新人佐渡奉行川路聖謨の感化力
40歳で奉行に
島津斉彬の「時事談の友」と称された川路聖謨について、前回は父親のきびしい教育ぶりをご紹介しましたが、有名な人物なので幕吏になってからのエピソードもたくさん伝わっています。
今回はその中から、佐渡奉行時代の勤務ぶりをご紹介します。
以前、『幕府役人のキャリアパス』の話において、川路の経歴をこのように紹介しました。
島津斉彬と親交のあった勘定奉行川路聖謨(としあきら)を例にあげると、地方代官所の手代(=幕臣ではない)の子で、小普請組(=無職)の御家人川路家の養子となり、13歳で家督を相続、17歳の時に筆算吟味に合格します。
翌年18歳で勘定所支配出役(=非正規社員)となり、就職に成功。
21歳で支配勘定本役、つまり正社員に採用されました。
その後順調に出世を重ね、35歳で勘定吟味役になり、52歳のときに最終目標である勘定奉行に就任しています。
勘定吟味役は川路のような下級士族にとって出世の登竜門となるポストで、彼は天保6年(1835)35歳でそこに到達しました。
そうして5年間勘定吟味役をつとめますが、すでに名声を博していたようで、横井小楠も天保10年(1839)に藤田東湖の紹介で川路に会った後、「川路三左衛門(聖謨の旧名)殿を訪う。此人、其名を聞こと久し、果たして非常の英物なり」と書いています。【川路寛堂『川路聖謨之生涯』】
小楠に会った翌天保11年、40歳の川路が家慶将軍から任じられたポストが佐渡奉行でした。
現代におきかえると、35歳で課長になり、40歳で地方支店の支店長になったという感じでしょうか。
佐渡奉行はふつうの遠国(おんごく)奉行のような所轄地域の行政・司法だけでなく、金山の管理という、幕府にとって重要な業務が加わります。
奉行は2名いて江戸と佐渡に分かれて勤務しますが、1年交替制なので佐渡へ家族を帯同することは許されず、単身赴任です。
しかし単身といっても奉行の赴任となると大ごとで、たくさんの従者をひきつれて大名行列のような移動になります。
もともとが下級武士で質素倹約を旨とする川路は、軽装の少人数にて赴任したいと希望したのですが、旧例だからと簡素化は許されませんでした。
佐渡へ渡るにも三つ葉葵の紋をかかげた帆船を何艘もの小舟が引くという、おおげさなことをするので、川路はさぞや居心地が悪かったのではないかと同情してしまいます。
川路寛堂『川路聖謨之生涯』より「佐渡奉行赴任渡海之図」
(国立国会図書館デジタルコレクション)
佐渡奉行
幕府は地方の直轄地(天領)の管理者として代官を置きましたが、外国貿易を行なう長崎や、京都の入口となる伏見、始祖家康をまつる東照宮がある日光など、重要な土地には代官ではなく奉行を配しました。
これが遠国奉行で、佐渡奉行もそのひとつです。
佐渡奉行の職務はさきに述べたように、佐渡全島の行政・司法にくわえて、金山の管理・運営があります。
佐渡金山は慶長6年(1601)に3人の山師によって開山され、早くも同8年(1603)に徳川幕府の直轄となって佐渡奉行所がおかれています。
川路が佐渡奉行を拝命したのが天保11年(1840)ですから、佐渡奉行所はすでに240年近い歴史があありました。
幕府の直轄地といっても奉行以外の役人は現地採用者で、転勤などなく、生涯佐渡奉行所で働いている人たちです。
長い歴史がある職場の場合、さまざまな独自の決まり(ローカル・ルール)が存在するのは、よくあることです。
じつは川路が佐渡奉行に任じられたとき、上司である老中水野忠邦から、「金山のある佐渡は幕府にとって重要なところだが、江戸から遠いために役人たちが勝手なことをしているようなので、これを改めさせるように」との指示を受けていました。
では、川路はどのようにしてその悪習をやめさせたのか?
そのやり方が面白いので、ご紹介します。
奉行所の風紀を一新
前回も書きましたが、川路の実父は豊後日田の代官所手代でした。
そのため、川路は天領の役人がどういうものかをよく知っていたと思われます。
天領で本当に力を持っているのは奉行や代官ではなく、ずっとそこに居続けている地役人たちです。
転勤族である奉行が権力で押え付けようとすれば、奉行所の仕組みを知りつくしている地役人たちから、どのようなずる賢い反撃を受けるかわかりません。
では川路はどうしたのか?
かれは着任しても新しい指示を出すことを一切せずに、役人を観察して実態把握につとめたのです。
そのかたわら古い記録を読み込んで、以前に制定された規則で現在は休眠状態にあるものを調べました。
そうして現状改善に役立つと思われる規則をえらび出し、着任後2ヶ月以上が過ぎたのち、「このような先例がある」といって、それらの規則を復活させていったのです。
江戸時代は旧例主義ですから、「先例遵守」は最優先されます。
こうして川路はおだやかにローカル・ルールを変えていきましたが、それは「改革」というよりもむしろ「復古」というべき方法でした。
これには地役人たちも従うしかありません。
また、私生活面でも質素を徹底しました。
まずはふだんの食事を担当する役人に書付を渡し、
「食事は倹素にして、朝は塩抜き、昼は香の物(漬物)か味噌の類一品、夜食は何でも一菜、もっとも汁があれば菜は無用。
ただし二度は麦飯たるべく、三度共に(飯を)炊き候こと相成らず」
と申し渡しました。
また島民の実情を把握するために、金山だけでなく島内のあちこちを巡視し、じつに79ヶ村を訪れたとされています。
その際は旧例にしたがって多くの従者を連れざるをえなかったのですが、各村に「特別な接遇は無用、食事は粗食で」と厳命し、従者たちには相当の食事をさせても、自分は『焼飯(焼きおにぎり?)と味噌』のみという徹底ぶりでした。
また、村役人などが贈り物を差し出しても、受け取ることは一切させませんでした。
このため、川路の巡検で各村が負担した費用は、歴代奉行の3分の1で済んだそうです。
そうして奉行所にいるときは、明け方に鎗か居合の稽古、朝食後少し読書をして奉行所に出勤、退出後は宿舎でひたすら読書という生活でした。
奉行のこんなストイックな態度をみていれば、役人たちも日ごろの生活を恥じて、仕事の進め方や勤務態度を変えざるを得ません。
川路がわずか1年在任するあいだに、佐渡奉行所の風紀は一変したそうです。
新任支店長の心得
川路の話を書いていて思い出したことがひとつありました。
サラリーマン時代に、ある都市銀行の人事部長OBから聞いた話です。
その方が人事部長だったとき、新しく支店長に昇格した行員の研修でこんな話をしていたそうです。
「支店長という一国一城の主になったら、やりたいことは色々あるでしょう。
しかし、赴任して最初の3ヶ月はいっさい新しい指示は出さないようにしなさい。
ただ、これはおかしいと思ったことをすべてメモしておくのです。
バカなやり方をしていると思っても、何か理由があってそうしているのかも知れない。
まずはそれを調べて、それでもおかしいと思ったら対策を考えておく。
そうして3ヶ月が過ぎてから、理由を説明して指示を出すようにすれば、部下も納得します。
はやる気持ちを抑えて、まずはよく観察してください」
川路が佐渡で行なったのは、まさにこれと同じでした。
江戸時代ですから新任奉行研修などあるはずがないので、これは川路が自分でつかんだやり方でしょう。
御家人という下級武士の出身でありながら、勘定奉行にまで登りつめる人物はやはりちがいますね。
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