斉彬と勝海舟
勝を見いだしたのは斉彬
あまり知られていませんが、勝海舟がまだ貧乏旗本だったときにその才能にいち早く気づいて支援したのは島津斉彬です。
よく知られている勝の談話集『氷川清話』では、北海道の商人渋田利右エ門が勝の貧乏ぶりを見て、200両の金をポンと差し出しただけでなく、スポンサーとなる友人も紹介してくれた話が書かれているだけで、斉彬の支援には触れられていません。
『氷川清話』のなかで斉彬の名が出るのは人物評論の章に「斉彬公は、えらい人だったヨ。」から始まる短い文章があるのと、時事数十言の章に「薩州はその藩主に斉彬公という明君が出て、」と言及されているだけです。
しかし、勝は別のところでこんなエピソードを披露しています。
明治21年6月に袖ヶ崎島津邸に招かれた勝海舟が、島津忠義が事前に書面で尋ねていた「貴下順聖公(斉彬)と御交際ありしは何時頃のことなりしや」という質問に、次のように答えているのです。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
私はもと微賤の身にして、俸禄四十俵の者にて、なかなか家族をさえ養うに堪えず。
それ故に間々筆耕を業として糊口の助けとなせしことあり。
当時上等の筆耕料は一枚およそ五百文位なりしも、私は拙筆にして、それほどにも参らず僅かに一百文位に過ぎざりき。
然るに順聖公お召し抱えの画師三村晴山、御茶道高橋栄格といえる者あり。
すこぶる御愛顧を受け居りて種々の機密のことなど御用を勤めし由、中々尋常の者にあらず。
同人等かつて私が蘭学を学ぶことを知れり。
もっとも、当時蘭学を学ぶもの少なきより、同人等の口より順聖公へ申し上げたりと覚ゆ。
すなわちある時、右の三村来たりて私に筆耕を書かせ呉れたり。
その筆耕料は一貫文(1000文)位呉れることありき。
不思議に思い居りたりしに、ようやく同人等が順聖公の御愛顧を受け居ることを知り得て、始めて訳柄を暁(さと)りしことあり。
これらの縁故よりして終(つい)に知遇を蒙ることとはなれり。
【「島津家事蹟調査訪問録 故伯爵勝安房君談話記事」『史談会速記録 第162輯』】
勝の俸禄は40俵しかなかったので、それだけでは家族を養うこともできません。そこでアルバイトとして「筆耕」を業としていました。
勝は幕臣のなかではめずらしく蘭学を学んでいましたから、おそらくは蘭書の翻訳だと思います。
その当時、上等の筆耕料は1枚500文くらいだったそうですが、勝の筆耕は1枚100文(現在価値で1,200円)でした。
そんな勝に、10倍の筆耕料を払ってくれる人があらわれました、それが三村晴山(松代藩御用絵師、薩摩藩の絵師が学んでいた木挽町狩野家の塾頭)です。
はじめはなぜそんなに払ってくれるのかがわからず不思議に思っていましたが、やがて晴山が斉彬にかわいがられているのを知って、ようやく本当の依頼者に気づきました。
当時は蘭学を学ぶ者がすくなかったので、勝のことを知った江戸城奥坊主の高橋栄格が斉彬にそれを教え、斉彬は勝がどのような人物かを調べるために、晴山をつかったのだと考えられます。
晴山によって勝の才能を知った斉彬は、やがて勝をよんで軍艦のことや貿易のことなどについて尋ねたり、手紙で意見を求めたりするようになりました。
勝海舟(国立国会図書館デジタルコレクション)
老中に口利き、資金援助も
勝の話をもう少し続けます。
順聖公常に御話あり、「汝のことは伊勢に頼み置けり」。
伊勢とは初め何人(なにびと)のことなるや知らざりき、後に考うるに当時閣老主席阿部伊勢守のことなりき。
もっとも当時閣老等は諸大名もよほど畏憚せしものなりしを、公は一家人の如く至極訳なく御話あるとは思えざりしに由る。
斯く私のことは常に思し召しありて御引立てに預りしなり。
後に至り予の弟子某といえる者を二十人扶持にて阿部家に召抱えられたることあり、これらも皆な公の御手引ありしものならんと思えり。
