江戸の技術力
ペリーもおどろいた日本の職人技
江戸時代の科学や技術というのは、マスコミなどでもあまり取り上げません。
一般的には、「鎖国もしていたし、西洋にかなり遅れていたのだろう」くらいのイメージしか持たれていないと思います。
しかし、西洋における17世紀の「科学革命」や18世紀の「産業革命」のような大転換期こそなかったものの、江戸の科学者や職人たちの力量は決して西洋に劣ってはいませんでした。
1954年に箱館を訪れたペリーは日本の職人たちの技術におどろいて、このように語っています。
実際的および機械的な技術において、日本人は非常に器用であることが分かる。
道具が粗末で、機械の知識も不完全であることを考えれば、彼らの完璧な手工技術は驚くべきものである。
日本の職人の熟達の技は世界のどこの職人にも劣らず、人々の発明能力をもっと自由にのばせば、最も成功している工業国民にもいつまでも後れをとることはないだろう。
人々を他国民との交流から孤立させている政府の排外政策が緩和すれば、他の国民の物質的進歩の成果を学ぼうとする好奇心、それを自らの用途に適用する心がまえによって、日本人はまもなく最も恵まれた国々の水準に達するだろう。
ひとたび文明世界の過去および現代の知識を習得したならば、日本人は将来の機械技術上の成功をめざす競争において、強力な相手になるだろう。
【M.C.ペリー F.L.ホークス編纂 宮崎壽子監訳『ペリー提督日本遠征記 下』角川ソフィア文庫】
機械が未発達で道具も粗末なのに、これほどのものを作りあげる日本の職人たちの技量に感心しているのです。
ペリー来航のころに薩摩で作られていたカットガラス「薩摩切子」も、西洋のガラス職人が使っているグラインダーという機械がなかったため、棒ヤスリで根気よくカットして西洋に劣らない作品を生みだしています。
現代でいうところの「超絶技巧」も、江戸時代の職人たちにとってはごく普通の仕事でした。
江戸テクノロジーの極致「万年時計」
ペリーを驚かせた日本の職人たちの技術、その最高峰といわれるのが、国の重要文化財に指定されている万年時計(万年自鳴鐘)です。
東京科学博物館に展示されている「万年時計(万年自鳴鐘)」
これを作ったのは田中久重、「からくり儀右衛門」として知られる、東芝の創業者です。
写真ではわかりにくいのですが中央部が六面体になっており、各面に西洋時計、和時計、曜日、二十四節気、十干十二支(旧暦の日付)、月齢が表示され、頂上のガラスドームは太陽と月の運行を示す天球儀になっています。
しかもぜんまいを一度巻くだけでこれらの機能が1年間動き続けるという、画期的な時計でした(くわしくはこちらをご覧下さい)。
とくに和時計の機能は、日本の職人がなしとげた驚異の技といえます。
というのは江戸時代の日本では「不定時法」がつかわれていたので、季節によって1時間の長さが異なっていたからです。
具体的にいうと夜明けから日没までの昼と夜をそれぞれ6等分して、1刻(いっとき)をさだめていました。
万年時計でも西洋時計は現在と同じ24時間均等ですが、和時計の方は昼と夜で1刻の長さが違うし、季節によってそれがさらに変化します。
万年時計の和時計は、この季節による変化に応じて文字盤の数字が動く「割駒式文字盤(わりこましきもじばん)」を使っています。
そもそも西洋の機械時計が日本に伝わったのは、天文20年(1551)にフランシスコ・ザビエルが大内義隆に贈ったものが最初といわれていますが実物は残っていません。
現存している最古のものは静岡県の久能山東照宮にある、慶長17年(1612)にスペイン国王から徳川家康に贈られた時計です。
機械時計は中国など東洋の国々に持込まれましたが、不定時法の国では役に立たず、王侯貴族の飾り物になっただけでした。
しかし、唯一日本の職人だけが、これを自分たちが使えるものに改良したのです。
職人たちは試行錯誤をかさねながら、さまざまな和時計を生み出しました。
東京銀座にあるセイコーミュージアム※に展示されている各種の和時計は、江戸職人のすごさを実感させてくれます。※要予約
セイコーミュージアム銀座3Fに展示されている和時計(ブログ主撮影)
シュリーマンも日本の職人技を絶賛
トロイア遺跡の発掘で有名なシュリーマンは、貿易商としてヨーロッパ各地でビジネスをおこない巨万の富を築いたのち、年来の夢だったトロイア遺跡発掘に着手する前に、世界漫遊に出かけました。
トロイア発掘の6年前となる1865年(慶応元年)に、インド・中国の次に日本を訪問しています。
それまでに出会った旅行者たちがみな「感激しきった面持ちで日本について語ってくれた」ことで、シュリーマンは「この国を訪れたいという思いに身を焦がしていた」のですが、1865年6月4日(和暦では5月11日)ついに横浜に上陸しました。
その後つてをたよって江戸のアメリカ公使館を訪問し、そこを拠点にして日本橋や浅草寺など江戸の繁華街を訪ね歩きます。
好奇心旺盛な彼は浅草寺界隈にあるあるさまざまな商店だけでなく、境内に立ち並んでいる芝居小屋や見世物小屋も全部見て回り、特にコマの曲芸には感心して「ヨーロッパやアメリカで興行することをすすめたい」と述べているほどです。
シュリーマンは日本でさまざまな文物にふれてその見事さに驚き、このように書き記しました。
もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。
なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。
【ハインリッヒ・シュリーマン 石井和子訳『シュリーマン旅行記 清国・日本』講談社学術文庫】
最初に述べたように、一般には江戸時代というのは科学・技術が未開の時代と見なされてきました。
しかし、そうではありません。
明治日本の急速な近代化を可能にしたのは、ヨーロッパ文明を熟知しているシュリーマンや米国のペリーを驚嘆させた、江戸職人たちの技術力です。
「職人技」というほめ言葉があるように、日本は昔から職人を尊重してきました。
日本が誇るモノ作り、この伝統を大切にしたいですね。
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