長州兵はどう強かったのか

 戦法のちがい

 第2次長州戦争で幕府軍の弱体ぶりをご紹介してきましたが、反対から見れば長州はなぜこんなに強かったのかということになります。

一般的には長州軍装備の優越性、なかでも全員がミニエー銃(ライフル銃)を装備していたからだとされますが、戦い方でも非常にすぐれていました。

それを実感したのはじっさいに戦った幕府軍の兵士たちです。

前回ご紹介した「福山藩某書翰抄書」にはこのように書かれています。(読みやすくするため、現代表記に改めて読み下し文にしたうえで、一部漢字を仮名にし、句読点をおぎなっています)

一行に押出し、夫れより合図にて散兵に分れ候ても、二人位ずつの打方、草木の影或いは百姓家の屋根の上などより打出し、身体顕われ申さず。
一場所より二発は打ち申さざる由、煙を目当てに打たれ候事を厭い、一発打ち候と場所をかえ、殊に立込め致さず、皆寝込めの由。
又元込めの筒を多く用い候様子の由。

山を登り、又駆下り、或いは屋根の上より打ち、ただちに飛下り候由、猿の如しと申し居り候。

又追々詰寄るに従い散兵広く散り候故、多人数の様に思い候由。

然る処御家の人数は、懸り初めは十分に散し候ても、詰寄るに従い追々すぼみ集まり候故、猶更当り候由、今更後悔間に合い申さず。

畳の上の今津流バカバカしき事と諸人申し居り候。

【「福山藩某書翰抄書」明治文化研究会『新聞薈叢』岩波書店】

現代語になおすとこんなところでしょうか。

一列縦隊でやってきた長州兵は、そこから合図で分散しても、二人位ずつの組になって射撃する、草木の陰あるいは農家の屋根の上などから撃ってくるが、身体は出さない。
同じ場所から二発撃つことはしないようだが、これは(発砲時にでる)煙を目標にして撃ち返されることを避けて、一発撃つごとに場所を変えているのだ。
とくに銃弾を込めるときは立って行わず、みな地面に伏せた姿勢のままで込めている。

また、(手元で弾丸を装填できる)元込め銃を多く使用しているらしい。

山を登り、また駆け下り、あるいは屋根の上から撃ってただちに飛び下りるそうで、まるで猿のようだったと言われている。

また、追い詰めていっても集まらず、広く散らばるので、多人数がいるように錯覚するらしい。

それなのに福山藩の兵は、攻撃当初は分散していても、敵に近づくにつれて集まってくるので、よけい敵弾に当たりやすくなっていたそうだ。

いまさら後悔しても間に合わないが。

(福山藩の兵学である)今津流は畳の上の水練のようなもので、実戦に役立たないバカバカしいものだと、(戦争に参加した者は)皆言っておった。

当時使われていた黒色火薬は発砲すると白煙がもうもうと立ちこめるため、どこから撃ったかがすぐに分かってしまいます。

そのため長州兵は一発撃つとただちに場所を移動して、反撃を回避していました。

長州兵が使用しているミニエー銃は初期のライフル銃で前装式ですから、銃口から弾丸を装填します。

つまり銃口を上にして銃を立てて上から火薬と弾丸を入れてセットするのですが、このとき兵士も立ち上がる必要があり、弾込め中は絶好の標的になってしまいます。

それを防ぐために長州兵は伏せたままの姿勢で弾丸を装填していたし、手元で弾込めできる元込め銃(シャスポー銃など)も多いようだと語っています。

また戦い方も、兵が分散すれば、狙いがはずれた敵弾が近くの味方に当たるということがなくなります。

刀や槍で戦っていた時代は密集戦法が有利でしたが、ライフル銃の戦いでは分散しても攻撃力は変わらず、的が散らばっているため防御には有利です。

長州軍がライフル銃に適した戦法をとりいれ、かつ兵士たちをよく訓練していたことがわかります。

いっぽう福山藩の戦法は古い時代の戦い方がベースになっていたので実戦に通用せず、「畳の上の今津流」と皮肉られたのでしょう。

鳥羽伏見の戦における長州兵(『戊辰戦記絵巻』より)


芸州口(広島)で大敗した彦根藩兵も、長州兵の攻撃をこのように語っています。(読みやすくするため、一部漢字を仮名にし、句読点を補っています)

長人はいつも少人数、五六百人余には余り申さず。
その上皆素肌にて稽古襦袢くらいの身軽にて、鉄砲も大体二町(一町は一〇九メートル:原注)余の所迄進み来たり、至って低く打ち候故、過半足に当り申し候。
高きはそれて土に打込む程の事也。

