井伊の赤備え
第2次長州戦争の先鋒は徳川四天王の井伊・榊原
これまで5回にわたって鳥羽伏見の戦いについてのべてきましたが、それ以前にも幕府軍が大規模な戦闘に及んだことがありました。
慶応2年(1866)の第2次長州戦争です。
ここで注目されるのが幕府軍の陣立てで、なんと戦国時代の徳川軍と同じでした。
先鋒を命ぜられたのは「井伊の赤備え」で名高い井伊家(彦根藩)と、榊原康政を家祖とする榊原家(越後高田藩)です。
いずれも徳川四天王を家祖とする譜代の名門ですから、徳川軍の先鋒としてのネームバリューは絶大です。
旧幕臣の戸川安宅(残花)は、陣立て発表時の高揚感をこう書いています。
其の一の先手を命ぜられたるは、赤鬼の勇名を史上に轟かしたる井伊直政の末なる井伊掃部頭と、同じく驍名を鳴らしし榊原小平太の裔(すえ)なる榊原式部大輔なりき。
敵も味方も先ず両藩の勇名に耳目を聳動(しょうどう:おどろかす)せしめられ、此度は長州も全く征服せられ、将軍の御動座までもなく、総督紀伊中納言殿の御手にて徳川家の御武名は再び海内に震動せむと心に頼みし者も少なからざりき。【「長州再征 上」戸川残花『幕末小史』人物往来社 幕末維新史料叢書】
天下に知られた徳川四天王である井伊と榊原の両軍が先鋒となるからには長州藩はすぐに征服されるので、大坂城にいる家茂将軍がみずから出陣するまでもなく、総督で紀州藩主の徳川茂承(もちつぐ)によって徳川家の武名が日本中にとどろきわたるだろう、と期待した人が少なくなかったとのことです。
幕府軍は出陣の前に大坂で大規模な操練(軍事訓練)を実施しました。
当時老中だった宮津藩主本荘宗秀に側近として仕えていた河瀬秀治が、明治35年の史談会でこのような話を披露しています。(読みやすくするため、句読点とカギ括弧をおぎなっています)
大坂へ御親発になりまして、将軍家の操練がございました時に、主人(本荘宗秀)も「拝見いたせ」と申附ましたから私も拝見いたしましたが、帰ってから「あれで戦が出来ようか」と申されました。
【河瀬秀治「宮津藩攘夷時代より征長事変に至る国事鞅掌の顛末附十八節」『史談会速記録 第119輯』】
河瀬によれば宮津藩の軍隊は当時すでに西洋式を採用していたとのことで、「長州征伐の時分には一藩残らず甲冑を着て居る者は一人も無い」と語っています。
当時としては先進的な軍隊をもっていた宮津藩主の目から見て、幕府軍の訓練は「あれで戦争が出来るだろうか」というレベルでした。
同様の見解をいだいた人物はほかにもいます、幕府の奥医師だった松本順(良順)です。
井伊の赤備えはもぬけの殻
松本は家茂将軍附きの医師として大坂城に来ており、将軍のそばで幕府軍が長州征討のために出陣する様子を見ていました。
そのときの様子を、自伝にこう記しています。
三百年前の例に従うて、江州彦根の城主井伊掃部頭を以て先鋒とす。
その出陣の日、将軍家は近侍の者を従えて城楼にあり、濠を隔ててその行軍を観る。
予(松本)もまた扈従(こじゅう:貴人の供をすること)中にあり。この時彦根の総軍四百名、慶長中甲州より帰従せし者にして、かつて武田家に用いたりし赤装の具を着したり。
これ往時関ヶ原の役、直政に従い奮闘し、赤鬼と称せられし者の裔(すえ)にして、井伊家においては自負するところの者なるが、数百年の泰平恐らくは「モヌケ」の殻にして、その外形を存するのみならん。
兵士将卒一も戦気あるを見ず。
その状諸侯が平日の行列にも及ばず。
予思わず失笑して曰く、かくの如き軍隊に当たるに洋式歩兵の一中隊を以てせば優に勝を制すべし、彼等必ずその背部を銃弾せられて斃(たお)れんのみ、この輩をして先鋒となすはかえって全軍の敗を誘い来たさん、笑止なるかなと、大声これを嘲罵せしかば、その翌、例の如く出仕せしに、扈従野村丹後守予を呼べり。
何事なるやとその局に至れば、野村厳然語って曰く、卿昨日君側に侍し、井伊の行軍を嘲ること、君上に対し礼を失すること甚だし、以後慎むべし、と。
予曰く、君等戦の勝敗を意とせざるか、何ぞ迂闊の甚だしき。
我謂(おも)うに、数日を出でずして必ず戦報あらん。
