藩内では少数で移動し、領民の生活を観察

斉彬はつねに領民のことを気にかけていました。

それがよく分る史料が斉彬公史料の中にあります。

藩主や家族が藩内を移動するときの決まりで、このように定められていました。(原文はこちらの36頁)

 従来、太守様はもちろん、御隠居様・御部屋栖(おへやずみ:子息)様ご通行筋、市中其外にも辻固めと唱え、町奉行・御目付及び町役人共出張、火消道具を備え非常を改め、或は見通しある辻々は其都度食い違いを設け、或は市店は戸を閉じ、商売をやめ、或は人馬の往来を止め、警蹕(けいひつ:さきばらい)の声を懸け、御通過迄の間は其戒め甚だ厳なるものなりき、是れ従来の例規なり 
【「三五 少将御叙任及布告」 『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』】 

従来は藩主だけでなく先代藩主や息子たちが外出するときには事前に役人たちや奉行が道筋をチェックして、人びとの活動を止めるなどの厳しい警備体制をとっていました。

 具体的には、見通しのよい十字路には壁を立ててクランク状にし、道路沿いの商店は戸を閉めて休業させ、人馬の往来をとめ、行列が近づくとさきばらいが声をかけて警告(「下にぃ~、下にぃ~」でしょうか)していました。 

その結果として、ゴーストタウンのように静まった町の中を行列が進んでいったようです。 

これでは経済活動がストップしてしまいます。

民衆とともにありたいと思っている斉彬は、藩主と領民をひきはなすこのようなあつかいをきらいました。

 

はじめての下国で、領民への配慮をしめす

天保6年(1835)、27歳の斉彬がはじめて薩摩に下国したときに、このような布達(ふたつ:告示)が出されました。

わかりやすくするため内容を書き直すとこうです。(原文はこちらの35頁にあります)

 来る二十七日、谷山へ少将様(斉彬)が乗馬にてお行きになるはずである。
今後もおいおい乗馬にて鷹野などへもお行きになる予定である。
ついては、道に沿ったところで農作業をおこなう者はもちろんのこと、同じ道を往来する人びとが遠慮して通行をひかえるようでは少将様のご趣意に叶わぬこととなるので、外出の時にもし少将様ご一行と出会った場合には、謹んで蹲踞(そんきょ)の姿勢をとるだけでよい。
九月二十六日 
【「三五 少将御叙任及布告」 『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』】 

 つまり、斉彬が外出するときには特別の準備は不要で、たまたま出会った人はそこで蹲踞(角力で腰をおとして控えるときの姿勢)だけでよいとされました。 

とはいえ、殿様が外出するときには店を閉めろといわれていた長年の習慣がありましたから、斉彬が外出する日は営業を休む商店も多かったのでしょう。

そのためだと思われますが、 同じ年の11月17日にこのような布達が出されています。(原文は36頁)

 少将様が外出の際に道で行き会った者たちは、そのときだけ蹲踞の姿勢をとるようにとの仰せであったので、せんだってそのように申し渡したが、なおまた、町内においては店先を閉めるにおよばず平日のままでよいし、辻々等の商売も同様に(平日とおなじと)心得るようにとの指示も特に命じられた。
有難きご趣意のほどを承知したうえで、関係先へもれなく申し伝えること。 
【「三五 少将御叙任及布告」 『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』】

 農民だけでなく商人も平常通りの生活をおこなうように、かさねて通告しています。 

斉彬が、このように領民たちにこまやかな気遣いをしたので人々は感激し、きびしい警護がなされていた頃よりもいっそう強く謹みの姿勢をあらわしていたとのことです。

広重『東海道名所之内 加茂川遊覧』(部分)
 国立国会図書館デジタルコレクション

出かけた先で人びとの生活を視察

 また同じ史料には、斉彬が鷹狩りの際などに近くの民家を訪れて、暮らしの様子を見るだけでなく、そこにいる人たちに直接話しかけていろいろとたずねたと伝えています。

ある家をたずねたときなどは、たまたま食事中だったので、家族が粟(あわ)や唐芋(さつまいも)の粗食を食べているのをじっくり見ていたそうです。

 当時は身分制社会でしたから武士であっても身分が低ければ藩主と直接話をすることはできません、ましてや百姓町人が殿様とじかに口をきくなどもってのほかです。 

しかし斉彬はかまわずに話しかけたので、人々も殿様とは気づかず近習の一人だろうと思って返事し、あとで殿様と知らされて恐懼(きょうく:おそれかしこまる)したとのことです。

 また、草牟田(そうむた)村で鷹狩りをしたときには、3、4名の近習だけをつれて斉彬の茶道坊主である山口不及の家をおとずれ、えんがわに腰掛けて煙草を吸いだしたので、 山口の妻女は近習の一人が立寄ったのだろうと思って、なにげなく煙草盆やお茶をだしたことがありました。

 戻った斉彬が山口不及に、「今日はおまえの家に立寄ったぞ」と言ったので、山口はおおいに驚き、妻女が殿様に粗相や不敬なふるまいをしなかったかと冷や汗をかいたそうです。

 斉彬であれば家人に少々のミスがあってもとがめることはしないでしょうが、訪問された山口の方はさぞあせったことでしょう。 

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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