長人は皆伏せて打ち、伏しながら玉をこみ候様子、味方の鉄砲は残らず長人の頭上を越え申し候。

右につき、長よりの砲丸は皆当り、味方より打つ砲丸は皆空発にて用立ち申さず。

尤も味方は四五丁程隔て打つ、是れは彼に臆しての事也。

【宮地正人『幕末維新変革史 下』岩波書店:元の史料は滋賀大学経済学部付属史料館所蔵「西川吉輔文書」学芸三八「丙寅九月新聞」】

これも同様に現代文にすると、

長州兵はいつも少人数で、5~600人を超えることはない。
その上みな素肌に稽古襦袢くらいの軽装で、鉄砲もだいたい200メートルあまりのところまで進んできて、いたって低いところを撃つため、過半はこちらの足にあたる。
高いのはそれて土に(銃弾を)撃ち込む程度だ。

長州人はみな伏せた姿勢で発砲し、伏せたままで玉込めしている様子、味方の銃弾はみな長州人の頭上を越えていく。

このため、長州からの砲弾はみな当り、味方より撃つ砲弾は空中をかすめるだけで効果はない。

もっとも味方は4~500メートルほど離れて撃つ、これはあちらに臆してのことだ。

となります。

彦根藩の銃は火縄銃やゲベール銃など旧式の滑腔銃なので、有効射程距離は100メートル程度です。

つまり4~500メートルも離れたところから撃っても、殺傷力はありません。

長州兵を恐れてむちゃくちゃに撃っているだけです。

また彦根藩はあの「井伊の赤備え」、つまり赤い甲冑をまとっていたので、長州兵の軽装に驚いたようです。

しかし、この軽装には意味がありました。


ヨロイは危険

ふたたび福山藩士の感想です。

このたび畳み具足・御物入れを掛け持参候ところ、更に用立ち申さず、不益相成り候。
右の訳は、この処の戦争、刀槍の疵(きず)は一人もこれなく、みな砲丸疵のみ。
そのうち浅深これあり。

別紙の通り、脇また肛門の辺より腹中を打ち抜かれ、あるいは臍(へそ)の脇より背へ抜けられ、また背骨の肉を脇腹より打ち込まれ、脇腹皮肉に玉留まり、自分にて掘り出し候など聞くも恐ろしく、畳の上の考えにては、とても助命はあるまじくと存じ候。

いずれも追々平癒中にて近々出勤致し候様申し居り候。

しかるところ、両人ほど急所にもこれなき場所を打たれ候えども、臑当(すねあて)致し居り候につき、鎖を肉中へ打ち込まれ、場所にても掘り出し候えども残りこれあり、宅へ帰り候後尚又掘り出し候えども未だ残りこれあり候。

今次、深疵の者より平癒に手間取り、殊にたびたび苦痛を致し難儀の由。

【「福山藩某書翰抄書」『新聞薈叢』】

出陣にあたって、携帯用の甲冑である畳み具足(折りたたみ式のヨロイカブト)を持参したのですが、銃撃戦だったので役に立たなかったとあります。

そもそも甲冑は刀や槍に対する防御用ですが、ここで書かれているように長州戦争では刀槍の傷はなく、全ての傷が銃によるものでした。

報告者は、弾が腹を貫通したり、脇腹から入って肉にくいこんだ弾を自分で掘り出したなど、聞くだけで震え上がるような深い傷をおった者でも、平癒中で近々出勤できるようだと書いています。

その一方で、足を撃たれただけの者が、臑当をしていたために臑当の鎖が肉中に飛び散って入り込み、その場で掘り出し、帰宅してからも掘り出したものの一部はまだ残っていてたびたび痛み、深手を負った者より治癒に時間がかかったとあります。

つまり銃撃戦の時代においては甲冑のような金属装甲ではなく、繊維製品のみにした方が傷の回復が早くなるということです。

一寿斎芳員『甲冑着用双六』より「臑当」(国立国会図書館デジタルコレクション)

「結び目はしっかりと、締めようはゆるくするがいい。
コレサ、あんまりゆるすぎては、いかぬ、いかぬ」


以前に島津斉彬と鍋島直正が甲冑を廃止した話をご紹介しましたが、銃に対して甲冑は役に立たないばかりかむしろ有害だということが、長州戦争で証明されました。

とはいえ、鳥羽伏見の戦においても旧幕府軍の中には甲冑姿もいたようですから、有害であるという情報は福山藩内にとどまり、他藩に共有されてはいなかったようです。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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