生麦事件(1/3) なぜボロデール夫人だけ無傷だったのか

リチャードソン死体発見現場付近にたつ生麦事件碑


生麦事件の概要

生麦事件とは、文久2年(1862)8月21日に神奈川宿に近い生麦村で起きた事件で、江戸から帰る島津久光の行列に正面から乗り入れてきた騎乗の英国人4人(男性3名、女性1名)に、薩摩藩士が斬りつけ、1名が死亡、2名が重傷を負った事件です。

外国人に対する殺傷事件はそれまでもありましたが、それらはいずれも「闇討ち」でいわばテロ行為でしたが、生麦事件は薩摩藩という公的な組織が公然と行なった行為でした。そのため、他の攘夷事件とは性格が大きく異なっているといえます。

斬られたのはいずれも男性で、死亡したのは上海から観光に来ていたリチャードソン、重傷の2名は横浜在住のマーシャルとクラークです。ただ一人の女性、ボロデール夫人だけは無傷でした。

事件の発端はリチャードソンらが藩士の制止や道を変えろという指示を無視し、狭い道を乗馬のまま行列とすれ違おうとして強引に乗り入れてきたことです。これに危険を感じた供頭の奈良原喜左衛門が駆け出して先頭のリチャードソンに斬りつけ、それを見た他の藩士たちもいっせいに斬りかかりました。

4人の英国人はたちまちパニックにおちいり、馬首を返して逃げようとしましたが、道幅が狭いためすぐには逃げられず、男性3名はみな数カ所を斬りつけられて1名は死亡、2名が重傷を負っています。しかしただ一人、ボロデール夫人だけは髪の毛を斬られて帽子が飛んだだけですみました。

おおぜいの藩士がいっせいに斬りかかった中で、なぜ女性だけが無傷だったのか?たまたまだったのか、なにか理由があったのか、気にかかったので調べてみると当事者の発言が残っていました。


薩摩藩士久木村治休の回想

このとき行列の先導組にいて逃げてくるリチャードソンに最後に斬りつけた久木村治休が、のちになって当時の様子をこのように語っています。

時は文久二年八月二十一日、江戸を早朝に出発した殿様の行列が、丁度二時半頃武蔵国生麦村についた。この時、乗馬姿の四人の夷人が、帽子もとらずにこの行列を行きすぎようとした。ことに女夷人が何となくいばっているように見えて、しゃくにさわりましたが、仕方なくぶつぶつ不平を鳴らしながら通りすぎました。ところが間もなく後の方でただならぬ気配がしたので、後を振向くと、何やらののしり騒ぐ声がして、つちぼこりの中に刀がぴかぴか光って見えました。
さては「やったな」と思う間もなく、一人の夷人が鞍壺に打ち伏しながら、左手で脇腹を押え、右手で手綱をあやつりながら、異様な悲鳴をあげ、疾風の様にやって来るではありませんか。これを見た私は、ただちに足場をはかって身構え、今やおそしと待っていました。他の者も皆口々にののしりながら抜刀しています。その夷人が、ちょうど私の前に来た時、やにわに腰の一刀を抜き放ちざま、馬上の夷人目がけて右後へ一文字に払いました。
「がばっ」と確に手ごたえがして、私の刀は三寸ばかり夷人の左脇腹から背中に斬り抜け、型通りの胴切りをしたわけです。しかし相手もさるもの「ひいっ」と云う異様な悲鳴をあげて逃げ去りました。私はすかさず太刀を振りかぶり、今に落馬するだろうと思って四五町も追いましたが、何しろ相手は馬、こちらは徒歩ですから、いくらあせっても追いつきません。
ほうほうのていで逃げ去った夷人の方を眺め、汗も拭かずににらんでいると、またしてもひづめの音がします。「こやつもかっ」と叫んで太刀を振りかぶり、馬上の夷人めがけて左脇から斬りつけましたが、残念なことに私の長刀もおよばず、ついに駆け抜けてしまいました。あの時、相手の馬の脚を払えばずいぶん面白い事になったかも知れなかったのですが、何としても残念なことでした。
続いて又蹄の音がしますので、今度こそは逃すものかと、曲がった太刀に気を配りながら身構えていますと、女夷人が妙な泣声を立てて駈けて来ます。一度は身構えて見ましたが、女を斬っては武士の名折れと思い、見逃してやりました。前を通る時、私共が大きな声でおどかすと、とてもおかしな格好で逃げ去りました。
【「久木村翁の武勇伝(翁の述懐談)」 『隼人郷土読本』発行所記載無 昭和15年】


久木村治休(隼人郷土読本より)


異人に対する日頃の悪感情がふきでた事件

久木村の「しゃくにさわりましたが」と語っている理由については、大審院判事で法学者の尾佐竹猛(おさたけ たけき)の説明がわかりやすいので、紹介します。

当時の思想としては百姓町人の乗馬は禁じられてあったのに、異人共は素町人の分際で乗馬してあるく、はなはだけしからぬとは、よく聞く不平であった。日本人同志でも単なる一人の士の通行に対して百姓町人が馬乗のまま通ったら、これだけでも無礼打ちにあうのは当然である。
いわんやそれが禽獣にひとしい夷狄で、わが神州を汚すやつらで、かねがね斬り棄てたく思ったやからではなおさらである。見れば馬乗のままなるに冠りもの(帽子)さえ取らぬ、特に女のくせに馬上で冠りもののままいばって居るのはしゃくさわるという感情もあったろう。
極端な男尊女卑で、百姓町人を奴隷のように思っている薩藩と、女尊男卑で商業を重んじる英国人とが出会ったのが双方の不幸であった。
【「生麦事件の真相」 尾佐竹猛『幕末外交秘史考』邦光堂書店 昭和19年】

尾佐竹が書いている「当時の思想」に久木村の回想を重ね合わせると、ボロデール夫人が帽子を飛ばされたのは偶然ではなく、女を傷つけることはしないが「冠りもののままなるは無礼であろう」と憤激した藩士の誰かが刀で帽子をはね飛ばして、その際に髪の毛が少し切られたということだろうと思われます。

武勇をなによりも尊び、一撃必殺の示現流(またはその分派の薬丸自顕流)で鍛えた薩摩のサムライたちでしたが、ボロデール夫人には傷をつけませんでした。久木村が述べているように「女を斬っては武士の名折れ」という武士のプライドが彼女を守ったのです。





幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

0コメント

  • 1000 / 1000