日本民族の優秀性
ずばぬけて優秀な国民
参議院選挙期間中はテレビやインターネットでは各党の街頭演説の様子がたくさん流れていましたが、そのなかである政党の代表が「日本人は世界で最高の民族です」と語りかけているのが目にとまりました。
というのも、幕末に日本を訪れて日本人に接した外国人たちが、異口同音に同じことを言っていたからです。
たとえば嘉永6年(1853)に黒船でやってきたアメリカ東インド艦隊司令長官のペリーは、その遠征記録において日本民族をこのように評価しています。
歴史を見ても分かるように、彼らは賢く快活で、その歴史が示すように、明敏さも兼ね備えた非常に勇敢な民族であり、(少なくともわれわれの意見では)東方の文明諸国の中ではずばぬけて優秀な国民だと思われる。
【M・C・ペリー F・L・ホークス編纂 宮崎壽子監訳『ペリー提督日本遠征記 上』角川ソフィア文庫】
ペリーは「歴史を見ても分かるように」と書いていますが、アメリカではペリー来航の前年となる1852年夏に、1冊の日本研究書が出版されました。
そこには、次のような記述があります。
島嶼(とうしょ)で構成された日本。
多くの良港。
創意工夫の精神に満ちた民族。
豊富な資源と商業をはぐくむ能力。
そこには十分な数の人口が存在する。
この国を治める諸侯も高い知性を示している。
こうした日本人の能力、エネルギー、企業家精神を鑑みると、アジア諸国の中で一頭地を抜く存在になる可能性が高い。
(以下は別章の記述)
日本人は誇り高い民族であり、騙したり、横領したり、盗んだりする行為をひどく軽蔑するのだ。
この点が支那の人々と日本人が全く違う点だといえる。
【チャールズ・マックファーレン著 渡辺惣樹訳『日本1852』草思社文庫】
著者のマックファーレンは日本に来たことがなく、長崎にいたオランダ商館員たちの手記を主な情報源としてこの本を書いたようです。
日本人についてはかなり好意的に書かれているというか、賞賛しています。
ペリーは事前にこの本で知識を仕入れてから来日し、書かれていたことが決してウソではないと分かったから、さきに紹介したような表現になったのでしょう。
じっさいに日本人とふれあうことで、「確かにずばぬけて優秀な国民だ」と実感したのです。
民度の高さ
日本人の国民性・民度の高さを評価する外国人も多くいました。
たとえば安政5年(1858)に日英修好通商条約締結のため来日したイギリス使節エルギン卿の秘書ローレンス・オリファントは、日本人についてこのように書いています。
われわれは日本を去るに当って、昔のケンペルと完全に意見が一致した。
彼は長い年月その地に滞在したのち、国民の性格に対する彼の判断を、つぎのように要約した。
「よく団結し、親和的で、神々は当然崇敬すべく、法律は当然遵守すべく、主君には当然服従すべく、隣人は当然愛し尊敬すべく教え込まれていて、慇懃、懇篤、高潔である。
美術工芸の面では他のすべての国民を凌駕している。
彼ら自身の間の相互の商売交易によって富み、優秀な国をつくっている。
勇敢であり、生活に必要とするものはすべて豊富に恵まれている。
しかも平和と平穏の成果を享受している」
ザビエルはその長い布教の経験の結果としてこう述べている。
「私の判断の及ぶかぎりでは、日本人はこれまでに発見された他のどこの国民よりも、徳行と廉直の点で優れている。
その性質は温和で、瞞着を排し名誉を切望し、名誉こそ最高のものであるとしている。
貧困は彼らの間ではふつうのことで、苦労して貧困に耐えるけれども、それを決して不名誉のこととはしない」
【ローレンス・オリファント著 岡田章雄訳『エルギン卿遣日使節録』雄松堂書店 新異国叢書】
ケンペルというのは17世紀末にオランダ商館に勤務したドイツ人医師で、その著書『日本誌』は初めての本格的な日本研究書としてヨーロッパ各国語に翻訳され、日本研究の必読書となりました。
ケンペルから約160年遅れて来日したオリファントも、日本人の優秀さについてケンペルの意見に賛同し、さらにケンペルの150年前に来日したザビエルが日本人の道徳的な資質を「他のどこの国民よりも優れている」と賞賛したことにも触れています。
日本人の国民性というか民度の高さは、ザビエルの来た戦国時代からオリファントが見た幕末まで、変わっていなかったということです。
ローレンス・オリファント(ウイキメディアコモンズ)
先進文明をすばやく吸収
万延元年(1860)と翌文久元年の二度にわたっに日本を訪れたイギリス人のプラントハンター(未知の植物の採集者)フォーチュンは、日本人が有用なものをすばやく取り入れることについて、こう述べています。
私はすでにこの模倣について、日本人とシナ人との間に存在する、いちじるしい相違の原因を述べたことがある。
シナでは「古い慣習」が、あらゆる外国品輸入の防壁となるが、日本人は先進文明を示されると、機敏に採用する。
【ロバート・フォーチュン著 三宅馨訳『幕末日本探訪記』講談社学術文庫】
新しいものを取り入れるだけでなく、もともとの技量もヨーロッパよりすぐれていると感心する人もいました。
フォーチュンと同じ万延元年(1860)に江戸を訪れたドイツ人地理学者リヒトホーフェンは、市場にならぶ品々を見て、その精巧さに驚嘆しています。
この国民の産業は驚嘆すべきものがある。
市場を歩いて、店々が軒を連ねているのを見、またそれらのどの店にも驚くほど多様な日常生活の必需品にあふれ、
ヨーロッパではまだ多くの方面で達成されていない完成度にあるのを見ると、
完全に孤立し外界との交流のない国民がこれらのすべてを生産し、様々な方面でそのような高みに発展することがどうして可能であったのか、
それを理解するのは困難である。
【フェルディナンド・フォン・リヒトホーフェン著 上村直己訳『リヒトホーフェン日本滞在記』九州大学出版会】
リヒトホーフェンは江戸で商店の店先にならんだ日用雑貨を見て、そのレベルの高さはヨーロッパ以上だと驚き、長年鎖国をつづけてきた日本人がなぜこれほどの品物をつくり出せるのかと当惑しています。
日本人にはこのような素地があったから、世界で唯一、短期間で欧米の先進国に追いつくことができたのです。
そういう民族性は、戦国時代から幕末まで変わらなかったように、今も時代を超えて受け継がれているはずです。
失われた30年といわれますが、その原因は日本政府が国民に手枷足枷をはめて動けなくし、自力での発展を妨げてきたように思えてなりません。
0コメント