川路聖謨の末路

井伊大老が川路を左遷

 これまで、4回にわたって川路聖謨を取り上げてきました。

というのも、下級武士の出でありながら異例の出世をした川路は、行く先々の部署で卓越した業績を残した、まさに幕臣のスーパースターだと思っているからです。

島津斉彬が「時事談の友」としたというのも、よく分かります。

しかし川路の最晩年は悲惨なものになりました。

以前、『斉彬vs.直弼 ブレーンで大差』の回で、「井伊直弼が安政の大獄をおこなったことで、勤王佐幕を問わず優秀な人材が多数失われました」と書きましたが、その失われた人材の一人が川路聖謨です。


安政5年(1858)4月23日、彦根藩主井伊直弼が大老に任命されました。

常設職である老中と異なり、大老は臨時職ですが、名目上の権限は絶大でした。

とはいえ、それまでの歴代大老は江戸城内の上部屋という個室に詰めて、老中が御用部屋(老中が詰める大部屋)で協議した書類に目を通して承認するだけで、じっさいには名誉職のようなポストでした。

しかし、井伊直弼は就任したその日から御用部屋の上席に座り、老中の会議に加わりました。

それから13日後の5月6日、井伊が大老になって行なった最初の人事は、川路を勘定奉行から西丸留守居という閑職に左遷することでした。

川路左遷の原因は敦賀と琵琶湖間の運河開削だったという説があります。

これは安政2年(1855)に若狭小浜藩から出された、敦賀と琵琶湖北端の間に運河を掘るという計画のことです。

その効果として、万一外国との戦争が起きて大坂湾が外国艦隊に封鎖されても、北国米を敦賀から新運河で琵琶湖北岸に運び、湖を横切って京都に近い南西端に陸上げすれば、京都に米がすぐ届けられるという理由がつけられていました。

琵琶湖の水運はそれまで彦根藩が一手に握っていました。

しかし、この運河が出来ればその牙城が崩されます。

彦根藩はこの計画に猛反対して幕府に働きかけましたが効果はなく、運河は安政4年(1857)に完成しました。

彦根藩主の井伊直弼は、このような理由付けは小浜藩主酒井忠義では無理で、川路勘定奉行が小浜藩の要請を利用し、京都を守護すると言って幕府・朝廷間の融和を図ろうとしていると考えたのです。

じっさい川路は日露通好条約締結後には、安政の大火で焼失した御所の造営(完成は安政2年)の責任者である「禁裏御普請御用」となって御所復旧の指揮をとり、朝廷に近づいていますから、そのように勘ぐったのかも知れません。

真の理由は分かりませんが、とにかく井伊大老が最初に行なった人事が、川路の左遷でした。


川路聖謨『幕末・明治・大正 回顧八十年史』より


左遷された川路を西郷隆盛が慰問

川路が西丸留守居に左遷されたとき、参勤交代で国元にいた島津斉彬が川路に送った手紙が『川路聖謨之生涯』に掲載されています。

写真だけで活字になっていないのですが、その一部を読み下し文にすると以下のとおりです。


此節御転役のよし驚き入り申し候、
しかし加様の御時節、却って御安心に存じ候、
是迄厚く御世話下され、万端都合も宜敷、忝じけなき次第に存じ候、
さて又異船一条種々入り組み相成り、容易ならざる御時節と恐れ入り存じ候、
今日家来吉兵衛差し立て候に付き、御内々是迄の御礼申し述ぶべく、自書をもって申し上げ候、
以来万事御心易くいたしたく、なお吉兵衛より申上ぐべく候 
【川路寛堂 編述『川路聖謨之生涯』吉川弘文館 609頁】 


