部下が上司をあやつるのは日本の伝統?

官僚が好き勝手に制度をいじくっている

 インターネットの論説を見ているとき、あるブログ(『新宿会計士の政治経済評論 2025/

2/3』)に、「日本政府(というか官僚ども)が制度を好き勝手いじくった結果、国民経済を疲弊させてまで強引に税金を強制徴収し続けている実態については、エビデンスとともに、もっともっと世に広まってよい」と書かれているのが目にとまりました。

それによると、これまでは新聞やテレビなどのオールドメディアが官僚と結託して自分たちに都合の良い情報しか流さないようにして隠していたのに、SNSの発達によってその欺瞞がエビデンス付きで暴かれるようになり、官僚の実態が国民に知られ始めたということです。

本来であれば、官僚の仕事というのは政治家が決めた政策を誠実に遂行していくだけです。

しかし今の日本はそうではなく、官僚が政策を決めて、それを政治家が立法という形で後追いしているように見えます。

つまり部下であるべき官僚が上司となる政治家(各省の大臣・副大臣や族議員)をあやつっている、ということです。

じつはこのような状態は現代に限ったことではなく、江戸時代においても見られました。

英国公使パークスの伝記の中に、幕末における大名と家臣の関係がこのように書かれています。

旧日本ではいつもほとんどそうなのだが、大名というものは名目上の存在にすぎず、実権は家老の手中にあった。
家老の多くは世襲制で、主君と同じく、ほとんど無力であった。
事実、旧日本では、古今東西を通じて、支配すべき人間が支配せず、実際に支配した者は政務を担当する権利はなく、ただ次々と陰謀によって実権を奪った人たちであった。

【F.V.ディキンズ 高梨健吉訳『パークス伝 日本駐在の日々』 平凡社東洋文庫】

つまり、大名は名目だけの存在で実際に政治を行うのは家老だが、その家老もじつは自分の部下にあやつられているのだと看破されているのです。

『パークス伝』の著者ディキンズは英国海軍軍医として中国と日本で勤務し、退官後横浜で医師および弁護士として開業、のち帰国してブリストル大学の日本語助教授などを務めています。

彼は『百人一首』や『竹取物語』『仮名手本忠臣蔵』など多く日本文学を翻訳しており、日本語に精通して日本についての知識も豊富だったので、日本の実態をみぬいたのでしょう。


家来が優秀なら名君

最後の将軍徳川慶喜も、明治42年に幕末をふりかえってこんなことを語っています。

あの時分は諸侯というものは、つまり家来に良い者があれば賢人、家来に何もなければ愚人だ、家来次第といったようなもの。
そこで主人がそう言っても、家来が承知しなければそれは通らない。
それでまだ言わぬと(家来が)言うのだ。

けれども(藩主は)言ったんだ。

此方では当人が言ったからという、家来の方ではまだそういうことは言わぬ、こういうわけ。

【渋沢栄一編 大久保利謙校訂『昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談』 平凡社東洋文庫】

名君も暗君も家来次第と語った背景はこうです。

慶喜が大名に説明して了解をえても、次の日にその大名の家来がやってきて「主人は承諾していません」と言ってひっくり返してしまうことがたびたびありました。

藩主は名目上の決定権者にすぎず実際に物事を決めているのは家来なのに、会議に出てくるのはあやつり人形の藩主というのでは藩主と交渉する意味がありません。

それを皮肉って、慶喜は「家来次第」と言ったのです。

徳川慶喜(国立国会図書館デジタルコレクション)


家来にあやつられない藩主

江戸時代の藩主は世襲ですから、本人の能力とは関係なくそのポストについていました。

とはいえ、藩によっては家来にあやつられない殿様もいました。

さきほどのディキンズは『パークス伝』に、このようなことも書いています。

水戸や薩摩の藩主(または後見者:原注)は活動的な政治家であった。
しかし大多数の藩主は家老にあやつられる傀儡(かいらい)にすぎず、またその家老たちも、下級武士の党派にあやつられている場合が多かった。
したがって『元治夢物語』や『近世史略』(いずれもサトウ氏英訳あり:原注)が断言しているように、幕府に対して反対をそそのかしたのは、主として下級武士や浪人たちであったと思われる。

彼らは陰謀をたくらむことによって地位と富を得るか、少なくとも藩士に召抱えられる機会をつかもうとした。

【F.V.ディキンズ前掲書】

水戸藩主とは斉昭(烈公)のことですが、「藩主または後見者」とあるので、薩摩の方は斉昭と同時代の斉彬だけでなく、つぎの藩主忠義を後見した久光も含まれているようです。

たしかに水戸斉昭は家老にあやつられるような人物ではありませんが、藤田東湖や戸田忠太夫など優秀な家臣たちのサポートを受けていました。

薩摩藩士の中原猶介が江戸における各大名の風評を伝えた中にこのような一節があります。

水戸は臣下に博識の名家多し、補佐を以て其名半ば以上に貴し、福井も然り、独り薩侯は臣下に人なく補佐なし、薩州には只公一人あるのみ。
【「江戸其他諸藩ニオイテ御名誉ノ事」『島津斉彬言行録』岩波文庫】

この風評の通り、薩摩藩には斉彬をサポートできる家臣はいませんでした。

旧薩摩藩士の寺師宗徳が明治35年の史談会でこう語っています。

斉彬公時代は臣下よりの献策はひとつもない、みな斉彬公の存慮より出た事柄ばかりである。
島津家の歴史は、外に現れずして事実の残って居ることの多き所以はみなそれである。
主人から命令して家来が遵奉したばかりである。

他の御家のように名臣賢相が居て献策したようなことは斉彬公時代はひとつもない。

【寺師宗徳「史談会々務報告附四節」『史談会速記録 第112輯』】

久光が中央政治に関与した文久2年(1862)以降においては、斉彬の人材育成策で育てられた西郷隆盛や大久保利通、小松帯刀などそうそうたる家臣が頭角を現わしてきました。

しかし、斉彬が藩主になったころは全く違います。

以前、斉彬が親戚の福岡藩主黒田長溥に「国許で相談できるのは久光だけだ」と嘆いた話をご紹介したことがありますが、そんな状態から人材育成をはじめて、明治には多くの偉人を薩摩から輩出するまでにいたりました。

斉彬を見るまでもなく、部下はトップ次第で変わってきます。

官僚にあやつられるのではなく、官僚を使いこなすのが政治家の責務です。

しかしながら現代の政治家も世襲が多いので、江戸時代の藩主と同じように本人の能力以上のポストに就いている人がたくさんいるように見受けられます。

幕末の下級武士や浪士たちが地位と富をねらって家老や藩主を動かしていたように、現代の官僚も昇進や高収入の天下り先をねらって政治家を動かしているのでしょうか。

残念ながら国民は官僚を選ぶことができませんが、政治家は選べます。

少しでもマシな政治家を選ぶために、有権者のきびしい目を示す投票行動が必要ですね。



幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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