斉彬がニンニクを食べたら城下の風儀が改善?
こっそり視察
斉彬は時間があけば城下を視察していたという話を書きましたが、こっそり見て回っていたこともあったようで、側近の川南盛謙が史談会でこのような話を語っています。 (わかりやすくするため一部を現代文に書きなおしてご紹介します)
斉彬がニンニク料理を所望したが料理番は前例がないと拒否
あるとき斉彬が食事をするにあたって、そばにいた小姓に 「野菜にヒルと云うものがあるそうだが、それを食いたいと思う。料理して出せ」 と言ったことがありました。
当時の鹿児島ではニンニクのことをヒル(蒜)といっており、食べると口がくさくなってまわりの人に嫌われるので無礼にあたるとして人前にでるときは遠慮して食べなかったのですが、野菜の中ではとくに美味しいものとされて、食通の人は鶏肉といっしょに煮て食べていました。
斉彬にそう言われたので、小姓が料理をつくっている御膳所に行き、殿様がヒルを召し上がりたいと命じられたと伝えました。
そうすると、料理番の頭であった石原正左衛門がそれを聞いておおいに驚き、 「ヒルを召し上がるはドウ云うものであろう、御代々様でもヒルを上がった例はない。これは御上の御沙汰でもヒルを召上るは以ての外である。料理番の職掌として、これは断じて上げられぬ」 と、御膳所方の意見として異議を申し出て、つくろうとしませんでした。
この石原正左衛門は、初代藩主(当主としては18代)家久に招かれて島津家の庖丁人となった石原佐渡の子孫で、代々御膳所頭をつとめる料理専門の家柄です。
庖丁人のプライドにかけて、殿様にニンニク料理などだすことはできないというわけです。
いたばさみになった小姓が手料理で提供
困った小姓は、もどって斉彬にそのとおり伝えたところ、斉彬は 「世人の食うものが食われぬと云うことはない。臭みがあろうが人の食う物である。あれの臭いの宜さはない。臭いを嗅ぐ以上は食わねばすまぬから出せ」 と言って納得しません。
たしかに、ニンニクは食べたあとの口臭はひどいのですが、調理中はよいにおいがあたりにただよいます。
斉彬はどこかでそのにおいをかいだのでしょう。
斉彬にこのように言われた小姓はふたたび御膳所に行って殿様の言葉を伝えるのですが、御膳所は、 「それはお前達が悪い。お前達が大変旨いなどと申し上げるからである」 とこちらも断固として応じません。
こまった小姓たちはみんなで相談して、 「仕ようがない。殿様は何も彼も御承知であるからから、仕ようがない。面倒臭い御膳所に拘わらず手料理しよう」 と決め、誰かの家に植えてあったものをもってきて庭先で煮て差し上げました。
そうしたところ、斉彬は、 「かように旨い物を今まで何故に出さぬ」 と大いに喜んだそうです。
それで、お召し上がりになってしまった以上は仕方がないということで、それからは御膳所で調理して、常に食べられるようになりました。
殿様がニンニクを食べた話が伝わって城下の風儀があらたまる
面白いのはここからです。
殿様がヒルを召し上がったという話が一般に伝わって、殿様がそのようなものをご存じのはずがないから、これはどこかでヒルを煮ているところをご覧になったにちがいない、城下の武士や町人はそう考えました。
川南によると、斉彬は城下のようすをさぐるために、お城の掃除口とよばれる人足などが出入りする門からこっそり抜け出していたのではないかということです。
殿様がヒルを知っていたというはなしが御膳所から伝わると、これはどこまで殿様の目が届いているか分からないから、恥ずかしいふるまいをしないように注意しようということで、武士だけでなく町人にいたるまで、だれかれとなくお互いにいましめて、行いが急速に改善したそうです。
【川南盛謙「島津斉彬公逸事及川南盛謙君の事歴附三十節」 明治37年10月29日 史談会速記録第149輯 】
川南の話では、斉彬が在国中はひとびとの様子が違っていたそうです。
当時は若者たちがバンカラぶりを競っていて、わざと鬢(びん=頭の左右の髪)を刈りこんで乱れた髪型にしたり、傷の付いた容貌で強勇ぶってみたりと、見苦しい姿を自慢するような風潮がありました。
このため、容貌検分といって外見のよろしくない若者を番頭(ばんがしら)の自宅によびだして「ああせよ、こうせよ」と注意する制度まであったほどです。
このように上役から注意されてもなかなか風体を改めようとしなかった若者たちですが、斉彬が帰国したのちは、身だしなみを整えて外出するようになりました。
それは、どこで殿様に出会うことになるか分らないので、そうなったときに恥ずかしくないよう注意しようと、誰もが気を引き締めていたからだということです。
斉彬を尊敬していたのは武士にかぎらず百姓町人も同様でしたから、斉彬が藩主の間は藩に対して不平をとなえる者はおらず、藩庁の命令は皆が遵守したそうです。
鹿児島出身の名経営者として真っ先に名をあげられるのが京セラ創業者の故稲盛和夫さんですが、彼は「トップが社員から尊敬されていれば、社員はトップの話すことを100%納得して聞いてくれます」と語っています。
斉彬と薩摩士民の関係も、まさにそのような状態だったのでしょう。
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