もしその時予が言の如くならざれば、百拝頓首その失言を謝すべし。
君乞う、数日を猶予せよ、とてその場を去りたり。
【松本順「蘭疇自伝」小川鼎三・酒井シヅ校注『松本順自伝・長与専斎自伝』平凡社東洋文庫】
松本良順(国立国会図書館デジタルコレクション)
出陣式では戦国時代の先例にしたがい(!)赤い鎧兜に身をつつんだ井伊家の軍勢が先頭にたって行進しましたが、まったくやる気のない様子で、他大名のふだんの行列にもおよばないひどさだったため、松本は思わず失笑して、将軍の側にいることをわすれて大声であざけりました。
「こんな軍隊なら洋式歩兵一中隊(210人)あれば簡単に勝てる。
彼らはすぐ逃げ出すだろうから、背中から撃たれてたおれるだけだ。
こんな連中を先鋒にすれば相手が勢いづいて全軍が敗れてしまう、笑止千万だ」
翌日、松本がいつものように出勤すると、将軍側近の野村丹後守から呼び出されました。
野村は松本に向っておごそかに、
「君は昨日上様のそばにいるときに井伊の行軍をあざけったが、あのような行為は上様に失礼だから以後慎むように」
と申し渡します。
これに対して松本は、
「あなたがたは戦の勝敗が気にならないのか、認識不足もはなはだしい。
私の考えでは数日内に戦の結果が分かるだろうから、もしその時に私の言ったことが間違っていたならば、百回でも頭を下げて謝る。
それまで数日待ってほしい」
と言ってその場を去りました。
松本は長崎の海軍伝習所でオランダ人医師のポンペの助手をつとめ、明治6年(1873)には初代の陸軍軍医総監となった人物ですから、井伊軍の行軍の様子だけで「こんな軍隊なら、洋式歩兵1中隊で簡単に勝てる」と見抜いたのでしょう。
じっさいその通りの展開になってしまいました。
井伊軍、いきなり惨敗
幕末・明治の随筆家で旧尾張藩士の小寺玉晁が編集した『連城漫筆』には、「尾州詰芸藩へ国許よりの文通摘要」としてこのような記事があります。(分かりやすくするため、書き下し文にして句読点をおぎなっています)
戦争始まり、防州方より前後取り巻き大砲小銃をもって攻めかけ相戦い候ところ、瞬念の間に両家(井伊・榊原)大敗軍。
(中略)前代未聞の事、防州わずかに四五百人の人数、官軍(幕府軍)両家にて一万人位はこれあるべきか。
衆寡敵しがたしと云う事もこれあるべき筈、しかるにこの一戦大敗走、残念至極この事なり。
ことさら大砲、船、兵粮、機械などに至るまで悉く捨て置き逃げ去り敵方の物となり、井伊家には砲器なくては再戦は出来まじく、前代未聞見苦しき事。
【小寺玉晁『丙寅連城漫筆 第1』日本史籍協会】
防州というのは長州軍のことで、ここでの官軍は征長の勅命を受けた幕府軍つまり井伊・榊原連合軍です。
正確な人数は分かりませんが、井伊・榊原軍が圧倒的に多かったことは間違いありません。
それが「瞬念の間」、つまりまたたく間に大敗北してしまいました。
武器・弾薬・兵粮までみな放り出して逃げ、全部敵に取られてしまうという、前代未聞の見苦しい負け方です。
松本の予言が的中しました。
野村、将軍に叱られて松本に詫びる
さて、さきほどの松本の話には続きがあります。
のち野村また予を呼べり。
すなわち面するに、曰く、昨夜戦地より敗報あり、君の予言の如し。主公、予に前日の言を順に謝すべしとて大譴責を蒙りたり、依って謝す、と。
予はこれを聞くや、君上の公明に感泣したり。
【松本前掲書】
井伊軍の大敗北が伝わった翌日、野村は松本を呼び出して、
「昨日、戦地から敗北の連絡が届いた、君の予言した通りだ。
上様から私に、『この前言ったことを(松本)順にわびろ』と大目玉を食らったので、謝る」
と詫びたのです。
松本はこれを聞いて、家茂の公明さに感泣しました。
第2次長州戦争さなかの7月20日、家茂は脚気衝心(かっけしょうしん)で亡くなります。
まだ21歳の若さでした。
治療がおよばなかった松本はさぞや残念だったことでしょう。
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