大名の交際相手は同格の大名
家格は見ただけでわかる
これまでの2回で、「大名のランクは『家格』で決まり、ランクをしめすものは『殿席』である」という説明をしてきました。
大名の反乱を何よりも恐れた徳川幕府は、大名の関心を武備の強化ではなく家格の上昇に向けさせようと、家格のランクに応じたさまざまなしきたりを定めています。
前々回でも紹介した大名行列を例にとると、行列の人数はもちろん、中間(ちゅうげん)がかつぐ挟箱の数や描かれる家紋の色・行列中の位置、槍の数と位置などさまざまなきまりが定められています。
たとえば島津家は「金紋先箱」といって、蓋の左右に金色で丸十紋を描いた挟箱を担いだ中間が2名、徒(かち:徒歩の武士団)の先を歩きます。
また槍は徒の先に2本・乗物(藩主の乗る駕籠)の後に1本立てられていますが、この3本槍は最高ランクの大名だけに許されました(別格の御三家は槍が乗物の前後に2本ずつ)。
さらに江戸城の行事に参列するときの服装も、官位に応じてデザイン・色・材質など細かくわけられていました。
要するに「外見で家格がわかる」ようにされていたのです。
『徳川盛世録』より「四品以上年始出仕の図」(岡崎市立中央図書館蔵)
これは大名の自宅、大名屋敷(江戸藩邸)でもそうでした。
家格によって門構えもはっきりと区別されています。
下の図で、右は「国主」つまり一国を有する大大名の、左はランクが下位の大名屋敷の表門です。
門として独立するか、長屋塀の中に含まれてしまうか、大きさもちがいますが、見た目の印象がかなりちがってきます。
『徳川盛世録』より「表門」(岡崎市立中央図書館蔵)
交際は同殿席のみ
このように大名間で格差がもうけられていたことから、大名が交際するのは自分と同じレベル、言いかえれば同じ殿席の大名に限られていました。
わかりやすい例として、加賀百万石前田家の分家である富山藩前田家をあげてみます。
富山藩は10万石で、藩主の官位は従五位下からスタートして、1~2年つとめると従四位下に昇進しました。
ここで問題になるのが殿席です。
島津家の場合は従四位下からスタートするため当初から大広間席ですが、大広間は四位以上の大名でないと入れないので、富山前田家のように五位スタートだと、藩主就任当初は小大名たちが詰める柳の間になるからです。
そこで、いったんは柳の間の大名たちと付き合って、1~2年後に昇任したら大広間の大名との交際がはじまるということになります。
そのようすについて、富山市埋蔵文化財センターのホームページ「江戸富山藩邸」に「大名の交際」という面白い記事がありました。
具体的な話は記事の方を読んでいただくとして、柳の間の大名と大広間の大名では「同じ大名でも家格の違いによってこうも違う」のかというくらい差があったとのことです。
ついでにいうと、同じ殿席としか交際しないというのは藩主の代理人である留守居役も同様でした。
旧佐倉藩士の依田百川(よだ ひゃくせん)に徳川時代のようすをインタビューした記者が、このように書いています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)
帝鑑の間、溜の間、雁の間と、諸侯の詰席の違うとともに留守居役の慣習を異にし、禄高の多きだけその交際ぶりも閑雅に進むと思うべし。
百川翁の旧主堀田侯は帝鑑の間なれば、国主に次ぎて家柄よく、従って留守居役も上品なり。
【「御留守居交際」『旧幕府』第1巻第4号】
佐倉堀田家は11万石の譜代大名なので、殿席は譜代の上席である帝鑑の間でした。
依田は記者に「禄高が多いほど交際は上品になる」「帝鑑の間は国主が詰める大広間の次のランクなので、留守居役も上品だ」と語っています。
大広間の大名は上品か?
では上品だと言われた大広間の大名たちの実態はどうだったでしょうか。
斉彬の大叔父で福岡藩主の黒田長溥(ながひろ)が、斉彬の側近だった江夏(こうか)十郎に語った話をご紹介します。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、句読点をおぎなっています。原本はこちらの326頁)
大広間などの付き合いと云うは、誠に無暗(むやみ)の人のみ。
乱暴人やら愚昧人やらの集まり所なるに、薩摩守(斉彬)が登城すると、是迄がやがやと云いたるに、ちょいと鳴(なり)を止(やめ)んと云うようにて、誠にきまりがよく付いたものの様にありたり。
不思議に徳望のある生れ付きの人なり。
【「二四八 参考江夏干城記事抄」 鹿児島県史料 斉彬公史料第三巻】
大大名ばかりなので上品な雰囲気だろうと思うのですが、実際はそうではありませんでした。
おなじ大広間を殿席としていた黒田の証言では、乱暴者やおろか者といった分別のない人間ばかりだったそうです 。
以前「斉彬と鍋島直正(1/6)」の中で、親戚の井伊直弼から大広間の大名の評価をきかれた鍋島直正(閑叟)が斉彬を除く大名たちを、「あいつは出来が悪い、そいつはダメだ」と片端から酷評した話を紹介しましたが、黒田の見方も同じでした。
しかし、斉彬が登城すると大広間の雰囲気がかわります。
レベルの低い人たちが集まってガヤガヤ騒がしかった大広間も斉彬が来るだけで静かになりました。
黒田長溥は斉彬の人徳だと語っていますが、なんとなくわかる気がします。
凜としたたたずまいの斉彬の前では、騒いでいるのが恥ずかしかったのでしょう。
しかし、この大広間が上品にみえる柳の間(外様)雁・菊の間(譜代)はどんなようすだったのか、少し気になりますね。
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