郷中教育とボーイスカウト
最近は「フェイクニュース」という言葉をよく聞きます。
いわゆる偽情報ですが、新聞・テレビなどのオールドメディアがインターネットを叩くときにもよく使われます。
以前の記事「多文化共生は善か?」で取り上げたアフリカ4国のホームタウン構想では、オールドメディアはいっせいに、「『アフリカからの移民を定住させる制度だ』という誤解に基づく情報が広がった」と伝えました。
このホームタウン制度については、政府やオールドメディアが「誤解だ」として沈静化をはかっていますが、国民の反発は一向におさまる様子がなく、政府発表やマスコミ報道の方が「フェイクニュース」と見られています。
かつては行政機関やオールドメディアが情報をコントロールしていましたが、インターネットの発達で容易に原典を確認できるようになると、ウソやごまかしができなくなってきました。
いたるところに「ファクトチェック」の目が光っているからです。
それで興味半分に、ボーイスカウトは薩摩藩の郷中教育が起源であるという説のファクトチェックをしてみました。
というのも薩摩の教育についての講演を依頼されており、その説明資料をつくる中で、以前から気になっていた「ボーイスカウト郷中教育起源説(勝手に名付けました)」をハッキリさせておこうと思ったからです。
郷中教育とボーイスカウト
昭和47年にでた鹿児島県立図書館編『薩摩の郷中教育』にはこのように書かれています。
郷中教育の教育史的意義は、高く評価されると考えられる。
その理由として、二つの事実を挙げて、その全般的傾向を推察できると思う。
その具体的な事実の一つは、ボーイスカウトと言う少年団活動の成立との因果関係である。
ボーイスカウトは、イギリスの軍人ベーデン・パウエル(Baden-Powel)卿が、1908年(明治四十一年)に、イギリスの少年たちの心身を健全に育成するため、軍隊の斥候訓練(scouting)の方法を導入して創始したと解釈されている。
この解釈が、ボーイスカウトの起源に関する従来の定説のように受け取られる。
しかし、ボーイスカウトの創始については、興味深い伝承を遺している。
その伝承は、ボーイスカウト創始後三年、すなわち明治四十四年(1911)六月のイギリス国王ジョージ五世の戴冠式に、明治天皇・同皇后の御名代として派遣された東伏見宮依仁親王御夫妻に随行された乃木希典陸軍大将が、戴冠式の後、七月一日にロンドンのハイドパーク広場で、ボーイスカウトの訓練を検閲された時のことである。
乃木大将は、ボーイスカウト創始者パウエル卿に対して、「かかる良い制度を如何にして創始されたか」と言う意味のことを問うた。
これに対して、パウエル卿は、「貴国の薩摩における健児の社(郷中教育)の制度を研究し、その美点を斟酌して組織したものである」という趣旨のことを答えたと伝えている。
(上野篤著 健児の社。ちなみに、乃木大将がボーイスカウト訓練検閲の後で、ウード・ロワク大尉の通訳で行った訓辞の全文は、乃木希典日記(昭和四十五年刊)に掲載されている:原注)
この伝承は、薩摩の郷中教育が、世界的に評価された一具体例であったと解釈される。
【北川鐵三著 鹿児島県立図書館編『薩摩の郷中教育』 薩摩の郷中教育頒布委員会 1972年】
乃木希典(国立国会図書館デジタルコレクション)
この「ボーイスカウト郷中教育起源説」は、いまでもときおり目にするのですが、情報をたどっていくと根拠がないことがわかりました。
さきほどの『薩摩の郷中教育』の原注で、出典としてあげているのは上野篤著『健児之社』ですが、そこに書かれているのはこうです。
近年、欧米各国に於て風紀作振上甚だ有益なることと認められて居るところの「ボイスカウト」の操練を故乃木大将が英京倫敦(ロンドン)の郊外に於て参観せられた際に、
「実に結構な組織ではある、如何にして斯る良制度が工夫創始せられしものなるか」
との大将の讃辞に対して創始者たるバウデン・パウエル将軍は
「閣下には御承知なきか、これは貴国薩摩に於ける健児の社制度を研究しその美点を斟酌して組織したるものに外ならず」
と答へたので、大将は自己の無知に赤面しながらも、我国にも他国の模範となるべきもののあるのに内心大に誇を感ぜられたといふことであるから、つまり「ボイ、スカウト」の模範は我健児の社が提供したこととなるのである。
【上野篤著『健児之社』中文館書店 1927年】
乃木将軍とパウエル卿の会話内容は同じですが、『薩摩の郷中教育』では乃木がイギリスを訪問した理由や日付が加えられたことで、信憑性がぐっと増しています。
出典をたどると‥‥
しかし、元ネタである『健児之社』にはこの会話の出典が書かれていません。
さらに原注で触れられている『乃木希典日記』に掲載されている訓辞はこれだけです。
英国少年軍に与へたる訓辞
明治四十四年七月一日、英京ハイド・パーク広場に於て、英国少年軍(北部倫敦)を検閲の当時、ウード・ロワク大尉の通訳にて、同少年軍に与へられた訓辞の草稿である。
私は今日諸子の動作を見て感じたる処を一言陳ぶるの栄を元帥閣下より与へられました。
諸子は総てに於て熱心にして且つ誠実なるは、益々年齢の加ると共に大英国民たる光輝を発揚することを疑はない。
余が幼時教へられたる処を信ずるに、男子は他人の難しとして避る処には好で自ら進で当るべきである。
此目的を達するには体力を鍛へ、智と勇とを練り、仁愛有りて人に信ぜられねばならぬ。
諸子は世人に尊信せらるるの徳を養ふて怠ることなし。
故に成長に随て大英国の光輝を益大に発揚すべきは、余の確信する処である。
終りに諸子の益勇健を祷ります。
【和田政雄 編『乃木希典日記』金園社 1970年】
原注の書き方だと、訓辞の中でボーイスカウトと郷中教育の関連を語ったのではないかと思ってしまいますが、そうではありませんでした。
また、乃木将軍は自身の談話集である『修養訓』の中で、「人格主義の英国教育とボーイスカウト」と題して英国でボーイスカウトの訓練を見て創設者のパウエル中将と挨拶を交わしたときの話を載せていますが、郷中教育云々については一切語っていません。
訓練視察には薩摩出身の東郷(平八郎)大将も同行していたとあるので、もし郷中教育の話が出ていたならかならず言及したはずです。
上野篤氏が何を根拠にして書いたのかは分からないままですが、少なくとも乃木将軍がパウエル卿から直接聞いたという事実はないようです。
「二次情報を信用せず、かならず自分で原典に当って確かめろ」というのは、会社員時代に上司や先輩からきびしく言われたことですが、忙しいとついつい怠ってしまいます。
やはりファクトチェックは大事ですね。
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