国絵図から見える薩摩の科学技術力

国絵図

 前回登場した伊能忠敬ですが、じつは第二の人生をはじめたときの目的は地図作成ではありませんでした。

彼は49歳まで商売に精を出して財をなしたのち、息子に家業を任せ、自分は江戸に出て念願の天文学を学ぶために幕府天文方の高橋至時に師事します。

天文学を学ぶうちに地球の大きさに関心をもった伊能は、緯度1度の長さを測ることで地球の大きさを知ろうとして蝦夷地までの観測の旅を計画しますが、当時は蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、その名目として蝦夷地の地図作成を願い出ました。

伊能が旅の報告書として幕府に出した蝦夷地地図の出来が良かったことから、幕府から東日本の測量を命じられるとともに名字帯刀を許されています。

あらたに作成した地図もすばらしかったので、ついに将軍家斉の上覧という栄誉に浴し、幕臣に取り立てられて、とうとう日本全国の地図を作ることになったという次第です。

はじめは口実だったものが、才能があったために本業となり、歴史に名を残す偉人が生まれました。

とすれば伊能の蝦夷地地図を見て、その才能を見抜いた幕臣も名伯楽だったといえますが、こちらの名は伝わっていません。

ところで、幕府が地図製作を命じた先は伊能だけではありませんでした。

慶長8年(1603)に徳川幕府をひらいた家康は、日本全国を統率するため、翌慶長9年に諸国の大名に対し領国(薩摩・越前のような国単位)の地図と地域の石高などを記した土地の台帳を作成して提出するよう命じています。

これに応じて各大名が作成し幕府に提出した地図を「国絵図」、台帳を「郷帳」といいます。

江戸時代には慶長・正保・元禄・天保の4回にわたって全国規模の「国絵図」・「郷帳」の作成が行われました。

国絵図はそれぞれ作られた当時の年号をつけて呼ばれています、たとえば天保年間に作られた国絵図なら「天保国絵図」です。

幕府に提出する地図ですから不正確なものは許されず、作成する諸大名もこれによって自分の領土が法的に確定するので、必死になって国絵図の作成にあたりました。

つまり、国絵図を見ればその大名(藩)の地図作成能力(=科学技術力)がわかるということです。


天保国絵図

最後に作られた「天保国絵図」は天保6年(1835)に作成が命じられ、同9年(1838)に完成しました。

前述したように各藩が総力をあげて作成し、幕府に提出したものです。

現在は国の重要文化財に指定されて国立公文書館が保管していますが、画像はインターネットで公開されているので、簡単に見ることができます。

たとえば、下の図1左は天保国絵図のうち、去年震災におそわれた能登半島(能登の国)の地図です。

能登は加賀・越中とともに、加賀百万石といわれた前田家の領地でした。

つまり、この地図は最大の石高を有する大名の前田家が、藩の総力をあげて作成したはずです。

図1の右は国土地理院がインターネット上で提供している地図を、半島の形状が見やすくなるように加工したものです。

両者を見くらべてみるとかなり形状が異なっていますが、これが加賀藩前田家の科学技術レベルと見てよいでしょう。

図1 能登半島(左:国立公文書館デジタルアーカイブの天保国絵図、右:国土地理院地図)


では、薩摩藩島津家はどうだったでしょうか?

薩摩半島を対比させたものを図2で示しました。

先ほどと同様に、左が薩摩藩作成の天保国絵図、右が地理院地図です。

加賀藩作成のものと比べ、かなり正確に描かれています。

国絵図は各藩が作成しましたが、正確さという点では薩摩藩のものがピカイチだそうです。

島津家の博物館である尚古集成館の松尾千歳前館長は、「薩摩藩が提出した国絵図は非常に正確で、元禄15年(1702)に薩摩藩が提出した薩摩・大隅国絵図は伊能図と遜色がないほどの精度である」と語っています。(『伊能忠敬没後 200 年・測量の日記念講演会「薩摩と伊能忠敬」』)

図2 薩摩半島(左:国立公文書館デジタルアーカイブの天保国絵図、右:国土地理院地図)


薩摩の土木技術力

土木工事は設計(計算、図面作成)と、施工(工事)から成り立ちます。

国絵図でわかるように薩摩藩にはすぐれた測量技術がありましたが、それだけでなく施工においても高い技量をもっていました。

その一例が世界遺産に登録されている「関吉の疎水溝」です。

これは集成館事業の動力として使われた水車に水を供給するための水路ですが、もともとは集成館に隣接する島津家別邸「仙巌園」に水を送ることを目的として造られました。

そもそもは江戸時代初期に造られた農業用水路です。

1722年に島津家21代当主吉高がそれを仙巌園まで延長し、28代斉彬が集成館工場用に「落とし」と呼ばれる引込口を設けました。

驚くのはその高低差で、関吉の取水口から「落とし」までの距離5,970mに対し、この間の高低差はわずか8mしかありません。

100mあたりの高低差13.4cm、傾斜角にすると0.077度です。

安定した水量を供給するために水がゆっくり流れるよう、6kmの距離がほぼ水平に造られています。

しかも途中にはかなりの長さの暗渠(トンネル)が含まれているという、まさに驚異の土木技術です。

私が前出の松尾前館長から直接聞いた話では、「薩摩の土木技術は中国から伝わった可能性が高い、清が明を亡ぼしたとき(1644年)に大陸から薩摩に逃げてきた明の技術者が教えたのではないか」とのことでした。

薩摩は古くから中国貿易の拠点であり、中国人が住んでいたと思われる「唐」のつく地名が各所に残っていますから、明人が薩摩の知人をたよって逃げてくるのは十分にありうる話です。

また、幕府が薩摩藩の弱体化を図って押し付けたとされている「宝暦治水(木曽川の治水工事)」についても、松尾前館長は「幕府が薩摩を困らせようしたのではなく、あれほどの難工事を行えるのが薩摩藩しかなかったからだ」と語っていました。

幕府が木曽川の治水工事を命じたのは宝暦3年(1753)ですが、その24年前の享保14年(1729)に将軍吉宗の娘(養女)竹姫が島津家に嫁いでおり、安永元年(1772)に亡くなっています。

のちの話になりますが、寛政元年(1789)に11代将軍家斉の御台所として島津家から茂姫を迎えるときに「前例がない」と反対する声が上がりましたが、「この婚姻は竹姫様が望んだものである」ということで決着しています。

幕閣や大奥にそれほどの影響力があった竹姫(ときの将軍家重の姉)がまだ存命中だというのに、幕府が薩摩藩を困らせようとするかは疑問です。

国絵図や関吉の疎水溝から考えても、私は松尾説が正しいと思っています。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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