ポピュリズムは悪か?
ポピュリズムとは
7月の参院選で「日本人ファースト」をかかげた党が躍進して以来、「ポピュリズム」という言葉を聞いたり見たりすることが多くなりました。
そこでインターネットで「ポピュリズム」に関するニュースを検索してみたところ、こんな記事が目にとまりました。
『石破政権の課題 ポピュリズム横行が目に余る』(2025年1月6日 読売新聞 社説)
『「この国を滅ぼしたくない」石破首相の変わらぬ続投意思 背景にポピュリズムへの対抗心』(2025年8月16日 産経新聞 記事)
7ヶ月の間隔がありますが、見出しを並べると石破首相はポピュリズムに迎合しているのか対抗しているのか、わからなくなります。
そもそも「ポピュリズム」とは何でしょうか。
フォーブス・ジャパンの公式サイトでは、『「ポピュリズム」の意味とは?』と題してこのように解説しています。
「ポピュリズム(populism)」とは、政治において一般大衆の感情や不満に訴え、支持を得ようとする姿勢や運動のことを指します。
日本語では「大衆迎合主義」や「人民主義」と訳されます。
社会のエリート層や既存の政治体制を批判し、民衆の利益や意見を直接的に政治に反映させようとする特徴があります。
そして、「使用する際はネガティブな意味合いを持つことに注意」するよう、アドバイスしています。
「ネガティブな意味合い」という裏側には、「大衆の意見は間違い、エリート層の言うことが正しい」「大衆は目先のことしか考えないがエリート層は長い目で考えている」というような前提がありそうです。
さきにあげた読売新聞の社説には、「ポピュリズム(大衆迎合主義)的な政策を進めるだけでは、難局を乗り切ることはできない」とありますから、大衆(=一般国民)に迎合してはいけないと警告しているようにも見えます。
しかし、島津斉彬の事績を調べているブログ主としては、「民衆の利益や意見を政治に反映させる」ことは政治の基本だと思っています。
というのも、前回ものべたように斉彬が下級武士や庶民のことを常に気にかけて藩政をおこない、藩内の士農工商すべての人から神のごとく慕われていたという事実があるからです。
島津斉彬公銅像(朝倉文雄作)
民情を知る
以前のブログ「斉彬の西郷教育(1/3)」で、島津斉彬が西郷隆盛に
「末々の評判(=町のうわさ)に珍しいことはないか」
「昔から下情が上に達しないことが国家の存亡にかかわるというのはお前も知っているとおりだ」
と語っていたことを紹介しましたが、斉彬はつねに下級武士や庶民によりそった政治を心がけていました。
島津斉彬に刀剣係として仕えた川南盛謙が明治37年の史談会で、このように語っています。 (読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、カギ括弧と句読点をおぎなっています)
人情に明るいことは当時の役人も及ばぬ。
民間の米・味噌・醤油・炭・薪など衣食住の物品は日々相場付を取って見られて、
「今日は米が少し高い、これはドウいう事実で高くなった?」
「これはドウであるか?」
「物価が平準を失うようであるがドウいうものか?」
とて、その事由を糺されて「箇様々々にせよ」ということまで命ぜられた。
【寺師宗徳「島津斉彬公逸事附川南盛謙君の事歷『史談会速記録 第149輯』】
「人情に明るい」と言ったのは「民情(士民の実情)をよく知っている」という意味です。
士民の実情がわかっているから、日々諸物価をチェックして、高騰しているものがあればその理由を確認した上で、具体的な対策を指示していました。
現代の日本にあてはめると、「食品の値上げが続いているが、その原因が原材料価格上昇なら当分この状態が続くだろうから、ただちに食品の消費税を下げて買いやすくせよ」と指示するようなイメージです。
今の政治家(誰とは言いません)が、「引き続き注視し、どのような対応が適切であるかよく検討せねばならない」というだけで何もしないのとは大違いです。
納得させる
殿様が指示したことを実行するのは家老以下の藩役人たちですが、斉彬は彼らに指示の内容を理解させ、必要性を納得させるようにしていました。
藩主となった嘉永4年(1851)に家老新納久仰に申し送った書状にはこう書いています。(原文は「四三六 家老へ直書」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』846頁)
すべて国家(藩)のためだからお前たちが念を入れて相談し、この書状に不明な点や不承知のことがあれば何遍でもたずねよ。
何分「上下一和、得心の上」ということが大事で、腹蔵なく評議せよ。
【芳即正『島津斉彬』吉川弘文館人物叢書】
ただ言われたからやるのと、必要性を理解し納得したうえで動くのとではパフォーマンスが大違いです。
現代社会では往々にして「上司は指示しただけ」、「部下はやっているふりだけ」という風潮が見られますが、それでは効果など期待できません。
斉彬は目的を達成するために、部下がわからないことや承服できないところがあれば何度でも質問を受けつけて、この措置が必要だと納得させたうえで動かしていました。
言いっぱなしではなく、実働部隊のマインドづくりまでおこなっていたことで、望んだとおりの成果をあげることができたのです。
(ただしすべてが上手くいったわけではなく、「家老たちが幕府の目を気にして動かないので困っている」と嘆く手紙も残っています)【「四四六 伊達宗城へ書翰」『鹿児島県史料 斉彬公史料第一巻』856頁】
非難する者なし
斉彬はこのような政治をおこなって困窮する人々を救ったので薩摩の気風が一変し、領内のすべての人が心服しました。
さきほどの川南盛謙は、斉彬時代の薩摩の様子をこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいに変えて、一部漢字を平仮名にし、句読点をおぎなっています)
百姓町人に至るまで、なべて皆人気がよろしくなりました。
不平を唱える者は貴賤老幼一人もない。
藩庁の命令等のごときは誰一人非難する者なく、皆遵守するの有様でありました。
【川南盛謙「島津斉彬公の逸事附川南盛謙君の事歷附二十九節附島津家にて製造せし銃砲の図『史談会速記録 第153輯』】
「人気」は「じんき」と読んで、「その地方の気風」という意味です。
つまり武士だけでなく百姓町人まですべての人々の気風、ひいては薩摩藩内全体の雰囲気がよくなったので、藩のすることに不平をいう者はだれ一人おらず、藩庁から出される命令には皆がすなおに従ったと語っています。
現代日本のような政治不信、官僚不信とは大違いです。
「民衆の利益や意見」を「ポピュリズム」と切り捨てずにきちんと対応し、考え違いがあればていねいに説明して納得させる、そういう政治をおこなう指導者が現れてほしいものです。
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