旧例政治と「どうにかなろう」
幕府をほろぼした言葉
徳川幕府が求めたもの、それは戦国時代とは反対の「天下泰平」の世でした。
天下泰平とは昨日も今日もそして明日も同じようなことの繰り返しで日が過ぎていく状態、つまり「現状維持」「安定」を最高の価値基準にしたのです。
現状を維持するだけなら、政治家は経済成長を求める必要はありません。
求められるのは、同じことの繰り返しです。
幕末の志士で維新後は司法官となった薄井龍之(うすい たつゆき)は、大正4年の史談会でこのように語っています。
徳川氏の政治というものは、いわゆる旧例政治で、旧例を以て何もかも処分したものでありまして、旧例のないことは容易に許可をあたえなかった。
すべてのことが旧例を追うて処分をいたされたものでありますから、旧例をくわしく知って居る人でないと、何ほど大才でも勤めることがむずかしかった。
(中略)すべて取扱向きは旧例に依りて致したものでありまして、別段にむずかしいことはない。
それ故に諸侯から願いますことも、旧例のあることならば出来ますけれども、旧例のないことは断じて出来なかったものであります。
【薄井龍之「旧幕府の諸大名に関する慣例」『史談会速記録 第168輯』】
薄井が語っているように、諸侯つまり各藩主から幕府になにか願出があった場合、旧例があれば認められますが、そうでない場合は問答無用で却下されました。
「久光、朝廷に米一万石を献上(1/2)」で取り上げた、土佐藩のケースがまさにそれです。
このようなやりかたは平時であれば通用しますが、幕末のような動乱期つまり前例のない事態に対処しなければいけなくなるとお手上げです。
ペリ-が来て開国を迫るという前代未聞の事態が起こったとき、幕府は対応できず、ただ右往左往するだけでした。
そうしてとった戦術が「ぶらかし」、つまりその場しのぎの時間稼ぎでした。
旧幕臣で明治時代にはジャーナリストとして活動した福地源一郎(桜痴)は、著書の中でこう書いています。
幕末の賢吏小栗上野介(忠順:原注)は、かつて幕閣を評して曰く、
「一言以て国を亡ぼすべきものありや、どうかなろうと云う一言、これなり。
幕府が滅亡したるはこの一言なり」と云いたる事あり。
【福地源一郎著 石塚裕道校注『幕府衰亡論』平凡社東洋文庫】
勘定奉行として幕府を支えた小栗は、「一言で国を亡ぼす言葉がある、『どうにかなるだろう』だ、この一言が幕府を滅亡させた」と福地に語りました。
旧例遵守しか知らない老中たちが、前例のない事態にどう対処してよいかわからず、「どうにかなるだろう(=放っておけば相手があきらめるだろう)」で、問題を先送りし続けたことが幕府滅亡につながったというのです。
小栗上野介(部分:国立国会図書館デジタルコレクション)
幕府人事も旧例どおり
弱体化した末期症状の政権は、さまざまな危機に対する無為無策無能ぶりをさらけだす。
それもそのはずで、世の中が変化し続けていて、危機への適切な対処法も変化しているのに、政権内で権力を得る人を選抜する方法は変わっていないためだ。
【岩尾俊平『世界は経営でできている』講談社現代新書】
徳川幕府の末期もまさにこの状況でした。
旧例政治の人事は能力でなく家柄で決まります。
冒頭で取りあげた薄井龍之は、
「(それぞれの役職に)任ぜられる家がほとんど極(きま)っておった。というのは、取扱う役向きがことごとく旧例に委せて致すものでありますから、どうしても旧例を明らかに心得たる人でないと出来ませぬ」
「それ故に旧例をよく精通した人ならば、別に卓絶した者でなくても十分勤まったものであります」
とも語っていました。
要するに、旧例の知識が家伝のノウハウとなって伝えられ、それを知っていれば仕事ができる優秀な(=知らないのは仕事が出来ない無能な)リーダーと見られたのです。
知恵も工夫も必要ないばかりか、論理性や独創性はかえって邪魔になります。
こうして選ばれた人物が激動の時代に対応することなどできるはずがありません。
そんな人事制度に苦しめられたのが、最後の将軍徳川慶喜でした。
慶喜、家柄人事に苦しむ
歴史学者で『徳川慶喜公伝』の編纂にたずさわった藤井甚太郎は大正15年の史談会において、慶喜から聞いた話として、こう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点とカギ括弧をおぎなっています)
その時に旧例古格の厳守につき詳しく事情をお話遊ばしました。
そのお言葉によりますると、
「徳川家においては京都の形勢が斯くの如き有様であるからというので、いわゆる探索者の如きを京都に差し遣わすにしても、それには頭の良い者を遣わしたいと思っても、側の者の方で『そういう家柄の者が京都に御使を勤めた例がかつてござらぬ』という。また、『そういう御役の者が京都に大切の御用を務めたことはござらぬ』というて皆が拒む。
