特命全権大使になぜ儒者が選ばれたのか?
日米・日露和親条約交渉
幕末の歴史を調べていると、さまざまな疑問点が出てきます。
表題にかかげたものも、その一つです。
嘉永6年(1853)6月3日、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが4隻の軍艦をひきいて江戸湾に現われ、開国・通商を要求するフィルモア大統領の国書を押し付けて去って行きました。
その一月半後の7月18日、今度はロシア海軍の提督プチャーチンが長崎に来航します。
要求はペリーと同じ開国・通商ですが、さらに国境画定も加えられていました。
このふたつの開国要求から、幕末の激動が始まるのです。
嘉永6年に長崎でプチャーチンとの交渉にのぞんだ日本側代表団はこのメンバーです。
筒井政憲:<交渉全権(首席)> 大目付格西丸留守居 昌平坂学問所御用
川路聖謨:<交渉全権> 勘定奉行
荒尾成允: 目付(監視役)
古賀謹一郎: 儒者
また、翌嘉永7年1月に再来したペリーとの交渉のメンバーはこうでした。
林復斉:<交渉全権> 大学頭(昌平坂学問所所長)
井戸覚弘: 江戸北町奉行
伊沢政義: 浦賀奉行
鵜殿長鋭: 目付
松崎満太郎: 儒者
「交渉全権」というのは、現在の条約交渉における「特命全権大使」に該当します。
これを見て気になったのが、日米交渉首席の林と日露交渉首席の筒井の両人が昌平坂学問所の所長と所長代理(実質)、つまり儒者(儒学者)だったことです。
なぜ外交交渉の首席が、外交官ではなく儒者なのか?
加えて、なぜ古賀・松崎という儒者が交渉団に加わっているのか?
それは鎖国と大いに関係がありました。
江戸時代の国交は2ヶ国だけ
「国交」というのは互いに主権国家と認め合う2国間の公式な交際のことです。
高校教科書には、江戸時代の外国との交流についてこのように書かれています。
この(ポルトガル船の来航を禁止した)結果、朝鮮・琉球以外で日本に来る外国船はオランダ船と中国船だけになり、その来航地も長崎一港にかぎられてしまった。
平戸のオランダ商館も長崎の出島に移され、幕府はここを窓口としてヨーロッパの文物を吸収するとともに、オランダ船の来航のたびに商館長が提出するオランダ風説書によって、海外の事情を知ることができた。
一方、中国船は明から清にかわっても来航をつづけたが、生糸をはじめとするその輸入額は年々ふえつづけたので、しだいに制限が加えられるようになり、1688(元禄元)年には中国人の居留地も長崎の一区画(唐人屋敷)だけとされた。
こうして鎖国政策は200年以上にわたってつづけられ、その結果、産業や文化にあたえる海外からの影響は制限されたが、幕府の支配はいっそう強固なものになった。
【五味文彦・鳥海靖編『新 もういちど読む山川日本史』山川出版社】
これだけだと朝鮮・琉球・オランダ・中国(清)の4ヶ国と国交があったように思えますが、そうではありません。
阿蘭陀船入津之図(国立国会図書館デジタルコレクション)
オランダ・中国は「通商」
鎖国の例外としてよく知られているオランダは、18世紀までオランダ国ではなくオランダ東インド会社との「通商」、つまりビジネスだったのです。
出島にあったオランダ商館というのは、オランダ大使館ではなく、オランダ東インド会社日本支店でした。
オランダは1795年にフランスに占領されて、バタヴィア共和国というフランスの衛星国家になり、1806年にはフランスに併合されてしまいます。
この間、1799年にオランダ東インド会社が解散し、貿易部門はバタヴィア政府が新たに設けた海外貿易公社に引き継がれました。
しかし出島のオランダ商館はそのような事情を幕府に告げず、従来のままに貿易をつづけました。
オランダ商館長の身分は、東インド会社の社員からバタヴィア政府植民省の公務員に代わっていましたが、幕府には何も説明しなかったようです。
こうした対応を取った結果、地球上からオランダ国旗が消えていく中で、日本の長崎にのみオランダの三色旗が翻っていたのです。
1813年にフランスがイギリスに敗れてオランダはネーデルランド王国として復活しますが、もともと隠していた話なので、商館長の立場は変化ありませんでした。
長崎貿易のもう一つの相手先、中国(清)も通商のみの関係です。
その拠点は、出島とならんで長崎の観光名所となっている「唐人屋敷」でした。
これは周囲を練塀や堀で囲まれた中に瓦葺き2階建ての長屋が20棟ほどある「中国人居住区」で、最盛期には1万坪弱の土地に約2,000人の中国商人が住んでいたようです(オランダ商館の駐在員は10人前後)。
中国人も出島のオランダ人同様、勝手に居住区から外に出ることは許されませんでしたし、オランダ人とは異なり、江戸を訪れることはありませんでした。
つまり江戸時代の長崎は、外交と関係ない、単なる貿易の拠点だったのです。
余談ですが、長崎貿易についてご興味のある方は、長崎税関作成の『長崎港と長崎税関 ~歴史的な関わりやエピソード~』が分かりやすいです。
国交は「通信」
話を戻すと、江戸時代に日本と国交がある先は朝鮮(窓口は対馬藩)と琉球(窓口は薩摩藩)の2ヶ国だけで、この2ヶ国を「通信国」と呼びました。
通信国からの使者(朝鮮は通信使、琉球は慶賀使)の主な来日目的は将軍の代替わりの祝い、要するに外交儀礼でした。
通信国のうち、琉球は日本語が通じますが朝鮮はそうではありません。
朝鮮は中国の属国で自ら小中華と称していました。
つまり中国文化の国で、貴族階級は言葉も中国語でした。
そこで中国の礼法にくわしい儒者が、朝鮮通信使の接遇担当となっていたのです。
冒頭で述べたように、昌平坂学問所のトップ2人が米露との交渉全権に選ばれたということは、幕府が当初は外交儀礼を強く意識していたことがうかがえます。
しかし、すぐに考えを改めたようです。
というのも、この後の条約交渉では儒者の出番はなくなり、新たに選ばれた外国担当(海防掛) の役人たちに交替しているからです。
通信使は「御逢」、商館長は「御覧」
なお、オランダ商館の商館長も定期的に(当初は毎年、1790年以降は4年に1度)江戸参府をしていましたが、これは通商を許されていることの御礼を将軍に言上して、礼物を献上するという名目でした。(中国は参府なし)
城内で将軍に目通りすることについて、通信国に対しては「御逢」になるとの表現を用いましたが、オランダ商館長には「御覧」になるものとされました。
これは奥向きの女性たちを含む城内の人々が、珍しいオランダ人を見物するという位置づけで、待遇もかなり違っていたようです。
さすが身分制社会、きっちりと区別していますね。
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