能は大名のたしなみ
武士の素養
江戸時代中期の兵法家大道寺友山の著作『武道初心集』は、泰平の時代における武士道の規範としてひろく読まれた書物です。
その中の「教育」という項目では、
武士は、農、工、商の上位に立って、ものごとを執り行う職分にあるから、学問を修め、広くものごとの道理をわきまえておかねばならない。
(中略)
泰平の時代に生まれあわせた武士にしろ、武術を鍛錬する心がけが粗略であってよいとはいわぬが、現在、乱世の武士のごとく、十五、六歳ともなれば、必ず初陣せねばならぬ時代ではないのであるから、十歳余の年齢に達すれば、『四書※1』『五経※2』『七書※3』などを読ませ、習字もさせて、ものが書けるように注意して教育し、さて十五、六歳ともなって次第に体力がつき、壮健となるにしたがい、弓術、馬術など多くの武術を鍛錬させるのが、治世における武士が子弟を育成する正しい道であろう。
【大道寺友山原著 加来耕三訳『武道初心集』教育社新書<原本現代訳>】
※1 大学・中庸・論語・孟子
※2 易経・詩経・書経・春秋・礼記
※3 孫子・呉子・司馬法・尉繚子・六韜・三略・李衛公問対
と書かれています。
つまり武術だけでなく、漢籍と書道を修めておくことは武士の最低限の素養でした。
一般的にはそれにくわえて和歌や俳諧、あるいは漢詩など文芸的な知識も必要になりますし、上級武士になれば茶道もとうぜんたしなんでおく必要がありました。
では、最上級の武士である大名はどうだったでしょうか。
大名は「能」が必修
大名の素養として茶道や和歌はとうぜんですが、欠かせないものが「能」です。
これは鑑賞するだけでなく、舞や謡もこなさねばなりません。
江戸城では婚礼や世子誕生などめでたいことがあると能が催され、大名はそれに列席しました。
さらに正月二日に大広間で催される御謡初や、将軍が中奥の能舞台で不定期に催す能もありました。
中奥では将軍みずからが大名相手に舞うこともあったので、大名にとって能は交際に欠かせない必修科目だったのです。
揚州周延「千代田の大奥 御能楽屋(部分)」(国立国会図書館デジタルコレクション)
大名同士の付き合いは大事ですから、島津斉彬もとうぜん能や謡はひととおり心得ていました。
斉彬が14歳の文政5年(1822)6月14日、芝の薩摩藩邸を訪れた一橋治済(婚約者英姫の祖父)の前で能の「芦刈」を舞ったという記録があります。【『鹿児島県史料 斉彬公史料一』13頁】
斉彬は親孝行のために能を稽古
とはいえ、遊び事を嫌う斉彬は、元来能や謡を好まず、「世の風習だから、お稽古されたほうがいいですよ」と勧める者があっても頓着せず、ひたすら文武の修業にうちこんでいました。
いっぽう父親の斉興は斉彬とは正反対に能が大好きで、月に1、2回はかならず能の会を催していたそうです。
あるとき斉興が能の会を催すにあたって、自分をはじめ近習や身内にも舞や謡の役を割り当てました。
斉彬には斉興の相手をつとめるように申し渡されたので、親孝行のためにしかたなく能の稽古をはじめましたが、冷静な上に頭の回転がはやいので、たいした苦労もせず無事に斉興の相手をつとめました。
斉興が満足したようすを見て、心ある家臣は斉彬が孝行心から好きでもない遊芸を稽古したことに感心してほめたたえたとあります。【「三八 能謡ノ類御好ナカリシ事実」前掲書38頁】
このエピソードは斉彬が20歳のころの話とされています。
さきに述べたように14歳の時に芦刈を舞ったという記録がありますから、能の初心者ではなかったと思われますが、必要に迫られないと稽古はしなかったのでしょう。
前述の「能謡ノ類御好ナカリシ事実」には、最後に
「華侈遊佚(しゃしゆういつ:ぜいたくな生活やあそび)のことは御好みなく、何ぞの事に付いて御規式に係れる能楽御覧の節も、暫時御出座程なく曳入らせたまいしとぞ」
とあり、出席せねばならない能の会があっても少し顔を出すだけですぐに退席していたようです。
出なくてもよい能の会は欠席
じっさい斉彬は能を鑑賞するのは時間のムダだと思っていたようで、斉彬の伝記を書いた芳即正元尚古集成館館長がつぎのようなエピソードを紹介しています。
斉彬はこの文化文政ごろ世間でさかんに行なわれた能や謡の類は、あまり好きではなかった。
これも山口(不及:斉彬につかえた茶道坊主)の話。
文政十二年七月初めごろ登城のおり、久留米藩主の有馬頼徳(よりのり)が「近日二、三人招待するのであなたもどうぞ」と誘ったら、
「差しつかえないから参ります」と言いつつ、「取り持ちなどといって能などされるのならおことわりします。左様お聞きおき下さい」と言う。
ところが同席の大名たちが「兵庫頭(ひょうごのかみ=斉彬)殿にはすげもないことを言われる、玄番頭(げんばのかみ=頼徳)殿にはせんだって何も楽しみがないので、家中の者に能でもさせようと言っておられた」、と話した。
ではというので、斉彬は出席をことわった。
頼徳夫人と斉彬夫人は姉妹で、島津斉宣(斉彬の祖父)の娘が頼徳の子頼永(よりとう)と婚約中の姻戚関係という気安さもあったろう。
【芳即正『島津斉彬』吉川弘文館人物叢書】
斉彬は親戚の有馬頼徳に招待されたとき、「予定が空いているから参加するが、能を見て楽しむような会ならお断りする、そのつもりで」と答えました。
そのときに同席していた大名たちから「そのようにすげないことを言われるな、有馬殿は楽しみがないので家臣に能でもさせようと言っておられた」と聞かされて、いったんは承諾した出席をことわっています。
斉彬にすれば、他の大名と情報交換をする場であれば出席する価値があるが、能を見るだけなら時間がもったいないという気持ちだったのでしょう。
いかにも仕事人間の斉彬らしいエピソードです。
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