多文化共生は善か?

アフリカ人移民反対

 8月21日に横浜で開催されたJICA(国際協力機構)アフリカ・ホームタウンサミットにおいて、日本の4市がアフリカ4国のホームタウン(山形県長井市がタンザニア、千葉県木更津市がナイジェリア、新潟県三条市がガーナ、愛媛県今治市がモザンビーク)になると発表されました。

アフリカの「ホームタウン」に長井、木更津、三条、今治の4市 「移住先では」と懸念の声』(2025年8月25日 産経新聞 記事)

その後タンザニア紙「タンザニアタイムズ」が「日本は長井市をタンザニアにささげた」と報道し、英国BBC放送などが木更津で就労するための特別ビザを日本政府が用意するとのナイジェリア当局の声明を伝えると、SNSではいっせいに「アフリカ人移民の受け入れではないか」と反発する声があがりました。

日本政府やJICAが訂正を申し入れたことで「特別ビザ創設」はナイジェリア政府のホームページから削除され、新聞記事も訂正されました。

ナイジェリア「特別ビザ創設」の声明削除 「ホームタウン」問題で日本側の訂正要求受け』(2025年8月27日 産経新聞 記事)

長井市を「捧げる」から「指定する」に記事の見出しを訂正 タンザニアの現地メディア JICA通じ市が申し入れ』(2025年8月28日 山形放送 記事)

しかしSNSでは「日本政府やJICAにだまされないように」との意見が根強く、移民受け入れ反対の世論がおさまる気配はありません。

元外交官でストレートな発言で知られる山上信吾氏(前駐豪大使)は、8月25日のコラムにこう書いています。

先日、大阪での講演後、聴衆の一人だった淑女から質問を受けた。
「山上先生、このままでは日本が日本でなくなってしまうのが本当に心配です」
深刻な問題提起だった。そして、他の多くの場所でも同様の憂国の声に接してきた。
大阪の場合、民泊制度を利用した中国からのインバウンド観光客の増大が背景にあるのは明らかだ。
東京のタワマン、京都の町家、北海道の水源地が次々に買われていく。
観光客で賑わう新幹線に乗れば、日本ならではの清潔と静寂からはおよそかけ離れた世界がくり広げられつつある。
凶悪犯罪のニュースも尽きない。 
ところが、永田町の政治家や霞が関の官僚には、こうした草の根レベルの危機感は届いていない。
むしろ、インバウンドの更なる振興や「共生社会」の実現に向け、彼らは前のめりだ。
【Asagei plus『前駐豪大使・山上信吾が日本外交の舞台裏を抉る!~日本が日本でなくなってしまう危惧~』】

今の日本は国民の危機感が政治家・官僚に届いていないどころではなく、「インバウンドの更なる振興や『共生社会』の実現に向け、彼らは前のめりだ」とあるとおり、政治家と官僚が「日本が日本でなくなってしまう」ように積極的に活動しています。

山上氏はこのあとの文で岸田前首相(とおそらく石破首相も)が「多くの日本国民の間で日増しに膨らむ懸念や危惧に何ら応えることなく、全く逆のベクトル(=多文化共生)のみを気にかけている」とのべていますが、もはや国民(マスコミのいう”市民”ではない、市井の生活者)と政治家・官僚が対立しているという状況です。

ところで、斉彬時代の薩摩藩はその正反対でした。


 鶴丸城古写真(『薩藩の文化』より)


おしのびで民情を視察

前回、斉彬が民情を知るために毎日諸物価を報告させて、変動があれば理由を確かめたうえで対策を指示していたという話をしました。

 さらに、斉彬は部下の報告のうち重要だと思うものについては、自分の目で確認しています。

 側近として仕えた川南盛謙はこのようなエピソードを披露していました。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています) 