【前掲書と同じ】
斉彬は勝に「汝のことは、伊勢に頼みおいた」と言っていたそうですが、そのころの勝は「伊勢」が老中筆頭の阿部伊勢守(正弘)のことだとはわからなかったそうです。
というのも老中はたいへんな権威をもっており諸大名から畏怖されていたので、斉彬が阿部老中のことをあたかも身内のように「伊勢」と呼び捨てにするなどとは思いもつかなかったのでしょう。
勝海舟の研究者として名高い松浦玲氏も、その名著『勝海舟』のなかでこう書いています。
斉彬が「汝のことは伊勢に頼み置けり」と何度も言う、その「伊勢」が初めのうちは誰のことか解らなかったというのがリアリティーがあって面白い。
権力中枢に近ければ「伊勢殿」「伊勢守様」が常用されており、「伊勢」は筆頭老中阿部伊勢守正弘以外ではありえない。
しかし四十俵の無役小普請では雲の上のことだからピンとこない。また斉彬が阿部正弘を「伊勢」と呼捨てにする仲だとは想像もつかなかった。
【松浦玲『勝海舟』筑摩書房】
勝は知るすべもありませんでしたが、『老中も部下次第?』のところで紹介したように、斉彬と阿部正弘はいわばファーストネームで呼び合うような仲でした。
勝によると、斉彬から資金援助も受けていたようです。
また御懇切を蒙りしは、「汝金なくば入り用の度毎いつでも来たりて持ち行けよ、その取次は側役山田壮右衛門と申す者に申付け置くべし。他の人には申すべからず、外間に知れては面倒なるべし」と仰せありき。
これ種々秘密のことなど御命じになるに由るものと知られたり。
【前掲島津家事蹟調査訪問録】
山田壮右衛門というのは、斉彬が29歳のときから仕えている、側近中の側近です。
(NHK大河ドラマ『西郷どん』では徳井優さんが演じました、相撲のシーンで渡辺謙さん扮する斉彬から「やまだぁ!」と怒鳴られていたあの小柄な藩士です)
斉彬は幕臣の勝を信頼してこっそり使っていたのですが、それが漏れないよう窓口を腹心の壮右衛門だけにしていました。
勝の方も斉彬の信頼にこたえたばかりでなく、斉彬没後も薩摩に好意的でした。
「順聖公のお心持は、オレが一々知っている」※と語っていたとおり、勝は斉彬に心から共感していたようです。※【「清話のしらべ(29.20.21)」巌本善治編 勝部真長校注『新訂海舟座談』】
勝が斉彬の依頼を引き受けてオランダ人に鹿児島攻略法を尋ねたのも無理はありません。
ちなみに、勝の話に出る弟子某というのは勝が主宰していた私塾の塾頭杉亨二(すぎ こうじ)で、二十人扶持(100俵)という待遇で斉彬の親友阿部正弘の侍講になりました。
弟子の初任給が昔の自分の2.5倍という好待遇だったので、これも斉彬の口利きがあったからだろうと思ったのでしょう。
杉は明治4年に太政官正院政表課大主記(現在の総務省統計局長にあたる)となり、国勢調査など統計行政に尽力したので「日本近代統計の祖」と呼ばれています。
西郷隆盛と勝海舟、明治維新のハイライトである江戸城無血開城の立役者二人は、いずれも斉彬によって見いだされました。
斉彬は江戸時代最高の名君といわれますが、名伯楽(優秀な人物を見抜く名人:伯楽は中国戦国時代の人で良馬の目利きとして名高い)でもありました。
「千里の馬(一日に千里を走る名馬)は常にあれども、伯楽は常にはあらず」※という格言があります。※【韓愈(かんゆ)『雑説』】
西郷や勝のように飛びぬけて優秀な人材はいつの時代にもいるが、それを見いだす目利きは常にいるわけではないという意味で、いくら優れた人物がいても活躍する場があたえられなければ凡人として埋もれてしまいます。
迷走を続ける日本の政治を見ていると伯楽でなくても駄馬しかいないことはわかりますが、さて千里の馬はどこにいるやら。
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