斉彬は、川路の異動を聞いておどろいたものの、こういうご時世だから閑職にいた方がかえって安心だとなぐさめています。

そうして、これまで世話になったお礼を言った上で、「家来の吉兵衛」を遣わしたので、くわしい話は吉兵衛から申上げますと書いています。

この「吉兵衛」というのは西郷吉兵衛つまり西郷隆盛のことで、吉兵衛だけで姓を書いていないのは川路がすでに西郷と面識があったからでしょう。

いかにも斉彬らしい心配りです。


安政の大獄でさらに追い打ち

西丸留守居への左遷人事は井伊大老が行なった安政の大獄とは別物でしたが、大獄が始まると川路はさらに追い打ち的に重罰を受けます。

安政の大獄のきっかけとなったのは、13代将軍家定の継嗣問題でした。

外圧で大変な時期に病弱で頼りない将軍では乗り切れないと誰もが考えて、早急に跡継ぎを求めたことから大権力闘争がくり広げられます。

家定の従兄弟でもっとも血筋が近い紀州藩主の徳川慶福(8歳)を押す「南紀派」と、英明といわれて信望がある即戦力の一橋慶喜(22歳)を押す「一橋派」の争いでした。

よく知られているように、この争いは井伊大老を中心とした南紀派が勝ち、一橋派の大粛正となる「安政の大獄」がはじまります。

安政の大獄では、大名・公家・志士・学者だけでなく、幕臣も処罰されました。

幕臣のなかでも外国との折衝に当たってきた海防掛の俊英たちは皆一橋派でしたから、井伊大老は彼らにも容赦なく罰をあたえました。

川路についても井伊は左遷では満足せず、翌安政6年(1859)に川路を隠居・蟄居にして、完全に政治の世界から追放してしまいます。 

そうして彼らの後任には、ものごとを考えない井伊のイエスマンばかりを持ってきたので、幕府の外交能力は急低下しました。

歴史家の松岡英夫氏はその著書の中で、このように語っています。


当時の幕府の高級官僚として行政の実際にあたっていた人物はすでに触れたように、それぞれに多数の徳川家臣団のなかから、その才能と経験を見て選び抜かれた人材であった。
川路聖謨、岩瀬忠震、大久保忠寛、永井尚志、水野忠徳らの名がまず思い浮かぶ。
いずれも能吏中の能吏であり、誠忠誠実の士であり、幕府の屋台骨をしっかりと支えた人物たちであった。幕府を支えた逸材というより、当時の日本を支えた人材だったといい得よう。
しかし井伊大老には、人に対するそういう目のつけどころがまるでなかった。
何年も前の敦賀と琵琶湖間水路開通のときの恨みやら、近くは将軍継嗣問題について一橋派に与した人びとへの処罰やらで、幕府内の報復的人事と思えるやり方で、要路に立っていた人材たちを一掃した。幕府の政治・行政能力はこのときに地に落ちた。
【松岡英夫『安政の大獄 井伊直弼と長野主膳』(中公文庫)】


生麦事件の賠償金問題や長州藩外国船砲撃事件の事後処理など、このあと起こった外国との交渉において、幕府は一方的に押しまくられるだけのぶざまな姿をさらしてしまいますが、その原因が井伊大老が行なったこの報復人事にあったことは間違いありません。


江戸城総攻撃予定日に自殺

桜田門外で井伊大老が暗殺されたのち、島津久光の率兵上京をきっかけに、一橋慶喜や松平春嶽ら一橋派の復権がなされましたが、川路にはもう余力が残っていませんでした。

川路は蟄居中に体調を崩していて、文久3年(1863)に外国奉行に呼び戻されたものの、体調不良を申し出て半年で退任しました。 

さらに慶応2年(1866)には中風(脳梗塞)で半身不随となってしまいます。 

慶応4年(1868,9月に明治と改元)3月15日、江戸城総攻撃が行なわれる予定だった日に、川路は自分の部屋で腹を切った後ピストルで喉を撃って自殺しました。 

低い身分だった自分を取り立ててくれた徳川幕府に、最後まで忠義を示したのです。 

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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