医学館vs.医学所

幕末の医学は、漢方医学と蘭方医学という二つの系列に分かれていました。

その漢方医学の本拠となったのが医学館で、これに対抗して蘭方医が開設したのが医学所です。


漢方医師の教育を担った「医学館」 

江戸時代の医者には,幕府の医師だけでなく、各地の大名のお抱え医師である藩医、町や村にいて庶民の治療にあたる町医者がありました。

以前「幕府医師のピンとキリ」でふれたように、 当時の医師はすべて徒弟制度で、専門の教育機関も免許制度もなく、医学知識や技量には大差がついていました。 

明和2年(1765)、このような状態を憂えた奥医師(漢方医)の多紀元孝は、幕府に願い出て私邸の一部に医学教育の場を設け、躋寿館(せいじゅかん)と命名しました。 

躋寿館では,幕府医師の子弟,藩医のみならず,町医者まで希望者は誰でも授業料無料で学ぶことができました。 

さらに講義だけでなく、臨床教育も行なわれました。

講堂に接した病室で患者の診療を行ない,無料で治療し薬代も無料の代わりに学生も立会うという仕組みです。 

学生たちは患者の状態を見て、どのような病気でどんな治療をするべきかのレポートを提出し、教師の指導を受けるという、実践的な教育でした。 

当初は多紀家が運営費を負担していましたが、火災による再建で資金不足となり、幕府に申し出て江戸市中の医師から年2匁ずつの寄付を集める許可をうけ、これを運営費にあてていました。

しかし次第に寄付が集まらなくなったことから、幕府に支援を願い出ます。

寛政3年(1791)、躋寿館は幕府直轄の漢方医師養成所となり、医学館と改称されました。

但し、これ以後、学生は幕臣つまり幕府医師とその子弟のみに限られました。 

医師養成機関から官医養成機関に変貌したのですが、医官の推挙と医書の検閲を医学館にゆだねたため、その権威は高まりました。

その結果が嘉永2年(1849)に出された蘭方禁止令で、外科や眼科を除き、幕府医師から蘭方医を排除するというものです。

従来江戸の医学界では、内科は漢方、外科は蘭方と棲み分けていたものが、天保年間以降(1830年~)蘭方医が内外両科で効果を上げてきたため、患者を奪われるのを恐れた漢方医たちが医学館のトップだった将軍侍医の多紀元堅に働きかけて、制定させたようです。


蘭方医は「種痘館」を開設

しかし蘭方医も負けてはいません。

多紀が亡くなった安政4年(1857)に、伊東玄朴が主唱して、神田お玉ヶ池にある勘定奉行川路聖謨の下屋敷の一部を借り受け、人々に種痘をおこなう「種痘館」を開設しました。

というのは、江戸時代の感染症の中でもっとも恐れられたのが致死率の高い天然痘だったからで、疱瘡(ほうそう)や痘瘡(とうそう)などと呼ばれて、多くの乳幼児が命を落していました。

島津斉彬の正室英姫は天然痘にかかって容貌がくずれたため人前に出るのをいやがり、面会する場合は御簾を通したという話が伝わっていますが、天然痘にかかると回復しても顔にひどいあばたが残りますから、天然痘の予防は医師たちの悲願でした。

そこで、以前川路がロシア使節と交渉するときに通訳をつとめた蘭方医の箕作阮甫をつうじて川路邸の一部を借り受け、蘭方医たちが資金を拠出して種痘館を開設したのです。


種痘の様子 広瀬元恭著『新訂牛痘奇法』(京都大学付属図書館蔵)


安政5年(1858)に蘭方禁止令は解除されますが、当時はまだまだ奥医師(漢方医)の威権があったようで、蘭方医の池田謙斎はその『回顧録』にこう書いています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、カギ括弧をおぎなっています)

この時分の医界の有様はどうかというと、例の幕府の奥医者(漢方医の奥医師:原注)が非常に幅をきかしていたもので、当時江戸で蘭学をやっておった西洋家などは、この奥医者から手ひどくイヂメつけられて困ったということじゃ。
【倉沢剛『幕末教育史の研究1(直轄学校政策)』吉川弘文館】

しかし種痘をはじめたことで、この力関係が変化してきます。

しかしこの圧迫はかえって西洋医家の反動力を養うて、自然その団結を強固にしたということじゃ。
こんな風に圧政の下に苦しみつつ、しかもますます勇進した西洋医家が、やがて信用を博するようになったについては、例の種痘が最もあずかって力あることじゃ。
私どもの子供のときは、人の子を見るとすぐに「種痘をしたか」と聞くのが一緒の挨拶のようになっていたもので、種痘の効験が初めて、あまねく世に知られ出した時分だから、信用も格別で、それには右の奥医師も如何とも反抗ができなかった。
【倉沢上掲書】

最初の種痘館は開設後半年ほどで、神田で起きた火事のため類焼してしまいますが、まもなく下谷に仮小屋を建て、「種痘所」と名を改めて種痘を再開しています。

そして万延元年(1860)、幕府は種痘所を官立に移し、大槻俊斎を初代の頭取に任命しました。

これによって種痘所は医学館とならぶ幕府の官設機関となり、蘭方医学センターの地位を固めました。


医学所改革

ついで文久元年(1861)には名称を「西洋医学所」と改め、教授(内科)・解剖(外科)・種痘の3科をおいて、蘭方医の育成に着手します。

名称は当初「医学所」とする予定でしたが、奥医師たちから「医学所の名称にふさわしいのは漢方なので、医学館を医学所に改めてほしい」との申し出があったため、「西洋」を冠したようです。

文久2年(1862)に大槻頭取が亡くなり、幕府は緒方洪庵を2代目頭取に任命して大坂から呼び寄せます。

しかし緒方も病身(肺結核)だったことから、緒方が推薦した松本良順が頭取助(頭取代理)に任命されました。

緒方洪庵は適塾の開設者としてよく知られていますが、彼が選んだ松本良順は前回でも述べたように長崎でオランダ医師ポンペの助手を務め、日本で初めて西洋医学を体系的に学んだ、西洋医師としては当時最高の実力者でした。

緒方が就任後わずか10ヶ月で亡くなったため、松本が32歳で頭取に就任し、ポンペの方式にならって医学所を大改革します。

こうして、日本における最高水準の西洋医学教育機関ができました。

文久3年(1863)には名称を「医学所」とあらためていますから、漢方医の圧迫をはね返すほどに世間の評価が高まったようです。


戊辰戦争から生まれた東大医学部

西洋医学の優位を決定づけたのが、戊辰戦争でした。

鳥羽伏見の戦いで負傷した幕府兵たちが続々と江戸に戻ってきましたが、漢方医では銃創の治療法がわからず、彼らは医学所医師たちの助手となって傷口の洗浄や包帯交換を行なうくらいしかできませんでした。

このため医学館の権威は失われ、自然消滅していきました。

いっぽう医学所に対しては陸海軍の附属病院を開設するよう指示があり、医学界は西洋医学一色になっていきます。

慶応4年(1868、9月に明治と改元)6月、新政府は医学所を国営の医師教育機関とし、明治2年には大学東校と改称、その後も名称の変遷はありましたが、現在では東京大学医学部になっています。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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