失政をごまかそうとする人々
参議院選挙が近いのに支持率が低下し続けている与党から「現金給付を」「いや商品券配布で」「クーポン付与がいい」などの声があがっていましたが、「バラマキ批判を受けるだけで逆効果だ」とのことで結局やめたようです。
自公政治に対する国民の不満がどんどん高まっており、このままでは7月の参院選が危ないということに気づいて、お金を配って人気を回復しようと考えたのでしょう。
要は国民の目をそらすための「ごまかし」です。
歴史をたどると、幕末の薩摩藩でも同じようなごまかしを行ったことがありました。
お遊羅騒動と士踊(さむらいおどり)
発端は嘉永2年(1849)の暮れにはじまった御家騒動、俗にいう「お遊羅騒動」です。
これは島津斉彬の父斉興がいつまでたっても藩主の座からおりないので、さては弟の久光を藩主にしようとしているのではないかと疑った斉彬派の藩士たちが、久光の母お遊羅と家老を暗殺しようと計画して発覚、首謀者とされた近藤隆左衛門や高崎五郎右衛門ら7名は切腹、その他遠島などで計50名の藩士が処罰された大事件でした。
久光の藩主擁立やお遊羅の画策というのは斉彬派藩士の誤解だったのですが、この過酷な処罰に藩内は大騒ぎとなります。
そこで考えられたのが、人々の関心をそらすためのイベントです。
斉彬公史料の中にそれを記したものがありました、士踊と関狩を復活させる布告に注のように書き加えられた部分です。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています。原文はこちらの149頁以下)
士踊再興せられたるは、大いに所以あることにして、概言するに、去る酉の冬(嘉永2年12月)山田・高崎・近藤等を巨魁とし、数多の有志者死流(死罪・流罪)或いは軽重処刑せられ、
その際物議恟々(きょうきょう:おそれさわぐ)、人心危惧、百方鎮撫の策を施すに当り、海老原壮之丞なる者建言するに、
「士踊を再興し、人心を踊拍子に狂わしめ瞞着(まんちゃく:事実をおおいかくしてだます)せんには、当時武備拡張の名を借り施行せん」と。
島津(家老島津将曹)等これを賛し上言するに、当時海防必要なるを以て「士気振作の要ならん」との口実を以て、(藩主斉興の)許可を得たりという。
そもそも重豪公(先々代藩主)中止せられたるを、一般(の人々が)古習の廃絶を歎き再興を希望するが故、海老原はその人情を察し、愚弄瞞着の策を献じたるものなりと。
然るに果たして老幼となく復旧を喜び、昼夜踊拍子に浮かれ、時事を談ずるを忘れたり。
是に反して真に憂国の士はその奸謀を探知し益々憤慨、人心の浮薄を歎くもの少なからず。
是れ当時の実況なりき。
【「一四〇 斉興公御城下士踊ヲ再興シ玉フ」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』】
お遊羅騒動は家老の島津(本姓は碇山)将曹が中心となって斉彬派の藩士を処罰した、御家騒動です。
西郷隆盛が心服していた赤山靭負(ゆきえ)もこの時に切腹させられており、赤山を介錯した父吉兵衛が持ち帰った血染めの着衣を抱きしめて、隆盛が終夜泣き明かした話は有名です。
また大久保利通の父次右衛門は喜界島に流され、息子利通も失職させられています。
まさに藩内をゆるがす大事件だったことから、家老派は批判が自分たちに向かうことを恐れ、人々の関心をお遊羅騒動以外のものに向けさせようとしました。
それで選ばれたのが士踊の復興です。
提案者の海老原は碇山将曹の先輩家老だった調所笑左衛門の腹心で、家老派です。
この作戦は当りました。
士踊は戦国時代に島津義弘が武士の訓練のために始めたといわれる伝統行事です。
重豪のときにこれを禁止したのは、いつまでも戦国の気風を引きずって粗野なままの薩摩武士を文化人に変えようとしたためです。
しかし、長年続けてきた士踊への愛着は根強いものがありました。
そこで、「海防を強化するには士気を振るわせることが大切で、そのために軍事訓練につながる士踊を復活させましょう」と提案して、藩主斉興の承認を得ました。
伝統の士踊が復活するというので、人々の関心はすっかりそちらに移ってしまいます。
藩士たちはお遊羅騒動の処罰問題などそっちのけにして、昼夜踊の練習にあけくれました。
