勤労者の負担は江戸時代の農民以上
消費税減税
今日は衆議院選挙の投票日でした。
今回の選挙で興味深かったのは、ほとんどの党が「消費税減税」を公約にしていることです。
自民党は岸田・石破内閣時代には「消費税は絶対に下げない」といきまいていたのに、高市内閣に代わると「食料品の消費税を2年間ゼロにする」と言いはじめました。
期間限定とはいえ、これまでの内閣では考えられない変化です。
ものすご~く善意に考えると、その根底には所得が上がらないのに食料品の物価が上がって国民が苦しむ一方で、国の税収は過去最高を更新し続けていることから、取り過ぎた税金の一部を国民に返そうという気持ちがあるのでしょう。
ところで、5%だった消費税を8%、さらに10%と2段階で上げることを決めたのは、民主党の野田内閣でした。
その野田氏は、10%に上げた張本人であるにもかかわらず、なぜか現在は「食料品の消費税を恒久的にゼロにする」ことを公約にかかげています。
ご本人が何も語らないため、考えを180度変えた理由はわかりません。
いずれにせよ、ほとんどの政党が公約にかかげているので、この先食料品の消費税が減税される方向にあることは間違いないのでしょう。
これは財務省の姿勢と真逆の方向です。
というのも財務省はこれまで国民から税金をとることだけに熱心で、日本経済の発展には無頓着でした。
財務省が経済活性化をおきざりにして増税に奔走し、それに負けじと厚労省が社会保険料増額に突き進んだ結果、国民の所得は増えず、税金や社会保険料の負担ばかりが増えつづけました。
それをしめす指標が「国民負担率」です。
国民負担率
国民負担率とは国民の所得(GDP)に対して、税金や社会保険料がどれくらいの割合を占めているかを示す指標です。
ざっくりいうと、国民の所得から所得税・住民税・法人税・消費税などの税金や、健康保険・介護保険・雇用保険・年金などの社会保険料がどれだけ引かれているかという割合です。
財務省の資料によれば、今から50年前の昭和50年(1975)の国民負担率は25.7%でしたが、令和7年(2025)にはこれが46.2%(見込)にまで増加しています。
世界を見渡すと北欧諸国の国民負担率は日本より高いのですが、そのような国では医療・介護だけでなく保育園から大学までの教育費もほぼすべて無償になっています。
ついでにいっておくと、強制的にとられているものでも、電気料金に一方的に乗せられる再エネ賦課金や見なくても取られるNHK受信料などは含まれていませんから、じっさいの国民負担率はもっと高いはずです。
要するに、所得の約半分を国に召し上げられているのです。
江戸時代の農民は「四公六民」といって収穫の4割を年貢にとられたと学びましたが、現代の日本人は「五公五民」です。
さらにいうと、江戸時代の税負担はじつはもっと軽かったのです。
『徳川幕府県治要略』より「年貢米取立之図(部分)」(国立国会図書館デジタルコレクション)
江戸時代の農民は悲惨だったのか?
江戸時代の農民について、高校日本史の教科書にはこのように書かれています。
幕府にとって農民は納税者としてたいせつな存在であった。
税の中心は田畑と屋敷にかけられる本年貢(本途物成:ほんとものなり)であったが、そのほか山林や副業などの収益に課せられる雑税(小物成:こものなり)などがあり、宿駅に近い村々には宿駅で不足のときに人馬をだす助郷役が課せられた。
これらの税は、零細な百姓には重い負担となった。
【五味文彦・鳥海靖編『新もういちど読む山川日本史』山川出版社】
これだけを読むと、個々の農民に重税が課せられていたように思いがちです。
しかし、現実はそうではありませんでした。
というのも江戸時代において、領主は個々の農民を直接に支配したのではなく、農民と領主の間に「ムラ」つまり農業生産者の集合体を介在させていたからです。
江戸時代の年貢は、検地で決められた村高に対して賦課された点に特徴がある。
個々の農民が田畑屋敷地の持高に応じて年貢を負担したが、年貢の納入はすべてムラ単位で、ムラの責任で行なわれ、年貢未納者が出た場合には、ムラが弁納する連帯責任を負っていたのである。
これを年貢村請制という。
(中略)
年貢村請制は農民側からすれば、支配されることをムラという社会組織を通して自ら請け負って、幕藩領主に年貢を上納することになる。
幕藩領主にとっては、このうえなく効率的で、しかも安上がりな徴税方式である。
こうした両者の経済的・社会的関係は、年貢にとどまらず、ムラの生産活動と日常生活の全般にわたっており、江戸時代のムラは村請の論理の下で、自分たちのことは自分たちで処置するという自治的組織の性格を帯びていたのである。
【佐藤常雄・大石慎三郎『貧農史観を見直す』講談社現代新書】
江戸時代の農民は個人ではなく、ムラという自治団体で領主と交渉していました。
団体の一員ですから、ある程度は団体が守ってくれます。
つまり「しいたげられて貧しい個人」としての農民は存在しなかったのです。
江戸時代の年貢は重税ではなかった
独自の歴史観をもつ思想史家の渡辺京二さんは、江戸時代の農民についてこのように語っています。
江戸時代は百姓を絞りあげていたのに、よくも黙っていたものだという印象がありますが、これは武士たちが大幅な自治を許して介入してこなかったからです。
裁判権や徴税権は村の自治組織に任せ、村人同士の諍(いさか)いは村の中で解決され、年貢は村でまとめて納めたので、藩権力は内部に立ち入りませんでした。
意外にも、村の自治を尊重したことが江戸時代に一揆が少なかったひとつの理由です。
もうひとつは、江戸の初めから表高が変更されなかった一方、藩が検地を行って増税することはありましたが、それでも、百姓の生産力が上がると、その余剰が彼らの手元に蓄積されたので、暮らし向きがだんだん良くなっていったことです。
江戸時代には、これが大きな趨勢となっていました。
【渡辺京二『私の幕末維新史』新潮選書】
領主への反抗である一揆が少なかったのは、領主がムラの自治を認めていたことと、生産力の向上で所得が増えた分が手元にのこって農民の暮らしがだんだん良くなっていったからでした。
「表高」というのは、検地によって決められた田畑屋敷地に賦課される本年貢のことです。
これは江戸時代のはじめに定められた石高のまま据え置かれていました。
一方で農業技術の改良により米の単位面積あたり収穫高は増えますし、自治団体ですから米以上に高く売れる作物を栽培して収入を増やすことも可能です。
そうやって農民の収入が増えても、年貢は当初のまま据え置かれていました。
現代のサラリーマンに置きかえると、昇格して月給が増えても所得税額は入社当時のまま据え置かれているというイメージです。
これなら文句は出ませんから、一揆が少なかったというのもよく分かります。
さきほどとりあげた『貧農史観を見直す』によれば、信州のある地域で「田畑の主要な生産物である米・大麦・小麦・大豆・菜種をすべて米穀生産量に評価替えしたものを実際の年間村内生産物量とみなし、年貢米との比率を実質年貢率として算出した」結果、実質年貢率は20%前後だったそうです。
さらに、繭・生糸・綿花などの産物や、農産加工物(酒造業)や農閑稼ぎの賃金収入まで加味すれば、「現実には10%未満の税率になるものと思われる」とのこと。
重い年貢に苦しめられていたはずの江戸時代の農民たちですが、国民負担率は令和の勤労者よりずっと軽かったようです。
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