慶喜、公家との交渉で神経過敏に
至急上京せよ
前回、家茂将軍とともに第2次征長軍の出陣式を見ていた奥医師松本良順(のち順に改名)の感想を紹介しました。
松本は佐倉順天堂(現在の順天堂大学)の開設者佐藤泰然の次男で、幕府医師の松本良甫(りょうほ)の養子となり、蘭医坪井信道についてオランダ語を学びました。
安政4年(1857)に長崎海軍伝習所でオランダ人医師ポンペによる医学伝習がはじまるとき、松本は医学伝習生となり、生徒として学ぶかたわらでポンペの助手を務めています。
彼はさらにポンペが教授する各科目の講本をすべて日本語に翻訳しており、ポンペも「人なみ優れた才能」と賞賛しています【沼田次郎・荒瀬進訳『ポンペ日本滞在見聞記』】。
文久2年(1862)にポンペが離日すると、松本は江戸に戻って幕府の西洋医学所(頭取は緒方洪庵)の副頭取に就任しました。
その松本に、京都在勤で旧知の大監察岡部駿河守(前長崎奉行)から、至急上京すべしとの手紙が届きます。
理由は一橋慶喜の急病でした。
将軍後見職の慶喜は、家茂将軍の上京にそなえて文久3年1月5日に京都に到着し、朝廷の公家たちに幕府の考えを説明していたのですが、そこで神経症を発病したというのです。
京都に着いた松本と同僚医師の石川玄貞は、到着するや否や岡部に呼び出されました。
松本の自伝『蘭疇(らんちゅう)自伝』には、その時のことがこう書かれています。
岡部曰く、慶喜公逆上甚だしく神経過敏となり、侍臣等近づくべからざるの状なり。
(中略)
公が病のかくの如きに至りしは他なし、日夜参内ありて諸公卿と議論を闘わし、方今無謀の攘夷説国家を危うするを以て、断然開国互市を通ずべきを主張し、かの頑迷を破らんと論争せられ、しばらくも寧日(ねいじつ:安らかな日)なし。因って神経過敏症を発せらるるならん、と。
予、石川と拝診してのち医局に退き、治療法を議せんとするに、石川曰く、我に妙案なし、すべて君に委ねん、と。
予曰く、大量の阿片を用ゆるの他に方法なし、と。
すなわち阿片六グレインを頓服として進むることに決したり。
ひそかにこれを岡部に告ぐるに、岡部はもと長崎にありてやや医事を解し得る者なれば、これを諾せり。
すなわち丸薬に製し頓服とし進む。
一時間を過ぎざるに公は睡眠を催され、やがて鼾声(いびきごえ)雷の如し。
【松本順「蘭疇自伝」小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』平凡社東洋文庫】
岡部が言うには、慶喜は上京して以来連日休むことなく、攘夷論にこりかたまった頑迷な公家たちと激論をくりかえしたために神経が高ぶって逆上し、家来たちも近づくことができないような状態になっているとのことでした。
神経過敏の慶喜に睡眠薬を処方
同僚の石川から治療法を一任された松本は、睡眠薬として「大量の阿片」を処方します。
1グレインは約65mgなので、6グレインだと葯390mgになります。
インターネットで見ると医薬品としてのアヘン末の用量は成人に経口で1日100mgとされていますから、松本はその4倍の量を処方しています。
それを服用した慶喜は、カミナリのようないびきをかいて深い眠りに落ちました。
徳川慶喜(国立国会図書館デジタルコレクション)
慶喜が眠ったのを見届けた松本らはいったん宿に帰り、翌朝診察にでかけますが、まだ慶喜は熟睡中でした。
翌朝拝診せんと石川と共に登殿するに、公はいまだ熟睡中なりと聞く。
因って一室にありて待つに、午後一時半に至り醒覚せらる。
これを診するに、公曰く、快く一睡して人事を覚えざりし。
ただ今少しく頭の重きを覚ゆるのみなり、と。
すなわちかの下剤を進めて寓居に帰りたり。
その翌、また伺候せしに、公欣然として曰く、我が病すでに全く癒ゆ。
自今来診に及ばず。
将軍の着京せらるるまでは随意に優遊すべし。
もし微恙あらんには速やかに招くべし、と。
すでに公より暇を賜いければ、無為消光に困(くる)しむこと一月余なりし。
嗚呼(ああ)この時局艱難に当たりて、長袖輩無頼の浪士等に教唆せられ、みだりに鎖国攘夷を主張す。
英明慶喜公の弁論なかりせば、我が国いかなる境遇に陥りしや知るべからず。
実に思えば寒心肌粟のことなりき。【松本前掲書】
ぐっすり眠って回復
午後1時半になってようやく起きた慶喜は、「夢も見ずに気持ちよく熟睡できた、ただ少し頭が重い」と言いました。
そこで松本は、準備しておいた下剤を渡して宿にもどりました。
