江戸庶民の学力(その2 数学)

一家に一冊『塵劫記』

 江戸時代の寺子屋教育の基本は、「読み、書き、そろばん」でした。

いいかえれば、「読解力、文章表現力、計算力」になります。

ということで前回は「読み、書き」=「国語」でしたから、今回は「そろばん」=「数学」のお話です。

江戸時代に出版された書物でもっとも多く読まれた本、それはよく知られている滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』でも貝原益軒の『養生訓』でもありません。

吉田光由が寛永4年(1627)に出した『塵劫記(じんこうき)』という、数学の教科書です。

なぜ数学の教科書がベストセラーになったのかというと、江戸時代には貨幣経済が確立したので、社会のさまざまな場面で計算力が必要となったからです。

日本では律令制時代に作られた皇朝十二銭以来独自の通貨を鋳造せず、中国から輸入した銅銭をながらく使用していましたが、江戸幕府を開いた徳川家康は国家としては650年ぶりに独自の通貨(金貨・銀貨・銭貨)を発行し、物流の発達にともなってこれらの通貨が全国に流通するようになりました。

ただし東国は金貨、西国は銀貨など、地域によって主に使われる通貨が異なったうえ、十進法と四進法が混在するなど、現在より複雑な計算が必要でした。

『塵劫記』はソロバンの使い方からはじまって、両替の計算(ex.「銭1貫文につき銀17匁なら、銭6貫800文は銀いくらになるか」)、米の値段の計算(ex.「銀10匁につき米4斗3升2合の相場なら、米810石はいくらで売れるか」)、面積計算(ex.「長さ35間2尺6寸、横18間4尺の土地の広さは」)などさまざまな計算法、さらには「油1斗を3升マスと7升マスだけをつかって二人で分けるには?」のような問題まで書かれた、実用的な数学書です。


吉田光由『新編塵劫記 下巻』(国立国会図書館デジタルコレクション)


上の画像の左頁が「十一 あぶらわくるさん(油分け算)の事」。

本文は、「油一斗を二人してわけ取ル時に、三升ますと七升ますにてわくるときは、まづ三升ますにて三ばいくみて七升ますへ入レレば、三升ますに二升のこる、コノ時、七升ますに有ルをもとの桶へあけて、此ノ二升を七升ますへ入レ、三升ますに一はい入レレば、五升づつとなる」。(読みやすくするため、片仮名と読点をおぎなっています)

右頁は「十 きぬ盗人をしる事」で、内容は「盗人が橋の下で絹布を分けようとしている。8反ずつ分ければ7反足らず、7反ずつ分ければ8反余る、盗人の数と布の数はいくらか?」です。

つまり、盗人の数をNとおいて「8Nー7=7N+8 となるNの値を求めよ」という問題です。

『塵劫記』はその実用性から海賊版も多く作られ、江戸時代から明治にかけて約300種の違版が出版されました。

江戸時代中期以降は寺子屋で教科書として使われており、各家庭に1冊あったとさえいわれています。

その結果庶民の数学力は向上し、「江戸時代中期には多くの人が割り算もできるうえ、平方根や立方根を計算できる庶民もいた」(日本経済新聞電子版 2016年9月6日)ほどになりました。

当時庶民の数学レベルがこれほど高かった国は日本だけだったでしょう、というのも西洋諸国では数学は大学で教える学問だったからです。


遺題継承と算額

江戸時代の数学レベルをさらに高めるきっかけとなったのが、寛永18年(1641)に吉田が出した『新編塵劫記』です。

これは『塵劫記』を大きく書き改めたものですが、吉田はその巻末に答の書かれていない問題(遺題)12題を加えました。

読者への挑戦です。

榎並和澄(えなみ ともずみ)は承応3年(1653)に『参両録(さんりょうろく)』を刊行しましたが、この中に塵劫記の遺題の答を載せ、自らも8問の遺題をあげました。
この後、他人の遺題を解き、自分の遺題を載せるということが流行し、数学もそのために発達したのです。
この発達の線上に関孝和(せき たかかず)や建部賢弘(たけべ かたひろ)がおります。
【佐藤健一「日本の数学『和算』とは」『庶民の算術展 図録』2005年 名古屋市科学館】

吉田の遺題によって難問のリレーが始まり、新たな数学書がつぎつぎと出版されました。

引用文にでてくる関孝和は筆算による代数計算を発明し、当時世界最高水準となる小数点以下10桁まで正確に円周率の値を導き出した「算聖」、建部はその高弟で、ともに日本独自の数学「和算」の発達に大きく寄与しました。

江戸日本の特徴は庶民もこの難解な高等数学にチャレンジしていたことで、その証拠となるのが現在も日本各地に残っている「算額」です。

算額とは板に数学の問題と答(解法はない)を記して神社や寺に奉納した絵馬のことで、本を出版できるほどの知名度や資力のない人たちが利用しました。

当時の神社仏閣は多くの人が訪れますから、いちばん人目につきやすい場所です。

現代におきかえると、マスコミで発表できない一般人がSNSを使って「俺はこんな難しい問題を解いてこういう答を得た、君たちは解けるかな?」と挑発しているようなものです。

このような算額は現在も日本中に残っていて、青森県から長崎県まで約1,000枚が確認されています。

なかには超高度な算額もあります、たとえばこれ。

寒川神社算額(復元、部分、寒川神社所蔵)いちばん左の図が「ソディーの6球連鎖の定理」


江戸時代における和算のレベルは、世界中の数学者を驚かせるような水準をもっていた。
1921年、同位元素の発見でノーベル化学賞を受賞したイギリスのフレデリック・ソディーが1936年に発表した「ソディーの6球連鎖の定理」は、神奈川県の寒川神社に1822年に掲げられた算額に、すでに記されていたのである。
こうした江戸時代の和算のレベルの高さは、日本人よりもむしろ欧米の数学者に衝撃を与えた。
【市川寛明・石山秀和『図説 江戸の学び』河出書房新社】

アジア・アフリカ諸国のなかで日本だけが短期間に近代工業国家となれたのは、識字率の高さに加えて、庶民までが数学を理解していたという、基礎学力の高さがあったからです。

日本はこの30年間サラリーマンの所得が上がっておらず、G7で日本だけが成長から取り残されています。

幕末にこれほど優秀だった民族が、150年間で退化してしまったとは思えません。

教育か政治か、何かが間違っているはずです。

7月の参院選はかならず投票に行きましょう。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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