川路聖謨と北方領土

ペリーの1ヶ月半後に来たのは?

 島津斉彬の「時事談の友」だった川路聖謨ですが、彼を語る上でどうしてもはずせないのがロシアとの交渉です。

日本の開国といえば、まず連想するのが「黒船来航」。

嘉永6年(1853)にアメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが軍艦4隻で浦賀に現われて、開国と通商をもとめるアメリカ大統領の国書を手渡したことはよく知られています。

ペリー艦隊が江戸湾に入ったのは6月3日でした。

それから1ヶ月半後の7月18日、こんどはロシアの提督プチャーチンが同様に軍艦4隻をひきいて長崎にやって来るのですが、こちらはあまり注目されていません。

手元にある山川出版社の高校日本史教科書『新もう一度読む山川日本史』でも、ペリーの説明には1頁半つかっているのに、プチャーチンは

「ペリーにつづいてロシアの使節プチャーチンも来航し、開国をもとめた。」

と、わずか1行で済まされています。

しかし、歴史的に見ればロシアは1792年(寛政4年)にエカテリーナ女帝の命を受けたラクスマンが根室で対日通商を求めて以来の、つまりペリー来航より半世紀以上前からの、交渉になります。

加えて、ロシアの要求にはアメリカが求める開国以外のことが含まれていました。

日露間の国境画定です。


ロシアの南下

イギリスやフランス、アメリカなど西欧列強が東アジアに進出するルートは、インド洋・太平洋という「海」でしたが、ロシアだけは陸づたいに東をめざし、樺太や千島列島を南下しました。

18世紀後半になると、南下してきたロシア人と現地の日本人とのあいだで衝突が起きはじめます。

樺太や千島を含む蝦夷(えぞ)地を支配していたのは松前藩でしたが、危機を感じた幕府は最上徳内に命じて、天明5年(1785)に蝦夷地の巡検を、寛政3年(1791)に諸島の検分を行なわせました。

最上は、クナシリ島からエトロフ島、さらにウルップ島にも上陸して調査し、同島で出会ったロシア人に島から退去するよう命じています。

幕府は国防上、千島・樺太を含む蝦夷地を松前藩から取り上げ、直轄地(天領)として統治することに決めて、寛政10年(1798)に目付渡辺久蔵を長とする総勢180人の大調査団を派遣し、蝦夷地の本格的調査を行なっています。

この調査団に加わっていた近藤重蔵は、最上徳内と共にクナシリ島・エトロフ島を調査し、エトロフ島にあったロシア人の十字柱を抜いて、代わりに「大日本恵登呂府」の標柱を立てています。

19世紀になってからもロシアの動きは活発で、文化元年(1804)長崎に来たレザノフが通商を要求して幕府に拒絶されると、文化3年にロシア船が樺太を襲って日本人を捕虜とし、翌4年にはエトロフ島と利尻島を襲撃しています。


エトロフ島標柱(内閣官房ホームページの一部を拡大)


長崎での交渉

長崎にやって来たプチャーチンの要求は、アメリカ同様日本の開国と通商でしたが、それに加えて日露間の国境画定がありました。

ところが鎖国をつづけていた日本には、この案件に対応できる「外交官」がいなかったのです。

ペリーとの交渉で幕府の全権をつとめたのは儒学者(昌平坂学問所所長)の林大学頭です。

というのも、それまで幕府の外交といえば朝鮮通信使の接遇しかなく、儒教の礼法イコール外交だったからです。

ペリーが来たときに幕府の頭にあったのは外国との交渉ではなく、外交儀礼だったことが、この人事配置から窺えます。

プチャーチンに対してもそうです。

代表団首席は大目付格の筒井政憲ですが、彼は学問所の所長代理でした。

しかし筒井は名目上の代表で、実際に交渉を行なったのは川路聖謨です。

老中阿部正弘の指示は、①開国・通商の件はなるべく引き延ばし、②北方の境界の設定は、樺太(からふと)島においては、北緯50度の地を分界とし、千島列島はウルップ島までをなるべく日本の領土とするようにという、虫のいいものでした。

