「どうにかなろう」と「なるべく」が国を亡ぼす

困難な課題から逃げる

 「アメリカ・ファースト」の政策をかかげるトランプ大統領が、すべての貿易国に相互関税を課すと発表して以来、世界中がその対応に追われています。

その中で、5月8日にイギリスとの間で貿易の枠組みに合意したとの報道がありました。

4月17日の報道では「関税交渉は日本が最優先で進める」となっていたのに、いつの間にか後回しにされています。

石破首相はトランプ大統領と直接話ができるチャンスだったローマ法王の葬儀参列よりも、都内で開かれたメーデー中央大会への出席を選びました。

国家の指導者が困難な課題から逃げる……、じつは幕末にも同じような話がありました。

文久2年(1862)に起きた生麦事件の責任を問うとして、翌年2月にイギリス政府は幕府に英国人殺傷事件発生の賠償金10万ポンド(26万9066両:現在価値で約270億円)を、薩摩藩に被害者の補償金として2万5千ポンドと犯人の処刑を、それぞれ要求しました。

そうして幕府を威圧するため、ユーリアラス号をはじめとする軍艦12隻を横浜に集めるというデモンストレーションを行ないます。

このとき幕府に突き付けられたイギリス公文書は、5名の洋学者により徹夜で翻訳されましたが、翻訳者のひとりが福沢諭吉でした。

その時の様子が諭吉の自叙伝『福翁自伝』にこう書かれています。

その翻訳をする間に、時のフランスのミニストル・ベクレルという者が、どういう気前だか知らないが、大層な手紙を政府に出して、今度のことについてフランスは全くイギリスと同説だ、いよいよ戦端を開く時には英国と共々に軍艦をもって品川沖をあばれ回ると、乱暴なことを言うて来た。
誠に謂(いわ)れのない話で、丸でその趣きは今の西洋諸国の政府がシナ人を威(おど)すと同じことで、政府はただ英仏人の剣幕を見て心配するばかり。
私にはよくその事情がわかる、わかればわかるほど気味が悪い。
これはいよいよやるに違いないと鑑定して、内の方の政府を見れば何時(いつ)までも説が決しない。
事が喧(やかま)しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこにあるか訳(わ)けがわからず、ただ役人たちが思い思いに小田原評議のグズグズで、いよいよ期日が明後日というような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。
【福沢諭吉著 富田正文校訂『新訂 福翁自伝』岩波文庫】


福沢諭吉(国立国会図書館デジタルコレクション)


英仏におどかされて震え上がった老中たちですが、ここで賠償金を払えば攘夷思想に染まった人々から反発を受けるのは間違いありません。

下手をすると井伊大老のように暗殺される恐れもあります。

かといって払わなければイギリス艦隊が江戸を攻撃するかもしれません、さらにフランス艦隊が攻撃に加わることも考えられます。

にっちもさっちもいかなくなったので、老中たちはみな病気と称して登城しなくなりました。

責任者がいなくなった城中では、権限のない役人たちが無意味な議論をするだけという、まことに情けない状況になっていました。

英国の公文書を受け取ったのが文久3年(1863)2月19日で、当初の回答期日は3月20日でしたが、このように決められない状態が続いていたことから、幕府はイギリスに回答期日の延期を何度も願い出るしかありませんでした。

このとき、将軍家茂は前年からの約束で上洛するため、文書受領前の2月13日に江戸を立っています。

将軍といっても家茂は当時17歳ですから判断をゆだねるのは酷で、将軍を補佐して判断するのが老中の職務なのに、その役割を果たす人物がいませんでした。

このありさまを見ている福沢は、江戸から逃げだすために荷造りをはじめています。

結局この騒動は、延期を重ねていよいよ切羽詰まった5月9日に、老中格の小笠原長行(おがさわら ながみち)が独断で賠償金を支払って決着しました。


「どう(に)かなろう」で幕府はほろんだ

以前にも少しふれたことがありますが、旧幕臣の福地源一郎(桜痴)は「どう(に)かなろう」と考えて「なるべくだけ」しか行動しなかったことが幕府滅亡の原因だと指摘しています。

幕末の賢吏小栗上野介(忠順)は、かつて幕閣を評して曰く、「一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうかなろうと云う一言、これなり。幕府が滅亡したるはこの一言なり」と云いたる事あり。
また岩瀬肥後守(忠震)は、「幕府の評議には『可成丈(なるべくだけ)』の字を厳禁すべし、幕府の失政は実にこの三字に胚胎するぞ」と云いたる事ありき。
この二格言は、余(福地)が親しくその人に聞きたる所なりしが、当時年少未だその意を解すること能わざりしに、今にして顧想すれば、実に然り、幕閣が恃(たの)める所は、「どうかなろう」と云うにありて、その行う所は「可成丈」云々するにありき。
【福地源一郎著 石塚裕道校注『幕府衰亡論』平凡社東洋文庫】


小栗忠順(おぐり ただまさ)というのは2027年放映予定のNHK大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公です。

小栗は幕末に勘定奉行として幕府財政の立て直しをはかり、その後軍艦奉行のときに周囲の反対を押し切って横須賀造船所(当時の名称は横須賀製鉄所)を建設します。

日露戦争が終わったあと連合艦隊司令長官の東郷平八郎が、「小栗がこの造船所を残してくれなかったら、日本海海戦の完璧な勝利はなかった」と語った話は有名です。

金がかかるといって造船所建設に反対する同僚には、「幕府の命運には限りがあるが、日本の命運には限りがない。売家になるにしても土蔵付きの方がよいではないか」と説き伏せたといいます。

幕府の将来を見越したような発言をしたのは、その場しのぎの「どうにかなるだろう」という気分が幕府に蔓延していたからかも知れません。

岩瀬忠震(いわせ ただなり)は外交官としてアメリカ公使ハリスと日米修好通商条約の交渉を行いましたが、的確な指摘でしばしばハリスを答弁につまらせ、岩瀬の意見に従わざるを得なくさせたほどの優秀な人物で、島津斉彬とも親交がありました。

岩瀬は「幕府の評議で『なるべく』という言葉は禁止すべきだ、幕府の失政の原因はここにある」と語ったそうです。

これらの話は福地が本人たちから直接聞いたと言っているので、間違いないでしょう。

福地は、そのときはまだ若くてよく理解できなかったが今にして思えばまさにその通りで、「今振り返ってみると、幕府の指導者たちは『どうにかなるだろう』と考えて、『なるべく』行なう程度ですませていたから幕府が滅亡した」と回想しています。

冒頭に述べたトランプ関税への対応を見ていると、現代日本のリーダーも幕末の老中と同じようなスタンスで行動しているのではないかと疑いたくなります。

現代の国際情勢に鑑みれば、「政党の命運には限りがあるが、日本の命運には限りがない」と言い切れないのがつらいところです。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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