その次の日、また慶喜の診察に出たところ、
「病気はすっかり治った、もう診察に来なくていい。
もし少しでも症状が出たらすぐ呼ぶから、将軍が京都に到着するまで好きなようにあそんでいてくれ」
と言い渡されました。
本来は家茂将軍の侍医として将軍につきそって上京するはずでしたが、緊急の呼び出しで将軍に先立って京都にやって来たのです。
用件が片付いたためすることがなくなり、将軍到着までの1ヶ月あまりの間時間を持て余して困ったそうです。
現状を理解できない公家に立腹
松本は、
「外国の圧力で国難にさらされている時期だというのに、長袖輩(公家のこと)が浪士にそそのかされて、みだりに鎖国攘夷を唱える。
英明な慶喜公が説得しなければ、我が国がどのような境遇におちいるかわからない。
それを考えると、ぞっとして鳥肌が立つ」
と嘆いています。
冒頭に書きましたが、松本は長崎でオランダ医ポンペの助手を務めていましたから、当時の日本の武力では西洋に対抗できないことを熟知しています。
なので、攘夷派の浪士に扇動された公家たちが慶喜に無理矢理鎖国攘夷を押し付けようとすることをいきどおり、慶喜が彼らを説得できず対外戦争に発展すれば日本が大変なことになると心配しているのです。
斉彬は松本とも親密
島津斉彬は江戸生まれの江戸育ちで、大名や幕吏、学者などさまざまな階層の人たちと交流がありました。
史料には斉彬の交際についてこのように書かれています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、句読点を加えて、漢字の一部を平仮名にかえています。原文はこちら)
ご親交ご交際の弘きこと、当時の大小侯に比(たぐい)なかりしという。
その人々ことごとく一能一芸あるか、あるいは識見卓越名望ある、当時有名なる人士なりしという。
【「一一二 御懇交ノ大小侯及ヒ有名ナル人士交際セラレシ人名」『鹿児島県史料斉彬公史料第三巻』133頁】
斉彬は大名どうしのつきあいでもまじめな話しかしなかったそうなので、交流した相手は当時一流の見識ある人ばかりでした。
斉彬と親密な交際先のリストをみると、学者のなかでは洋学者(その多くは蘭方医)が多く、そこには「松元(本の誤記)良順」の名前も書かれています。【「一四一 有名ノ人士ニ声息ヲ通セラレシ事実」『鹿児島県史料斉彬公史料第一巻』152頁下段後から3行目に松本の名前】
松本は天保3年(1832)生まれですから文化6年(1809)生まれの斉彬から見ればふた回りも年下になります。
斉彬は若い松本をかわいがっていたようで、斉彬の親友だった宇和島藩主伊達宗城が島津家の事蹟調査のために訪れた寺師宗徳にこう語っていました。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、句読点とカギ括弧を加えて、漢字の一部を平仮名にかえています)
予、当(明治21年)夏、大磯海水浴場に至り居りしに、松本順来たれり。
一日同人に会し、談たまたま順聖公(斉彬)の遺事に及ぶ。
予曰く、「足下は順聖公の愛護を受けたる人なり、必ず御出入中に深きご趣意なり伺われたることあらん、承りたし」と問いたりしに、
同人曰く、「勿論のことなり、公の御恩恵無量、更に忘却せざるなり、また種々伺い置きたることも多し、かつて先年何某の頼みにより一旦御遺事を取調べ書出せしことあり」と申せり。
同人の調書等見たることあるや。
【「島津家事蹟訪問録 故伊達従一位(宗城)ノ談話」『史談会速記録 第176輯』】
宗城が大磯で松本に会ったとき、たまたま斉彬の話題になって、「君は斉彬公に可愛がられていたから、出入りしているときに公の深いお考えなど聞かれただろう、私に教えてほしい」と言いました。
そうすると松本は、「もちろんです。公の御恩ははかりしれず、忘れたことなどありません。色々伺ったことも多いので、先だって誰それの頼みで一回書き出したことがあります」と語ったそうです。
寺師は宗徳から、「松本の書いたものを見たことがあるか?」と聞かれたので、「戸塚文海氏の所蔵文書は見たことがあるが、松本氏の分は見当たらないので、同氏に面接して尋ねたい」と答えています。
ここで言われている松本の記録については、残念ながら『史談会速記録』には収録されていません。
何が書かれていたのか、気になるところです。
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