現代のイメージでは、地区対抗のよさこいソーラン踊り大会が開催されるというので、政治批判など忘れて各地区が踊りの練習に没頭しているようなものです。
仙巌園で行われた士踊(ブログ主撮影)
斉彬は士踊を廃止させた
世間がお遊羅騒動という大事件をそっちのけにして、士踊に熱狂しているのを苦々しく思う人もいました。
その代表が西郷隆盛です。
先ほど引用した『斉彬公史料』の続きにはこう書かれています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
当時貴賎老幼稍々(しょうしょう)狂したるのみならず、御覧の当時は男女こぞって見物に出ざるはなかりしに、西郷はその時分郡方の筆吏たりしが、数百人の同僚中只一人出勤したりという。
これを以て当時の人情形勢推して知るべきなり。
薩摩の人々は老いも若きも士踊に熱狂し、藩主斉興が観覧する日には男女こぞって見物に押しかけました。
そのような状況でしたが西郷は敬愛する赤山を失った悲しみを忘れず、同僚たち全員が士踊見物に出かけて空っぽになった職場に一人だけ出勤して、仕事を続けていました。
このように軽薄な風潮にとどめを刺したのが、斉興の次に藩主となった斉彬です。
市来四郎はその自叙伝の中で、友人久木山泰蔵から聞いた話としてこう書いています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています。原文はこちらの1013頁)
斉彬公御在世中、士踊は御覧あらせられず。
かつて藩老より士踊の催しを申立てたるときに、公の曰く
「士の踊とは何事ぞ。古はともあれ今は調練の道も開けたる時代なり、踊に託して軍陣の下馴らしをなすに及ばず。
いわんやその事、浮華淫靡聞くに堪えざるをや」
との事よりして、御相続後先規の興行をやめられたり。
【「市来四郎君自叙伝十四」『鹿児島県史料 忠義公史料七』】
江戸時代は大名が軍事訓練を行ったりすれば幕府への謀反を企てていると疑われたので、踊り(=小規模戦闘訓練)や関狩り(=部隊展開・連携訓練)の形を取るしかありませんでしたが、外国艦隊の脅威がせまる幕末においてはそうも言っておられず、幕府も大名の軍事訓練を認めていました。
斉彬はごまかしが嫌いですから、訓練に名を借りた踊りなどもってのほかだと言って家老の提案を却下し、父斉興が復興した士踊を再び廃止してしまいました。
一方で調練すなわち歩兵や砲兵などの軍事訓練は徹底して行っています。
その成果が出たのが、斉彬が亡くなって5年後におきた薩英戦争でした。
斉彬の準備が生きた薩英戦争
生麦事件の賠償金を取り立てるために、最新兵器のアームストロング砲を装備した英国の軍艦7隻が錦江湾に到来して、薩摩砲台との砲撃戦になりました。
アームストロング砲が実戦で使用されたのは薩英戦争が世界初です。
遠くから飛来して着弾と同時に爆発する砲弾のすさまじい破壊力を見せつけられても、薩摩兵はひるまず頑強に抵抗し続けます。
斉彬が配備していた砲台からの激しい攻撃をうけたイギリス艦隊は旗艦の艦長と副長が戦死、けっきょく上陸をあきらめて撤退しました。
薩摩もすべての砲台が破壊された上に町も一部焼かれましたが、死傷者はイギリス軍の方が多く、戦争直後は「薩摩が勝った」と日本中が沸き立ちました。
町が全焼しなかったのは、斉彬が下町の海岸に防護壁となる高い土塁を築いて海上から町を見えなくしていたためで、この地域は被害をまぬがれています。
この戦いでイギリスは「中国人はこちらが攻撃すれば逃げるが、日本人は向かってくる」と驚き、日本と戦争することの困難さを痛感します。
その後の和平交渉が円滑に進んだのはお互いの実力を理解したからで、斉彬の周到な準備が実をむすんだと言えましょう。
島津斉彬ほどの人物を現代の日本に求めるのは不可能ですが、せめてごまかしをしない人をリーダーに選びたいものです。
政治家の秘訣は、ほかにはないのだよ。
ただ正心誠意の四字しかないよ。
道に依って起(た)ち、道に依って坐(ざ)すれば、
草莽の野民でも、これに服従しないものはない筈だよ。
【江藤淳・松浦玲編『勝海舟 氷川清話』講談社学術文庫】
7月の参議院選挙には必ず投票に行きましょう。
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