トランプ関税と生麦事件賠償金

ふっかけられた条件を丸呑み?

 難航していたアメリカとの関税交渉が決着したという報道がながれました。

マスコミは25%の関税が15%に下がったと評価していましたが、もともとは2.5%だった税率をとつぜん25%と言い出したものなので、従来の税率からみれば12.5%アップしています。

決着といえば聞こえが良いですが、要するに参院選でも負けて完全少数与党に転落した石破政権がアメリカの言いなりになって、ふっかけられた条件を丸呑みしたということでしょう。

最悪の事態を予想していたが少しマシだったということで交渉発表日の株価はいったん上がりましたが、内容を精査すると日本に不利なことがはっきりしたため、翌日からは下がっています。

ウオール・ストリート・ジャーナル日本版の「トランプ氏構想の政府系ファンド、日本の5500億ドルが後押しか」と題した記事には、こう書かれていました。(記事の要約版

過去の貿易協定にも投資の約束はありましたが、今回の日本との合意は異例だと、ハーバード大学で日米関係プログラムを指導する日本政治専門のクリスティーナ・デイビス教授は述べています。
「今回の合意が異なるのは、大統領の指示で投資を行い、利益が米国に入る点です。
それは強制的で社会主義的で、過去の貿易交渉のどの例とも異なるものに見えます」と彼女は語りました。

これを読んでブログ主が連想したのが、生麦事件の賠償金です。

ご存じのように、生麦事件とは文久2年(1862)8月21日に神奈川宿に近い生麦村で起きた事件で、江戸から帰る島津久光の行列に正面から乗り入れてきた騎乗のイギリス人4名(男性3名、女性1名)に久光の駕籠を警護する薩摩藩士が斬りつけ、1名が死亡、2名が重傷を負った事件です。

自国民が殺害されたことで、イギリス政府は即座に動きました。

島津家の博物館である尚古集成館の芳即正(かんばし のりまさ)元館長は、そのときのイギリスの対応をこう記しています。(読みやすくするため、漢数字をアラビア数字に変えています)

イギリス代理公使ジョン・ニールは、すぐに幕府に対し犯人逮捕を要求した。
しかし一向にそれが実現しないため、ニールは翌年2月、8隻からなる艦隊を横浜に入港させ(3日~12日)、武力を背景に要求を貫徹しようとした。
砲艦外交である。
(中略)
ニールは19日、幕府に謝罪と10万ポンドの賠償金を要求した。
さらに薩摩に艦隊を派遣して、犯人を逮捕し、イギリス士官の面前で斬首すること、2万5000ポンドの賠償金を要求することを告げた。
【芳即正『島津久光と明治維新』新人物往来社】

ここでイギリス政府が幕府と薩摩藩に要求した金額ですが、歴史書には「10万ポンド」または「10万ポンド(40万ドル)」と書かれていることが多く、どのくらいの金額なのかピンときません。

しかし、旧幕臣戸川残花の『幕末小史』をみると、「生麦事件にて十万ポンドステルリング(スターリングポンド=英ポンド)、時価二十六万九千六十六両二分二朱余を払ひぬ」と書かれています。

つまり10万ポンドは、ほぼ27万両ということです。

これを1両=10万円として現在価値におきかえると約270億円というとんでもない額で、薩摩藩はその4分の1ですから約70億円を要求されています。


イギリス代理公使ジョン・ニール(ウイキメディアコモンズ)


幕府には罰金、薩摩藩には賠償金・慰謝料

請求する理由ですが、アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』(坂田精一訳 岩波文庫)によると、

「大君(将軍)に対しては、殺人犯人の逮捕に何らの努力も示さず、白昼自己の領土内でイギリス人が殺害されるのを放任したという廉(かど)で、罰金十万ポンドを支払うことを要求する」

「薩摩藩主に対し、一名ないしそれ以上のイギリス官吏の面前でリチャードソン殺害犯人の審問と処刑を行なうこと、ならびにリチャードソンの血縁者及びマーシャル、クラーク、ボラデール夫人などに分配すべき二万五千ポンドの支払いを要求する」

とあります。

なお、このニールの要求を老中たちに告げたイギリスの通訳官ユースデンは、

「もしこの要求を拒絶すれば、重大な災害が日本の国にふりかかるであろう」

と脅しています。

幕府には、英国人が死傷したのは大名の監督責任を怠ったためだとして、罰金270億円を要求。

薩摩藩に対しては、一人死亡・二人大けが・一人は無傷だったが怖い目にあったから、損害賠償と慰謝料あわせて70億円を支払えという要求です。

日本を植民地並みに見下して、こんな金額をふっかけたとしか思えません。

じっさい1864年2月9日のイギリス下院議会ではこの金額が不当であるという意見も出ています。

幕府と薩摩藩の双方に賠償を要求したラッセル外相の訓令は、不当なものであり、もしヨーロッパの一国で生麦事件と類似の犯行がおこなわれた場合には、その十分の一の金額でも充分とみなされたであろう、という批判の声もあがったのである。
【萩原延壽『薩英戦争 遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄2』朝日文庫】


薩摩は拒絶して戦争に

イギリスの脅迫におびえた幕府は、以前にご説明したように、結局支払いに応じました。

いっぽう薩摩は、「大名行列に馬で乗入れてきた方が悪い、それを無礼討ちにするのは当然だ」と主張して、支払いに応じません。

それでイギリス艦隊が薩摩に取り立てにやって来て、薩英戦争になってしまいました。

脅しに屈する幕府と、折れない薩摩の違いです。

結果はご存じのように、人的被害はイギリスが大(死傷者数:イギリス63名、薩摩18~23名)、物的被害は薩摩が大(鹿児島市街地の半分が焼失)で、福沢諭吉は引き分けと判定しています。

勝負なしの戦争というのは、薩摩の方はイギリスの軍艦を撃って二人の将官まで殺したけれどもその船を如何(どう)することも出来ない、
また軍艦の方でも陸を焼き払うて随分荒したことは荒したけれども上陸することは出来ない、
双方共に勝ちも負けもせずに、英の軍艦が横浜に帰った
【福沢諭吉著 富田正文校訂『新訂 福翁自伝』岩波文庫】

ちなみに、薩英戦争後の和平交渉で薩摩は2万5千ポンドの支払いを認めましたが、金は幕府から借りて払い、その後の明治維新で幕府がなくなったため返済せずに終りました。

さてトランプ大統領に話をもどすと、80兆円投資してそのうち90%がアメリカの利益ということは72兆円をアメリカに差し出すようなもので、SNSでは「植民地並み」という書き込みも見られます。

合意文書がない(!)ので正確なところは不明ですが、アメリカの発表を聞くかぎりでは、確かに宗主国が植民地から収奪していた時代を思わせる屈辱的な内容です。

島津斉彬と久光は日本を西欧列強の植民地にさせないために奮闘し、明治維新をなしとげて日本を近代工業国家に変え、植民地化をふせぎました。

維新の157年後にこのような状況におちいるとは、思ってもみなかったでしょう。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

0コメント

  • 1000 / 1000