郷中教育は斉彬が変えた(前編)
前回取り上げた郷中教育(ごじゅうきょういく)ですが、これは他藩にはない薩摩独特の教育制度で高い評価を受けています。
しかし、その高い評価が島津斉彬の功績だということはあまり知られていません。
薩摩独自の教育システム
江戸時代、武士の教育は一般的には藩校(藩が設立した学校で、幕府公認の朱子学を藩士に教える)と私塾(特定の個人教師が開設したもので教える内容は限定されない、武士だけでなく町人も受講可能)の併存でした。
ただ薩摩藩のみは私塾がなく、藩士たちは藩校の造士館と郷中教育で学びました。
郷中教育の始まりは豊臣秀吉の朝鮮出兵時(文禄元年 1592年)にさかのぼります。
島津義弘が1万の兵を率いて出陣したときに、留守をあずかった新納忠元が青少年の規律維持のために「二才咄格式定目(にせばなしかくしきじょうもく)」というルールを制定し、実践させたことによります。
これは若者(薩摩では二才(にせ)とよばれる)たちに、グループを結成させて、自主的に切磋琢磨しあうようにさせるための基本ルールというべきものでした。
当初は任意の集団でしたが、江戸時代になると住んでいる地域(方限:ほうぎり)の青少年全員が加入して、年長者が年少者を指導するという仕組みに変わりました。
方限のことを郷中とも称したことから、この教育システムを郷中教育といいます。
郷中とは元来は区域をさす言葉ですが、藩政時代には同じ区域すなわち同一方限(ほうぎり)内における青少年の士風錬磨を目的とした団体を意味するようになります。
また、郷中教育に加わるのは下級武士に限られており、上級武士の教育は造士館(朱子学)と演武館(武術)のみでした。
郷中教育の構成員は下の図のようになっています。
郷中教育の構成員
稚児というのは元服前で頭髪に「前髪」が残っている少年、現在の小・中学生に相当します。
年長者が長稚児、年少者を小稚児とよび、稚児内では長稚児が小稚児を指導します。
さらに稚児たちを指導するのが二才という高校・大学生年配にあたる青年たち。
二才というのは薩摩独特の呼称で、もともとは「青二才」の「にさい」(=わかもの)の音が薩摩弁で短縮(ex.さいごう→せご)されて「にせ」になったと思われます。
二才は結婚すれば郷中からはなれて相談役となり、「長老」(おせんし:長衆「おさしゅう」の短縮らしい)とよばれます。
郷中教育の内容
郷中教育の特徴はさだまった教師や教室がないことで、適宜誰かの家か方限内のどこかに集まって、日課をこなしていました。
日課としては、
①座学:和漢書(四書五経・軍記物)の講読、習字
②体育:剣術(薬丸自顕流)、山坂達者(山野を駆け歩く)
が中心ですが、ほかに郷中教育特有のものとして
③詮議(せんぎ)があります。
詮議は通常の詮議と生活詮議があり、生活詮議というのは稚児の生活指導 です。
変わっているのは「通常の詮議」で、言い方は単に「詮議」ですが、内容は禅の「公案」に近いもので、問題を提出されて即座に回答しなければなりません。
たとえば、こんな問題です。
「人、もし故なく汝に汚水を浴びせしときは、汝はいかなる処置をとるべきか?」
「狂人あり、汝の通行を妨げ、悪口・暴言汝に無礼するときは如何?」
「汝もし過ちて、人を殺せしときは如何?」
このような問題を投げかけられて、即座に回答するという訓練です。
回答は定まっておらず、論理的に説明がつけばよいというものでした。
つまり、瞬時に論理的判断ができるようにするという訓練です。
軍記読み・剣術・体力づくり・瞬時の判断とくれば、郷中教育が軍人を養成するための教育システムだということがわかります。
幕末、戊辰戦争における薩摩兵の強さはここにあったといえるでしょう。
郷中教育の問題点
しかし、郷中教育にも大きな欠陥がありました。
それは排他性です。
たとえば、宝暦4年(1754)に制定された郷中教育の掟書の一部を抜粋すると、
小稚児相中掟(こちごあいぢゅうおきて)
一、 吉屋(よしや:軟派)共に打交るまじき事
一、 他所のものと咄(はな)し出まじき事
一、 他所の所に参り候時は用事相済み次第罷り帰るべき事
長稚児相中掟(おせちごあいぢゅうおきて)
一、 前髪有之人は他所(よそ)の二才又は咄外(同方限でも郷中に加わっていない軟派)の二才抔(など)に打交るまじき事
一、 傍輩常々相咄しの儀咄外の人に一向申すまじき事
一、 咄外の二才に用事抔と申され候時はいつにても断り申すべく候 而して早速く咄中二才一人へその訳申し達すべき事
【鹿児島県教育委員会『鹿児島県教育史 上巻』】
とあり、幼少の時から他郷中の人間との交わりを禁じ、方限外へ出かけたときは用事が済み次第すぐ帰るように命じています。
また、年長になってもグループ外の二才との交流はだめで、郷中の話を外に洩してはいけないとか、他郷中などグループ外の二才に用事を申付けられても断って、すぐに同郷中の二才の誰かに報告するようになどと厳しく制限しています。
この結果、同じ薩摩藩士でありながら郷中どうしでいがみ合うという状況になっていました。
鞘止め
江戸時代の武士は、たとえ子供でも外出するときには刀を差していました。
薩摩では小稚児は小脇差1本、長稚児になれば大小2本差しです。
なので、ケンカになっても刃傷沙汰におよばないよう工夫がされていました。
それが「鞘止め」です。
鞘止めというのは、細いひもまたは紙縒(こより)で刀とつばを結びつけ、抜刀できないようにすることです。
細ひもや紙ですから力を入れれば切れて、刀を抜くことはできます。
しかし、抜いてはいけないというルールは厳格に守られていたようです。
抜いてはいけないのですが、抜かずに鞘のままで打ちかかるのは許されていました。
となると、中にはそのルールを悪用する者もあらわれます。
郷中教育の研究者として名高い松本彦三郎は名著『郷中教育の研究』のなかで、こう記しています。
もちろんこれ(鞘止め)は仮の装置であるから抜こうと思えばいつでも抜けるのであるが、父兄の警(いまし)めを守ることを大切にして、抜刀することは極めて稀であった。
いざ本気の喧嘩となると、時にはことさらに鞘を割って置いて、その割れ目から刃の走り出るようにして鞘のまま打ち掛け相手を負傷させる。
これを「鞘走り」という。
「鞘走り」で負傷するのは鞘がいけないので、法網を免れ父兄の警めを破ることにもならないというわけである。
【松本彦三郎『薩摩精神の神髄 郷中教育の研究』尚古集成館 2007年】
西郷隆盛は、11歳のころのケンカで相手に斬りつけられて利き腕にケガをし、腕が完全に伸びなくなったために武術で身を立てることをあきらめました。
11歳といえば長稚児になったばかりの頃ですから、西郷と言えどもまだ分別がなく、ケンカになってしまったのでしょう。
推測ですが、西郷のケガは「鞘走り」で傷つけられたものだと思われます。
このような連中を斉彬はどのようにして変えていったのか?
それは次回に。
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