民間の細事まで知っている
サトウキビの肥料は土佐のカツオの骨
以前に斉彬が領民の生活を観察していた話を紹介しました。
じっさい斉彬は領内をこまめに巡視していたので、とんでもなく細かいことまで知っていて、周囲を驚かせたことがたびたびあったようです。
今回はその一例として、島津家事蹟調査員が旧土佐藩で山内容堂の侍読(じとう/じどく:君主に学問を講じる学者)だった細川潤次郎(ほそかわ じゅんじろう:明治政府では元老院議官)から聞き取った話をご紹介します。
(読みやすくするため、一部漢字を仮名にし、「」と句読点をおぎなっています)
予(細川)かつて同国人久次米九助という重役を勤めし者につき、聞きしことあり。
あるとき順聖公(斉彬)土佐邸にお入りあり、座上種々お話のついでに、
「土佐には鰹節の産多く、じつに重要の国産にて、お国のため賀すべきことなり」
との仰せありしに、重役の者お答え申すに、
「仰せのごとく、いささか国産と称すれども、なかなか仰せのごとくならず。
かえってお国においては砂糖の産ありて年々莫大の産額にのぼり、御国利を生ずることじつに一方ならずと承れり、わが鰹節の比にあらず。
まことに御羨ましくぞんずる」
旨申し上げしに、公
「わが藩地に砂糖の産物あるは、土佐のおかげに頼るなり」
とのたまいしに、重役の者不信に思い伺いしに、公のおおせに、
「砂糖を製するには、土佐の鰹魚の骨を買い入れて肥料に用いて甘蔗(かんしょ:さとうきび)を植えるものにて、まったく土佐の鰹魚骨の産あるにより、わが砂糖もまた産するの訳なり」
との旨お話ありしよし。
重役はじめてうかがい、耳親しく覚えたるより、早速人を国許に送りて鰹魚骨を薩摩に輸送することを取調べたりしに、毎年薩摩船琉球産物等を積み来たりて、これと交換して行くこと判然したることあり。
重役どもは自国に何等の産物あることを知らざるに、すでに公にはこれを了知あらせられしには、人々公の達識、物事に意を注がせらるるの深きに感服し奉りたりと申したり。
【「島津家事蹟訪問録 男爵細川潤次郎君ノ談話 島津斉彬公逸事談」 『史談会速記録第182輯』】
細川潤次郎(国立国会図書館デジタルコレクション)
土佐藩邸を訪れた斉彬が土佐藩の重役に、土佐名産の鰹節をほめたところ、逆に薩摩特産の砂糖をうらやましがられました。
すると斉彬が、「砂糖がとれるのは、土佐の鰹の骨を肥料にしているおかげだよ」と答えたのです。
土佐藩の重役はそれを知らなかったので国元に問い合わせたところ、毎年薩摩の船が琉球の産物を積んで土佐にやってきて、積み荷を降ろしたあと鰹の骨を積んで帰っているとの回答でした。
重役も知らなかった土佐藩内の事情を斉彬が知っていたことに、土佐藩邸の人々が驚いたという話です。
現場を知る殿様は少ない
現代の企業経営においては、「現場を知らない経営者」は経営者として失格です。
しかし、江戸時代は藩主が現場(=領民の実情)を知っていることなどほとんどなかったといっても過言ではありません。
藩主だけでなく、家老など藩経営をおこなう上級武士も現場を知っている方が珍しかったはずです。
というのも当時は身分制社会なので、現場ではたらく百姓・町人は、藩主はもとより家老クラスの上級武士とも、口をきくことなど許されなかったからです。
「殿様が職人の耳を引っ張った話」でご紹介した、川路勘定奉行が百姓に話しかけたことが奇談として村の記録に残った話や、斉彬が職人を直接叱ったら叱られた職人がそれを子供に自慢したというエピソードは、身分制社会ならではの出来事です。
斉彬は正室の長男ですから江戸生れの江戸育ちです。
27歳で初帰国して8ヶ月間滞在。
次は38歳のときに琉球にくる外国船への対応で帰国しましたが、これも8ヶ月間です。
あとは43歳で藩主になるまで、ずっと江戸暮らしでした。
そのような殿様が、どうやってサトウキビの肥料に土佐の鰹の骨が使われていることまで知っていたのか。
それは分りません。
サトウキビの産地である奄美諸島に足を運んだ記録はありませんから、誰かが報告したのでしょう。
いずれにせよ、藩主として城下や近郊を見廻っていただけでなく、領内の実情を詳細に調べていたことがわかるエピソードです。
現代でも現場をよく知る上司であれば、部下たちは文句を言わずに従います。
島津家事蹟調査員の寺師宗徳は、「斉彬の徳望ならば、藩中一人も非の字は言わぬ(斉彬公は徳望があったので、藩内で異議を唱えるものはひとりもいなかった)」と語っていますが、まさにその通りだったのでしょう。
斉彬が江戸時代最高の名君と呼ばれるのもわかるような気がしますね。
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