 タイトルがいきなり『ブラタモリ』のお題みたいになってしまいました。

じつは、ここのところ、来月に照國神社で行なう講演「斉彬公交遊録~大名編~」のパワーポイント資料とレジュメの作成に取り組んでいます。

その中でふと気になることがありました、それが「なぜ名君になれたのか?」です。

島津斉彬が名君だというのはどんな本にも書かれていますが、なぜ名君になったのかという考察はあまり見かけません。

いちおうの指摘として、「母親(弥姫:いよひめ)の教育がよかった」とか、「蘭癖といわれた曾祖父(重豪:しげひで)の影響で西洋のものに興味をもった」とか書かれてはいますが、要は「もともと頭が良かった上に、使命感が強く、勉強熱心だった」から名君になれたというイメージです。

でも、それだけでは何となく物足りません。

今回、講演のために史料を読み直していたら、興味深い意見を見つけました。

斉彬に仕えて集成館事業やフランス軍艦購入の秘密交渉(斉彬急逝でキャンセル)にたずさわり、維新後は島津家事蹟調査員となって、斉彬の事蹟を追って多数の関係者に聞き取り調査を行なった市来四郎の発言です。(読みやすくするため、一部漢字を平仮名に変えています)


斉彬は御同族方大小名その他に交際の広き人で、ことさらに御交わり申したは水戸烈公を始めとして、これは師として仰ぎ居られた様子に聞いております。
友達には尾州(徳川慶勝)公、(松平)春嶽公、(山内)容堂公、伊達宗城公、蜂須賀(斉裕)侯、佐賀(鍋島直正)侯、米沢侯(上杉斉憲)等、その他幕吏の中にも有名な筒井(政憲)、川路(聖謨)、岩瀬(忠震)などの人々にて、今日より見ますれば誠によい御友達で、益友であったと考えます。
 (中略) 
いわゆる友達がよいから、それが為めにも大に当人の知恵を研いだであろうと存じます。とかく天稟(てんぴん)の才はありても交友が第一でござります。
 【市来四郎「薩隅日尊王論の大勢及尊王家勃興の事実附三十一節」『史談会速記録第8輯』】 


「友達がよかったから」というのが、市来の見解です。

市来は「益友」という表現を使っていますが、これは中国の古典『晏子春秋(あんししゅんじゅう)』に出て来る言葉で、「聖賢の君,皆益友を有す」とあります。

「聖賢の君だから益友が集まってくる」のか「益友がいたから聖賢の君になれた」のか、市来は「天稟の才はありても交友が第一」と語っていますから、益友というべき人々とつきあっていたから知恵や人格が磨かれたとの見解です。


市来四郎(東京科学博物館編『江戸時代の科学』)



江戸では来客が絶えず

以前「日々是勉強」で書きましたが、明治政府で外務卿(外務大臣)や元老院議長などの要職を務めた寺島宗則(旧名松木弘安)は、若いころ斉彬の侍医兼伽役として仕えていました。 

寺島は常に斉彬の側にいたため、斉彬のことをよく知っています。

明治18年に斉彬の言行調査に訪れた市来四郎らに寺島が渡した書付には、斉彬の事業や人使いなどさまざまなことが書かれていますが、その中にこのような記述がありました。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えています。原文はこちらの782頁)

公謂(い)えらく、善政勧誘の功は、交際相通じ情誼相貫くにあらざれば之を遂ぐるを得ず。 
故を以て幕府当時の顕官には阿部伊勢守、堀田備中守等、及び藩主は蜂須賀斉裕・黒田斉溥・鍋島斉正・松平春嶽・伊達宗城・藤堂高猷・山内容堂等と交わり、来住断ることなく、在東の時には日々来客なきことあらん。
【「四七〇 寺島宗則記述」『鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻』】

寺島は斉彬から聞いた話として、「いくら良いプランがあっても、日ごろの交際を通じて、お互いの気持ちが分かり合えていなければ協力が得られず、実現できない」と書いています。

斉彬は幕府や他の大名を「善政に勧誘」するには日頃の付き合いが重要だと考え、そのために老中や有力藩主たちと幅広く交流していたようです。 

寺島によれば、「斉彬公は来る人を拒むことがなかったので、江戸にいるときは毎日来客があった」とのこと。 

とはいえ、誰とでも付き合うのではなく、遊び友達というのはいません。

みな益友というべき人たちで、彼らとの交流によって斉彬自身も向上していたのです。

そして、このような親密な付き合いがあったから諸大名や幕府の協力を得ることができて、成果をあげ、江戸時代最高の名君と呼ばれるようになったのでしょう。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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