日本語で考える強味

アジアのノーベル賞は日本に集中

 今年のノーベル化学賞に東京理科大学の硤合憲三名誉教授がえらばれました。

日本人の化学賞受賞者は硤合先生が加わって10人になりましたが、自然科学三賞つまり理科系の受賞者数としては、物理学賞を12人、生理学・医学賞を6人が受賞しているので、計28人です。

これは本当に個人的な感想(偏見かな?)ですが、同じノーベル賞でも「平和賞」や「文学賞」は客観性に乏しい気がするし、「経済学賞」も受賞者が運用したファンドが投資に失敗していたりするので、真にノーベル賞にあたいするのは自然科学三賞のみではないかと思っている次第です。

ということで、自然科学三賞にしぼってノーベル賞の受賞者を国別に見ると、

1位 アメリカ  218人

2位 イギリス  77人

3位 ドイツ   75人

4位 フランス  38人

5位 日本    28人

6位 ポーランド 19人

7位 ロシア   17人

8位 スエーデン 16人

9位 オランダ  15人(同数でオーストリア・スイス)

となり、ベスト11は日本以外すべて西洋諸国です。

同じアジアの国では2番目が中国で8人(16位、ただし中華人民共和国国籍は生理学・医学賞の屠呦呦氏のみ)、次がインドの4人(21位、ただしインド共和国国籍はゼロ)とかなり差が付いています。

中国人・インド人に自国籍者がほとんどいないのは、研究環境が外国だということです。

これに対して、日本人はほとんどが国内での研究業績が認められての受賞です。

この違いはどうしておきたのでしょうか?


母国語で学問を学べる国

これについて、2000年にノーベル化学賞を受賞した白川英樹博士が興味深い話を披露されています。

ノーベル賞受賞後にあった、外国特派員とのやりとりです。

メディア各社の記者たちが繰り返し同じことを訊ねるなかで、ただ一人意外な質問をした外国特派員がいた。
香港から来た経済誌の特派員と名乗ったが、受け取った名刺から判断するとアジア人ではなくイギリス人と見受けた。
取材を終えて帰りがけの玄関先で立ち止まり、聞き忘れたことがもう一つあると言って訊ねたのが、
「ノーベル賞自然科学三賞の受賞者数を欧米諸国に較べると日本は極端に少ないが、アジア諸国に限ると日本人受賞者が際立って多いのは何故か」
という問いであった。
意表を突く問いに一瞬とまどいを覚えて返答に窮したが、アジア諸国の多くの大学の同僚たちから、物理学や化学など自然科学の講義は英語の教科書を使い英語で教えているという話を聞いていたことを思い出して、
「他のアジア諸国と違って、日本では理科や自然科学は母国語である日本語で書かれている教科書を使い、日本語で学んでいるからではないか」
と答えた。
【白川英樹『自然に学ぶ』法蔵館 57頁】

白川博士は、アジア諸国での教育について「各国はそれぞれの旧宗主国の言葉を使って学校教育をしている」「つまり学ぶための言語と、日常生活で使う言語が違う」「欧米の植民地支配を受けなかった日本は母語で多くの学問を学べるアジアでは珍しい国なのである」と述べています。

私たちは、「日本国内の授業だから、日本語の教科書があるのは当たり前」だと思っていますが、これはアジアでは珍しいことなのです。

なぜそんなことが可能になったのか。

それは江戸中期から明治にかけて、多くの先人たちが必死になって西洋の学術書や教科書を日本語に翻訳してくれたからでした。


禁書を撤回

江戸幕府は鎖国政策の一環として、キリスト教だけでなく西洋科学について書かれた書物の輸入も禁じていましたが、8代将軍吉宗の「享保の改革」でこれを緩和し、キリスト教関係以外の書物を許可しました。

この結果、まずは漢訳された西洋科学書が中国から輸入され、ついでオランダ語で書かれた書物も数多く輸入されるようになってきました。

杉田玄白が『蘭学事始』を書いたのは文化12年(1815)のことですが、これ以降日本の洋学者(蘭学者)たちは、西洋の新知識導入に情熱を燃やします。

ここで素晴らしいのは、それまで日本語にはなかった言葉を次々を生み出していったことです。

たとえば、島津斉彬とも親交が深かった高名な蘭学者で津山藩の藩医宇田川榕庵(うだがわ ようあん)は植物学や化学に強い関心を示し、日本初の西洋植物学書『植学啓原』を出版しました。

本の序文を書いたのはこれも斉彬と親しい蘭学者の箕作阮甫で、そこには「アジア諸国には本草学はあったが植物学はなかった、榕庵氏のこの書物がその始まりとなる」と書かれています。

