大名は画力も必要

大名の宴会では「ライブペインティング」が人気

 以前「能は大名のたしなみ」のところで、「大名の素養として茶道や和歌はとうぜんですが、欠かせないものが『能』です」と述べました。

じつは、それ以外にも必要なたしなみがあります。

それは「絵が描けること」です。

前回紹介した、富山市埋蔵文化財センターのホームページ「大名の交際」で、富山前田家の12代藩主利聲(としかた:在位1854~1859)が同じ殿席の大名たちを招いて宴会をするときに、宴席に「幕府の御用絵師の狩野勝川院雅信と町絵師の春木南溟を同席させて即興で絵を描かせました」というエピソードが紹介されていました。

柳の間の同僚は石高の少ない大名なので、この機会に娘の嫁入り道具にする絵を御用絵師にタダで描いてもらおうと厚かましい注文をしていたが、大大名の集まる大広間メンバーの宴会では、狩野勝川院が半分ほど描いたところで大名たちがかわるがわる筆をとって松や鶴を書き加えたとあります。

ということは、宴席に集まった大名たちは(腕前は別として)狩野派の絵師と同じような絵を描くことができたわけです。

宴会に本職の絵師を呼び参加者の注文に応じて即席に絵を描かせることは「席画(せきが)」といって、江戸時代から明治にかけて上流階級の宴席でこのまれたアトラクションでした。

現代風にいうと「ライブペインティング」ですね。

8代将軍吉宗の逸話集『有徳院殿御実紀附録 巻十六』に、「今諸大名参会の折、画工を招き、席上にてあまたかかしむるを、主賓の楽(し)みとする事となりぬ」と書かれていますから、江戸中期には大名が宴会をするときに絵師を呼んで席画を楽しむのが流行し、それが前田利聲が藩主となった幕末まで続いていたものと思われます。


画壇のトップは「御用絵師」

富山前田家が席画に呼んだのは、「御用絵師」と「町絵師」でした。

身分制度のきびしかった江戸時代において、幕府の御用絵師というのは絵師の最高ランクです。

御用絵師には狩野派と土佐派の2流派があり、狩野派が大多数を占めていました(狩野派16家、土佐派2家)。

そして御用絵師の最高位にあたる奥絵師は、狩野派の4家(木挽町家、鍛冶橋家、中橋家、浜町家:いずれも狩野姓なので屋敷の所在地で呼ばれる。「岡山のおじさん」のようなもの)の指定席となっており、江戸時代の絵画は狩野派が最高権威とされていたのです。

島津家でも2代藩主(19代当主)光久が、狩野派の絵師米村祐以(よねむら ゆうい)を薩摩藩の御用絵師に任命して以来、狩野派の絵師が薩摩画壇の中心的な存在になりました。

これは薩摩藩にかぎった話ではなく、他の多くの藩でも狩野派の絵師が藩の御用絵師になっています。

ついでにいうと町絵師というのは幕府や藩にやとわれた御用絵師以外の絵師で、代表的なのは歌麿のような浮世絵師です。

御用絵師と町絵師の両方を呼んだのは、画風の違いを楽しむためかと思われます。


御用絵師に絵を習う

大名の宴席には席画がつきものだったので、大名自身もいつ絵を描かされるかわかりません。

そのため各藩の世子たちは藩の御用絵師から絵の手ほどきを受けていたはずです。

じっさい、島津斉彬も狩野派の絵を上手に描いています。

島津斉彬筆『鷹之図』(部分)ブログ主蔵(尚古集成館寄託)


高市首相と同じ政治オタクだったため意味のない宴席は断っていた斉彬ですが、つきあいに必要なスキルはしっかりと身につけていたようで、なかなかの画力です。

なお、島津家別邸の仙巌園(鹿児島市)にある「御殿」では斉彬筆の鷹図屏風(レプリカ)が常設展示されていますから、斉彬の画力を間近に見ることができます。

つきあいのために絵を学ぶ‥‥、現代の企業経営者がゴルフを練習するようなものでしょうか。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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