斉彬は米価を引き下げた

ここのところ米価の話題で盛り上がっているので、急遽こんなエピソードをとりあげてみました。

領民の困窮を救うのが藩主のつとめ

 日本人の主食であるコメの値上がりが激しくて困っているという話があちこちから聞こえてきます。

政府が備蓄米を放出しても価格は一向に下がらず、あげくに農相が「コメは沢山もらえるから、買っていない」と発言して詰め腹を切らされるなど、政府の迷走ぶりはエスカレートするばかりです。

じつは島津斉彬の藩主就任時にもおなじようなできごとがありましたが、対応は石破首相とはまったく違いました。

斉彬が薩摩藩の藩主となったのは嘉永4年(1851)で、当時の薩摩も米価が急上昇していました。

というのも、前年の台風によって農作物の被害が大きくコメが品薄になっているところに、商人の売り惜しみが加わって、玄米1石(150キロ)が20貫(=5両)をこえるほど値上がりしました。

江戸時代の1両は現在価値で約10万円ですから、150キロで50万円なら5キロで16,700円(!)です。

斉彬は緊急対策として、藩の貯蔵米を放出することで米価を引き下げようとしました。

そのときの斉彬の指示について、明治26年の史談会で市来四郎がこのように語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

四民困窮の様子を聞いては、金銀の損亡よりは大なる国家の損亡である。
又この薩隅日三州は先代より相続致したことは申すまでもない、これを拙者が所有の薩隅日と思っては大間違いである。これは辱(かたじけな)くも天子様より預り奉る人民である。
その者共が今日衣食の為めに困窮するということでは、第一朝廷に対し奉りて申し訳がない。
故に拙者が勤倹を行うて、四民の困難に迫まらぬ様にするが拙者の職分である。
故に藩庫を開いて四民を救うから、その取扱をせよ。
【市来四郎「薩隅日尊王論の大勢及尊王家勃興の事実附三十一節」『史談会速記録第8輯』】

と命じて藩の貯蔵米4000石を放出して米価を下げようとしました。

しかし、損をすることを恐れた役人たちが1石あたり19貫500文という、市場価格と大差ない値段で払い下げたため、コメの流通量は増えても米価は下がりませんでした。

役人たちが高値で放出したのには理由があります。

薩摩藩はそれまで巨額の借金に苦しんでおり、家老調所笑左衛門がハードネゴを重ねた結果、無利息250年分割払という破天荒な返済条件に変えてもらい一息ついているという状況だったからです。

いくら新しい藩主の指示とはいっても、藩の利益にならないことをするなど思いもつかなかったのでしょう。

藩の役人たちにとっては、領民よりも藩財政の方が大事だったからです。

このあたりは、国の備蓄米放出に際して入札を行うことで高く売ろうとした農水省や、その背後にいる財務省の姿勢と共通したものを感じてしまいます。

これでは米価は下がらず、庶民は苦しみ続けます。

玉斎『大洲屋米穀店』(早稲田大学図書館蔵)


役人たちの対応を知った斉彬は、新たに5000石の米を1石13貫500文という安い値段で放出させました。

その効果はてきめんで米価はたちまち下がり、庶民は大喜びして殿様に感謝しました。

斉彬は米価を安値で安定させるため、先に払下げた4000石の代価についても1石14貫に下げて、差額の1石5貫500文を商人たちに返金しています。

そうしておいてから1石15貫以上で販売することを禁じたことにより、商人の売り惜しみもなくなって9月には1石13貫に低下、この年が豊作だったことでさらに低下して年末には12貫前後になりました。

1石20貫だったものが12貫になったのですから、4割も値下がりしたわけです。

石破首相と比較するのは斉彬公に失礼ですが、トップがリーダーシップを発揮すれば米価急騰という問題は解決できるという実例です。

(くわしく知りたい方は『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』264頁「一九一 窮民救恤米価下落云々ノ御書取」をご覧下さい)


