タイコモチ医者、じつは名医?
絶家した旗本を継いで開業
前回は、田舎から出てきた医者の槇島隆徳が産婆と組んで、将軍御側御用取次をつとめる土岐豊前守の妹の出産につけこみ、ありもしない症状を騙って不安をあおり、治療が成功したように思わせて感謝され、安産祝いの席で、兄の豊前守から「拙者の屋敷に来い」と声掛けをされたところまでお話ししました。
隆徳はさっそく土岐邸を訪ねますが、いきなり面会を願うことはしません。
ご機嫌伺いと称して毎日土岐邸を訪れ、玄関の帳面に名前を記すだけで帰りました。
まずは謙虚さのアピールです。
それを重ねているうちに気の毒に思われたのでしょう、「勝手口から入れ」と言われて邸内に上がり込むと、用人と世間話をするようになり、ついには用人ではなく豊前守本人と親しく話ができるまでになりました。
こういう手際は、まさに薄井が「幇間(ほうかん:たいこもち)」と呼んだとおりです。
そうしているうちに、豊前守の家来の高村という家が絶家していたので、それを相続させるという話がもちあがり、とうとう高村隆徳と名を改めて、旗本になってしまいました。
ちょうど本町2丁目(現在の東京都中央区日本橋本町2丁目)に大きな空き屋敷があったので、そちらに移り、そこで大々的に町医者を開業したところ、言葉巧みな診察で人気を呼び、たいそう流行ったことから、口をきく人がでて表番医師に推薦されます。
評判のいい町医者で、かつ御側御用取次をつとめる土岐豊前守がバックについているのですから、すぐに表番医師に採用されました。
ついで奥医師にという声が上がりましたが、こちらは簡単にはなれません。
というのも、奥医師にふさわしい力量があるかを調べる試験があったからです。
奥医師試験
いよいよ奥医師試験の日がきました。
会場は幕府医師の教育機関である医学館、試験官には医学館館長の多紀安長ほか医学館の教授4、5名が立会います。
試験問題は『傷寒論(しょうかんろん)』の葛根湯(かっこんとう:風邪薬)の章でした。
傷寒論はよく知られている漢方の基本テキストで、葛根湯はこれも基本的な薬ですから、言ってみれば一人前の漢方医なら誰でも答えられる基本問題を出してくれたのです。
しかし、隆徳は葛根湯が何かも知らないレベルだったため、ろくに答えられず、ほうほうの体で医学館を後にしました。
とうぜん試験は不合格です。
しかし隆徳のすごいのはここからでした。
隆徳は土岐豊前守の屋敷に行って、土岐にこう言いました。
「だしぬけに難しいことを聞かれたら、誰でも動転して答えられるものではありません。
試験官だった多紀でも、あのような試験を受けたら私同様に失敗するでしょう。
私は学問は少し足りませんが、技量においては彼らを遙かに上回っております。
それを彼らは知っていて、御前(土岐)が私を引き立てるのを快く思っていないために、御前を傷つけようとして、私を衆人の前で御前の代わりに辱めたのです」
まあ、ぬけぬけとよく言ったものですが、これを聞いた土岐豊前守は怒り狂いました。
「生意気なことをする奴らだ、我に逆らう身の程知らずめ。
よし、誰がなんと言っても、この豊前守がなんとかしてやる」
と言って、医師の監督責任者である若年寄にねじこんで、とうとう隆徳を奥医師にしてしまいました。
大奥には好評
こうして医学知識もないのに奥医師に入り込んだ高村隆徳ですが、意外なことに大奥の人気者になってしまいました。
前回も紹介した大正4年の史談会で、薄井がこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、句読点を補っています)
奥医師になってから、将軍家よりは御広敷に大変取り入って、老女関口という者にひいきにされ、御広敷の方の御用というものは、殆ど自分一身で引受ける位なことになった。
御広敷が大層通りが宜かったから、御表も尚以て宜かった。
そうして其忰(せがれ)はこれも矢張り親の子で、何も出来ない者であったが、奥詰医師にお取り立てになって、親子共に勤めて居った。
それが即ち、其頃の腕利(うできき)医者の高村隆徳の出身であります。
【薄井龍之「幕府時代の儒者と医者」『史談会速記録 第271輯』】
土岐豊前守がねじ込んで奥医師になったとはいえ、実力がないことは知られていますから、将軍一家の診察はさせてもらえず、もっぱら大奥の女官を診察していました。
ところが口達者なものだから、大奥の老女(幕府では老中にあたる実力者)関口にひいきにされて、その直属の配下となる広敷の女官たちにも評判が良く、大奥女官の診察は隆徳が一手に引受けるようになったというのです。
揚州周延『千代田の大奥 茶の湯』(部分:国立国会図書館デジタルコレクション)
忰が取り立てられた奥詰医師というのは奥医師の見習いです。
薄井は「其忰はこれも矢張り親の子で、何も出来ない者であった」と隆徳親子のことを否定的にのべています。
じつは名医?
しかし、私の見方はちがいます。
たしかに最初は産婆と結託してインチキな診療をしていましたが、医院を開業してたいそう流行ったというのは患者の評判が良かったからでしょう。
さらに大奥の「御広敷が大層通りが宜かった」「老女にひいきにされ」と薄井が述べているところも重要です。
広敷の女官は「表使(おもてつかい)」と呼ばれて、幕府役人と折衝するいわば大奥の外交官であり、「大奥の女官中枢要の位地にあり、才智勝れたるものならでは勤め兼ねる」(永島今四郎・太田贇雄編『定本 江戸城大奥』)という才女たちです。
そして老女というのは才女たちの競争の中でトップに立ち、大奥の一切を取り仕切って、老中をやり込めることもめずらしくない力量をもった女傑です。
そのように一筋縄では行かない女性たちを自分のフアンにしてしまうなど、並みの医者にできることではありません。
「病は気から」という言葉があります。
高村隆徳は内科医としてはヤブ医者かも知れませんが、精神科医だとすれば超一流の医者のように思えます。
だからこそ大奥というストレスの多い職場で、心身の病を治してくれる得がたい人物として、女官たちに歓迎されたのでしょう。
また、ほかの奥医師にしても、口うるさい大奥の女官たちを任せることができれば大助かりです。
身体の治療から心の治療に見方を変えれば、高村親子は得がたい人材だったといえるのではないでしょうか。
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