一方のロシアは、当時樺太やウルップ島を含む千島列島をほぼ実効支配しており、樺太だけでなく、カムチャッカ半島から蝦夷地にいたるまでの島々はすべてロシア領だと主張しました。

当時の軍事力を比較すると、日本と西欧列強との差は歴然としていました。

じっさい、ペリーとの交渉では日本が一方的に押しまくられています。

しかし、川路はたくみな弁舌でロシア側の要求をかわし、今は条約は結ばないが、結ぶときはロシアを最優先するとし、国境はあいまいなままにして、ロシアの主張を認めずにやり過ごしました。


下田での交渉

ロシアは当時起きていたクリミア戦争の影響もあり、軍艦をいつまでも長崎に留めておけないことから、一旦これで承諾しました。

しかし、そのすぐ後に日米和親条約が結ばれたため、交渉の第2ラウンドが下田ではじまります。

ところが交渉の途中、安政元年(1854)11月4日におきた安政の東海地震で、ロシア人が乗ってきた軍艦ディアナ号が津波により大破して沈没するという事態が勃発しました。

ロシアヘ帰る船を失ったプチャーチンは、代わりの船を建造したいと幕府に願い出て、幕府はこれを了承します。

そうして、下田からそう遠くない伊豆半島の西側、戸田(へだ)村において、ディアナ号から持ちだした設計図をもとに、ロシア人が日本の船大工を指導してスクーナー船の建造がはじまりました。

建造の責任者には川路と親しい韮山代官の江川太郎左衛門(英龍)が任命され、木材や金属部品などの資材はすべて幕府が調達して運び込んでいます。

こうして建造のメドがついたところで日露交渉を再開し、翌安政2年(1855)2月7日に日露通好条約(和親条約)が締結されました。

この条約のポイントは、樺太をあいまいなまま残す一方で、エトロフ島とウルップ島の間をロシアとの国境としたことです。

現在はロシアが不法占拠している北方4島ですが、日露通好条約によって日本に帰属していることが国際的に認められたものであることから、日本政府は条約が調印された2月7日を「北方領土の日」と定めています。

日露通交条約による国境線(内閣官房ホームページより)


川路の交渉力をプチャーチンが賞賛

川路の外交手腕について、プチャーチンは報告書の中でこのように書いています。

全権団筒井肥前守と川路左衛門尉は、その考え方、表現、われわれに対する丁重さと慎重さにおいて、教養あるヨーロッパ人とほんど変わらない。
ことに川路は、その鋭敏な良識と巧妙な弁舌において、ヨーロッパ中のいかなる社交界に出しても一流の人物たり得るであろう。
 【日本財団図書館ホームページ日露友好150周年記念特別展「ディアナ号の軌跡」より、『プチャーチンの上奏報告書』 】 

条約の交渉そして、締結がスムーズに行ったのは、プチャーチンが、ディアナ号沈没以来、日本人の手厚い行為に心を動かされたということもあったでしょう。

しかし、川路の「鋭敏な良識と巧妙な弁舌」が大きく寄与したことは間違いありません。 

 アメリカのペリーは、「東洋人を相手にするときはおどかすに限る」と言って強硬に振る舞い、いきなり江戸湾に突入して幕府を脅迫しました。

これに対し、プチャーチンは対日折衝において最後まで紳士的に行動しています。

その結果、当時は今とは逆にアメリカよりロシアの方が好感を持たれていました。 

余談になりますが、建造開始から約3ヶ月たった安政2年(1855)3月には、2本マストで、全長25m、幅7m、60人乗りの船が完成し、建造地にちなんで「ヘダ号」と名付けられました。

そして、 このときに覚えた技術によって、幕府はヘダ号と同じ形のスクーナー型帆船を「君沢形」(戸田村は君沢郡にあった)と名付けて、計10隻を建造しただけでなく、ヘダ号建造にたずさわった技術者たちが石川島造船所や、横須賀造船所で後輩の指導に当たっています。

ロシア人が日本の船大工を指導して軍艦を造ったことにより、西洋の造船技術が日本に伝わったのです。

「情けは人のためならず」ですね。




幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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