金銀の損亡より国家の存亡が大事

今の政府は国民の暮らしを良くすることよりも、国家財政を良くすることの方を優先しているように見えます。

じつは斉彬が藩主に就任したころの薩摩藩もおなじでした。

前掲の斉彬公史料によると、当時藩の財務に関わっていた役人たちは、藩庫に積まれた金が増えることを栄誉と考えて、増やす行為を「勤労」と唱えていたと書かれています。

増税(新税か税率アップ)することが手柄になって、減税はタブーとする現在の財務官僚(と政治家・御用評論家・オールドメディアなど)をつい連想してしまいます。

斉彬は備蓄米放出の布告を出すにあたり、役人向けに財源の説明もしています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

(安値放出は)相応に蔵方の損亡に相成り候らえども、当年も大坂表(砂糖など藩の専売品収入)都合よろしく、(幕府の)手伝い等(の支出)もこれあることながら、残り金相応にこれあるべし。
それに引き比べ候らえば、格別の損亡にこれなく、差し障りに相成る程にはこれあるまじく、ただ内用方積金、例年よりは不足に及び候のみの事と存じ候
【前掲書267頁「一九一 窮民救恤米価下落云々ノ御書取」】

現代風にいうと、「減税分は税収の増加でほぼおぎなえる、予備費の積み立てが例年より減る程度だ」という説明です。

さらに、「税収が減るのは役人の働きが悪いからではと気にする者がいるかも知れないが、そんな心配は無用だ」と言い聞かせた上で、こう告げています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

近年は無事太平の世とは申しながら、日本諸所へ異国船渡来、第一琉球へは去る辰年(1844)以来異人滞留罷りあり、おいおい根深く相成るべきやの模様にもこれあり。
その上近年中には、日本へも通商願のため渡来致すべきやの聞こえもこれあり。
かたがた治に乱を忘れずの時節と存じられ候。
左様の砌(みぎり)、平常諸士困窮に及び候ては、万一異船到来候節、心は十分に存じ込み候族も、なかなか手に及び申すまじく。
且つまたかねて風俗礼儀相守り候よう申付け置き候も、今日の飢渇にせまり居り候ては、志これある面々も学文武芸はさておき、心には悪念これなくても、よんどころなき事情より非義の働きこれあるまじきとも申されず。
たとえば往々よろしき役儀勤めるべきほどの人柄、少なきは必定に候。
上より利益ばかりを吟味(ぎんみ:とりしらべること)致し候えば、おのずから下々にはなおさら悪風流行に疑いなきもののよし承り及び候。
右通りに候えば、第一金銀の損亡よりは、大なる国家の存亡と存じ候。
【前掲書268頁「一九一 窮民救恤米価下落云々ノ御書取」】

斉彬の言い分を簡潔にまとめると、こうです。

「外圧にさらされているときに、人々が生活に困窮していては十分な働きが出来ない。

また食うに困って、やむをえず悪事をはたらく者がでないともいえない。

上の者が利益ばかり追っていては、下々の者たちも同じようにすることは疑いがない。

国庫の金が減ることよりも、国家の存亡のほうが大事だ」

アジアの国々がつぎつぎに植民地にされていき、極東の日本にも西欧列強の軍艦が押しよせる状況において、「もっとも大事なことは財政ではなく、国家の存亡だ」ということを斉彬は藩士たちに告げています。

リーダーがはっきり方向を示し、部下が一致団結して従い支える。

幕末の薩摩藩は、斉彬の示した道筋を後継者久光が着実に進んで、明治維新をなしとげました。

現在の日本も虎視眈々とねらう国々にかこまれて、幕末同様の危うい状況になりつつあるように思えます。

幕末と決定的にちがうのは指導者層のひどさで、もはや放置できないところに来ています。

国民は官僚を選ぶことができませんが、政治家を選ぶことはできます。

次の選挙では、「財政規律よりも国家の存亡の方が大事だ」と言う人物を選びましょう。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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