 (斉彬は)周密に注意をせられた人で、民間の事情を探らるることにしても、役人に小言などをいうことをせずして、恐れ且つ慎ましめられた逸事がある。
 ちょうど家督をせられて帰国間もなきことで、当時士人が貧乏して夜間町家に出て食を乞うくらいで、町人も士人がそれであるから少し慢心して居るくらいである。 
 (中略) 
 そういう哀れな現状を矯める(ためる:正しく改める)には小言を以て矯めることの出来るものでない。
 (中略)
 何かしてこの境遇を矯めたいという考えで、夜な夜な鹿児島住居御殿の掃除口と称える人足その他の出入する門がござりました、その門から出られたものであろうということでござりますが、出られたということも誰も見た者もない。
 公一代藩庁より重なる達しは自分が筆を執って意見を立てられたものが多い。 
 家老などにて公を助けた者はない、かえって公から助けられて勤めたというくらい。
【寺師宗徳「島津斉彬公逸事附川南盛謙君の事歷『史談会速記録 第149輯』】

藩主に就任した斉彬は、困窮した武士が夜に町人の家を訪ねて食べ物を乞うという悲惨な状況を耳にしました。

「役人に小言などをいうことをせずして」とありますから、「そういうことをさせるな」などと責任者に注意して済ませるのではありません。

斉彬は実態をたしかめるために、毎晩ひそかに城を抜け出して、町の様子を見まわったようです。

抜け出すといっても城主がつかう大手門は閉ざされているため、もっとも身分が低い者がとおる掃除口という門から出入りしていたようですが、目撃者がいないので実際のところはわかりません。

しかし、「斉彬がニンニクを食べたら城下の風儀が改善?」で紹介したように、城では使わないので知るはずのないニンニク調理時のにおいを斉彬が知っていたという話がつたわると、殿様がこっそり城下を見まわっているといううわさが広まりました。

このような下地があったから、川南が「その門から出られたものであろう」と推測したのでしょう。

現代であれば、部下の報告やマスコミの報道をうのみにするのではなく、みずから町に出て生活者の様子を見、生の声を聞くというイメージです。


対策も自分で起案

さらに斉彬が現代の政治家と違うのは役人たちに「なんとかしろ」と対応を丸投げするのではなく、自分の目で実情を確認したうえで対策を自ら立案し、布告(藩庁からの命令書)も自分で書いていたことです。

これは本人の性格もあるのでしょうが、そうせざるをえなかった面もあります。

通常であれば家老に指示すればすむのですが、当時の薩摩藩は川南が言うように家老たちが無能で斉彬をサポートできませんでした。

というのも斉彬は父斉興を隠居に追い込んで藩主となったため、クーデターと思われないように父親が任命した家老たちをそのまま残留させていましたが、皆斉興のイエスマンばかりで使い物にならなかったのです。

明治25年の史談会において、旧薩摩藩士の岩下方平と、同じく旧薩摩藩士で史談会幹事の寺師宗徳との間でこんなやりとりがかわされています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、カギ括弧と句読点をおぎなっています)

(寺師) 世に薩人とか鹿児島人とかもてはやさるる有り難さは、斉彬のおかげである。
アノ人にして基を開かれずばドノ様にあったか知れませぬ、世に名も知られぬくらいであるかも知れぬ。(中略)
ひとつ話がありますが、斉彬世を継がれたる際、何か藩政改革の達し文を用人にしたためさせた時に、「改革」という文字を知らぬ位であったとて、斉彬はそれを非常に嘆息せられたことがあると聞きます。
それから治世八年の間に土台から固められたのであります。
(岩下) 改革ということを知らぬ者はないでもないが、家老などが知らぬので、知る者は用いられぬ。
【岩下方平「慶応三年丁卯十月小御所会議の事実附十一節」『史談会速記録 第5輯』】

用人のレベルが低かったのは、家老が自分たちの出来の悪さをかくすために優秀な人を採用しなかったからだと岩下が語っています。

家老や役人がそんなありさまでは口述筆記もままならず、藩主が自分で布告(達し文)を書かざるをえません。

斉彬は藩主在任8年たらずで急逝しましたが、その間教育に力を注いだので優秀な人材が育って薩摩藩の土台が固まったと寺師はのべています。

話をもどすと、現代日本の官僚は斉彬藩主就任時の役人のような低レベルではないはずですが、上に立つ政治家が「多文化共生」でこり固まっているために、日本人や日本の文化・伝統を大切にしようとする人物は排除されているのではないかとブログ主は疑っています。

「組織はリーダーの力量以上には伸びない」【野村克也『野村監督公式名言集』】という名言がありますが、そのレベルを超越して「リーダーの選択を間違えると国が亡ぶ」という恐ろしさを実感する時代が来るとは思いませんでした。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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