名君は領民に姿が見えるようにした
斉彬、領内での外出時は常に姿が見えるようにしていた
斉彬は藩士や領民たちから神様のように慕われていましたが、その理由のひとつとしては、人々が殿様を身近に感じていたことがあげられると思います。
2018年に放映されたNHK大河ドラマ「西郷どん」では、渡辺謙扮する新藩主斉彬が馬に乗ってお国入りしていましたが、斉彬の初入部(藩主になって最初のお国入り)はまさにあのとおりでした。
明治38年の史談会における、島津家事蹟調査員寺師宗徳と示現流師範の東郷實政および門弟の山之城とのやりとりで、それがわかります。(読みやすくするため、一部漢字を仮名にしてあります)
(寺師)斉彬公がご家督後お下り(帰国)になった時の人気はどういうものでござりました?
(東郷)ご明君と申し上げたものであります。
その前にご家督前にもお下りの事があったから、大変皆悦んでおったことであります。
私等は再度のお下りの時は十二(歳)位であったが、皆そう言いました。
(山之城)斉彬公は常にご馬上でありましたから、何人も為する(だれでも見る)ことが出来ましたから、一般の人気も誠にありがたがったものであります。
(寺師)文武のご奨励について、学問は造士館、武術は演武館でありましたか?
(山之城)さよう、二の丸に稽古場があって、斉彬公がお出になることもありました。
(寺師)ご家督前とご家督後では人気にも差があり、自然奮ったでござりましょう?
(東郷)よほど奮いました。
何処方面と言って、不意に二の丸の稽古場にお呼び出しになって、武術のご見分がありました。
【東郷實政「東郷實政君経歴談附三十六節」『史談会速記録 第153輯』】
斉彬は常に民衆の前に姿を見せていたので、人々はみな親近感をおぼえていました。
江戸であれば、大名の外出は駕籠に乗って30人くらいの従者をしたがえる必要がありました。
しかし、国元ではそのようなしばりもなく自由にふるまえるので、外から姿の見えない駕籠は使わず、ごくわずかな従者だけで行動できます。
薩摩にいるときの斉彬は少しでも時間があれば城下や近郊を視察していましたが、常に徒歩か馬上で、人々に姿が見えるようにしていたようです。
斉彬の事蹟を紹介した『照国公感旧録』には、このように書かれています。
(読みやすくするため一部漢字を仮名にし、あきらかな誤字は修正しました)
(斉彬)公国政の暇あるごとに昼夜を問わず近臣数名をひきい、馬上あるいは徒歩村里を馳駆して民間の情況を視察せり。
もとより前時に令を発し、路を清め街をいましむることなし。
故に路人往々公たるを知らず、去って始めて公たるを聞き、愕然たるもの多かりき。
これ以て一夫野人もまた公に接して、親しく民情を吐露するを得たり。
この如く公は昼夜民政を憂念し、身みずから実地に臨みて措置を令す。
藩吏従って疎慢(そまん:おおざっぱでいいかげん)壅閉(ようへい:ふさぎとじる=民の声を聞かない)に流るることを得ず。
俗吏は震撼してその奸を収め、良吏は精勉その能を顕わすに至れる所以なり。
【「公、近臣数名と馬上市坊村閭を巡視して民の疾苦を問はれ老農と国政の善悪を対話せられし事」『照国公感旧録』
斉彬がしょっちゅうお忍びで領内を視察して現場を見、庶民の声をきいていたので、藩の役人たちもいい加減な処理で済ますことはできなくなったようです。
国輝「末広五十三次 沼津」(部分)
(国立国会図書館デジタルコレクション)
斉彬は常に人々の前に姿を見せていたのですが、父親の斉興は正反対だったようで、史談会の同じ席において寺師が「斉興公は近侍のほかは人に顔もお見せにならなかった」と語っています。
他の名君も同様だった
初入部で駕籠を使わなかったのは、斉彬だけではありません。
斉彬の親友で、こちらも名君といわれた鍋島直正(閑叟)や山内豊信(容堂)も同様に馬でお国入りしています。
明治37年の史談会で、旧彦根藩出身の歴史学者中村勝麻呂(かつまろ)がこのように語っています。
(鍋島閑叟は)入部して、足その領土に入ると、ただちに非凡の挙動をあらわしました。
それは(歴代藩主は)いつも入部の時は駕籠で行くのが先例であったが、閑叟は江戸で人と為って、領土を見るはこのたびが始めであるから、十分に領地の風景をみたいからと言って、駕籠を出て馬上ゆたかにうたせました。
山内容堂が入部の時もこれに似て、先例は駕籠であったが、わざと馬に乗って入城したということがございます。
明君の為すところはその軌を一にすると申すものでございましょう。
さて守旧の門閥家などには左様なことをせられては君公の威厳に関すると言って非難するものもありましたが、拝観に出た士民は殿様のお顔がよく拝まれたと言っておおいに喜んだということでございます。
【中村勝麻呂「鍋島閑叟侯の事蹟附十四節」『史談会速記録 第135輯』】
最近はスーパーに並んでいる野菜にも生産者の顔写真が付いていたりするように、「顔が見える」は相手を知るためのための第一歩です。
顔を知っているだけで親近感をおぼえるのは、誰もが経験したことだと思います。
名君といわれる藩主たちもそれをしっかり理解していたようですね。
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