本草学というの植物の分類で、いわば図鑑のようなものです。

これに対し『植学啓原』は植物の各部分の機能を説明するもので、現在も使われている「花粉」「葯(やく)」「繊維」「雌花・雄花」「気孔」「単葉・複葉」「葉柄」「澱粉(でんぷん)」などはすべてこの翻訳時に榕庵が創りだした言葉です。

榕庵は化学の分野でも、オランダの教科書を翻訳して『舎密開宗(せいみかいそう)』を出版、ここでも「元素」「水素・炭素・酸素・窒素」「酸・アルカリ」「中和」「燃焼」「酸化・還元」「温度」「飽和」「分析」「気化」など、見ただけで意味が分かるような用語を数多く造語しています。


宇田川榕庵肖像 藤波剛一編『医家先哲肖像集』(国立国会図書館デジタルコレクション)


「化学」という単語

宇田川榕庵が翻訳した『舎密開宗(せいみかいそう)』の「舎密」とは化学を意味するオランダ語のchemieの発音を漢字で表わしたものでした。

この言葉は明治初期まで使われていて、明治2年(1869)に大阪につくられた理化学の研究・教育機関は「舎密局」と名付けられ、御雇外国人としてハラタマたちオランダ人化学教師が化学教育を行ないました。

余談ですが、この舎密局がやがて旧制第三高等学校となり、現在の京都大学につながります。

この「舎密」という表音の言葉を「化学」という言葉に変えたのが、三田藩士で島津斉彬にヘッドハントされて集成館事業を行なった蘭学者の川本幸民でした。

幸民はchemieという単語を「化学」と翻訳して、意味を分かりやすくしました。

明治初期までは「舎密」と「化学」が混在していましたが、現在は「化学」に統一されています。

このような蘭学者たちの努力について、白川博士は

「『舎密』がオランダ語のchemieの発音『セイミ』を漢字で表現しただけで、舎密からはこの語の意味することを汲みとることはできない。
英語のradioをラジオ、televisionをテレビというように英語の発音をそのまま表現するのと同じである。
一方、化学の『化』の字は、文字通り化ける、すなわち化学の反応の本質、ある物質からまったく別の物質への変換を意味することを直感的に理解できる。
これまで日本では知られていなかったものの名前や事柄を日本語に翻訳するに当たって、蘭学者たちは使うべき漢字の語感やその事柄の背景までをも考慮したことにあらためて驚きの念を抱かざるを得ない。
今日、私たちが自然科学を学ぶ際に、ヨーロッパ諸国の言語で書かれた原書を使わずに日本語で書かれたもの、あるいは日本語に翻訳された教科書で西洋科学を学べるのは、こうした江戸時代の蘭学者たちの多大な努力のおかげなのである。
【白川英樹 上掲書 101頁】

と述べています。

幕末の蘭学者たちが知恵を絞って西洋の用語を漢語に置きかえてくれたことで、後世の日本人が西洋の自然科学を、語学の苦労なしに学べるようになったのです。


思考の道具を削るな

日本人が物事を考えるときは、心の中で日本語を使って自分自身と対話しています。

つまり、思考の道具として日本語を使用しているのです。

また、家族や友達と会話するときにも日本語を使用します。

こちらはコミュニケーションの道具です。

白川博士が言うように、この2つの道具として同じ言語が使用できることが日本人の強味です。

ふだんから使いこなしている言語なので、英語などの外国語を使用する場合にくらべて、ものごとの理解や表現の多様さなどにおいては、圧倒的な差があります。

もし、アジアの他の国々のように生活は母国語だが授業は外国語で行なうとなれば、授業内容を理解する前にまず言葉の意味を知ることから始めねばならず、授業の理解度が低くなることは間違いありません。

つまり学力低下です(一部の大学では授業をすべて英語にしようとしているようですが、失敗するでしょう)。

幕末明治の先人たちが翻訳というすばらしい文化を創りあげてくれたことが、ノーベル賞受賞者を多数輩出することにつながったのだと思います。

現在文部科学省では、2030年度以降に始まる次の学習指導要領で、情報教育を広げるために、小学3年生から中学3年生が学ぶ「国語や算数など各教科」の授業時数を、一部を除いて一律3〜4%ほど減らす案を検討しているそうです。

文科省は以前にも「ゆとり教育」と称して学習時間を削り、子供たちの学力を低下させた前科があります。

その次は小学生に英語を学ばせるために、国語の時間を削りました。

国語力はすべての学習の基礎になるものです。

算数も理科・社会も教科書に書かれていることが理解できなければ学べませんし、試験問題の意味が分からなければ解答は不可能です。

先人たちが苦労して築きあげた日本人の高学力を低下させること、イコール国力低下です。

政治家だけでなく、官僚も国民が選べるようにしたいものですね。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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