そこで京都の方に事情を探りに出す者は、やはり旧来の時と同じように例ある家柄の者、また同じような役柄の者だけが勤める。
それが自分の智識によって京都の事情を見て来て、そうして江戸の方に報告を致すに止まる。
要するに二流三流の者が探索をして来るのである。
ところが薩長あたりの者共を見ると、これは全くそれと反対であって、大久保、小松、西郷、或いは木戸というような、第一流の人が自ら京都に出ておって、そうして臨機応変の処置をその場で致しておる」
(中略)
「幕府のことはそういう役柄とか家柄とかいうことによって、万端のことに手重な手続をとっておるのに、薩州あたりはそういう早い手続をとった。
自分は兼々、彼の者は偉い人である、彼の者はこういう風な役に使ったらよかろうということを思うて、それを言うて見るけれども、皆旧例古格を盾にとって自分の言うことが行なわれなかった。
自分の一生の中において一番抜擢の例は目付永井玄蕃頭を若年寄にしたが、これより以上の抜擢は将軍家といえどもなすことが出来ないものであった」
というお話でありました。
【「大正十五年五月十五日の例会に於ける藤井甚太郎君の「徳川慶喜公の御直話」に就ての談話」『史談会速記録 第360輯』】
慶喜は将軍後見職として、当時政治の中心となっていた京都の動向をさぐるために優秀な「探索者」を派遣しようとしました。
情報収集には高度な能力が必要です。
しかし幕府の高官たちは、京都への使いといえば公家との交際しか思いつきません。
それで、身分にこだわったのでしょう。
慶喜が見込んだ優秀な人材は身分が低いという理由で反対され、家柄が良いだけの凡庸な人物しか派遣できませんでした。
アンテナがにぶくては、良質な情報を得ることはできません。
そのような幕府とは反対に、薩摩は大久保利通、小松帯刀、西郷隆盛といった「第一流の人」を送り込み、現場で得た情報にもとづいて的確な指示を出していました。
慶喜が最高権力者である将軍に就任した後もこの状況は変わらなかったようで、「これより以上の抜擢は将軍家といえどもなすことが出来ない」と嘆いています。
久光は旧例を破り抜擢人事を実行
旧例にしばられる幕府とはことなり、薩摩の最高権力者島津久光は、1万石の献米でわかるように、問題解決のためとあれば旧例など無視しました。
そのもっとも顕著な例が文久2年(1862)の卒兵上京です。
「島津久光の卒兵上京(1/7)」で書いたように、久光は幕政に関与できない外様大名の、しかも藩主ですらないにもかかわらず、幕府のトップ人事に介入し、成功しました。
まさに空前絶後の行動です。
この姿勢は薩摩藩の人事でもつらぬかれ、主要ポストには身分にかかわらず優秀な人材を配置しました。
兄の斉彬も優秀な人材を抜擢して使いましたが、ポストは軽いままでした。
斉彬の場合、たとえば下級武士だった西郷は庭方という低い職位のままで水戸斉昭など同志大名への連絡係とし、さらには朝廷工作まで担当させました。
勝海舟は、「薩州はその藩主に斉彬公という明君が出て、その人が非常の英断で、何百年来の門閥を打破して、ごく軽輩なる西郷に、藩政の大権を握らしたのだ」と語っています。【江藤淳・松浦玲編『勝海舟 氷川清話』講談社学術文庫】
久光は斉彬ほどの求心力がなかったためか、兄のような使い方ではなく、優秀な人材には相応のポストをあたえています。
たとえば西郷は沖永良部島から呼び戻した後、ただちに軍賦役(軍司令官)に任命されました。
藩内でもっと注目されたのは大久保の大抜擢です。
市来四郎が明治26年の史談会で、このように語っていました。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
そこで一般驚きまして。「どこからの縁で小松(帯刀)、中山(中左衛門)、大久保(利通)などが君側の要路に出たか」と申しました位で、私などもそれだけのことには行くまいと思っておりました。
そこが久光公のご英断で――時勢の切迫とともに斯くご英断になったでござります。
なかんずく大久保は御徒目付の職をもって閑散な所におりました者が、にわかに御小納戸役という所へ高飛び致しましたは、前代未聞のことで、よほど物議もござりました。【市来四郎「故薩摩藩士中山中左衛門君の国事鞅掌の来歴附二十五節」『史談会速記録 第18輯』】
会社にたとえると、閑職にいた平社員がいきなり部長に抜擢されたので社内が大騒ぎになった、というイメージでしょうか。
旧例にとらわれない、いかにも久光らしい人事です。
将軍といえど自由な人事ができなかった幕府とは真逆の、薩摩藩のダイナミズムを感じさせるエピソードです。
維新の勝者と敗者を分けた原因は、このようなところにもひそんでいました。
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