薩摩兵1名=旗本10名

気位だけで戦意なし 

 前回、鳥羽伏見の戦いにやぶれて江戸に帰った徳川慶喜が、「あの旗本の家来を使って、薩長の武士に向って戦さが出来るか」と語った話をしました。

じっさいのところはどうだったのか?

そのころの旗本の様子について、さまざまな証言が残っています。

まずは、京都に向って出発する前のようすです。

京都御進発の時が、お旗下の御家内(おうち)は騒ぎでした。

私のおりましたお旗下では、数寄屋町の芸妓を招(よ)んで、御別宴が張られました。

戦争(いくさ)てい訳でもないんですから、いいようなものの、罷り間違って、戦争になるかも知れない御供立(おともだち)で、芸妓を呼んで、騒いでいるんですから、幕府の負けになったのも、無理がないことです。

【「とりまぜた維新前後」 篠田鉱造『幕末明治 女百話(上)』岩波文庫】

これは旗下(旗本)の屋敷に奉公していた女性が、明治になってから話したものです。

「罷り間違って戦争になるかも知れない」「京都御進発」というのは、慶応元年(1865)5月に将軍家茂が第2次長州戦争のために江戸を出発したときのことだと思われます。

出発前の壮行会に芸者を呼んでドンチャン騒ぎしているのを見て、奉公に上がっていた町人の娘があきれたという話です。

大久保一岳 『諸侯登営之図』(部分 国立国会図書館デジタルコレクション)


戦いの準備より三味線のおさらい

江戸を出た旗本たちは拠点となる大坂城に入りましたが、江戸の情勢しか知らなかったので、幕府の威光を過信していました。

かれらは、将軍が旗本を引き連れて出てきたからには、長州などは戦わずに降伏するだろうと勝手に思い込んでいたようです。

明治27年の史談会で、幹事の寺師宗徳・富田猛次郎と旧幕臣の坂本柳佐の間に、このようなやりとりがありました。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点とカギ括弧をおぎなっています)

(寺師)いったい幕府の旗本などの平日の行跡はどんなもんです。

(坂本)どうも、ただ奢っておるばかりで、稽古は馬の稽古とか弓の稽古とかで、あとは三味線の稽古のような処に廻るものが多かったです。

(寺師)聞くところによると、将軍が長州征伐に出発になる際に、旗本の人々が三味線その他の物をご持参で、大阪に行って御復習(おさらい)をしたという話です。

(富田)家茂将軍の大坂にご滞在の時、御小姓組番頭島津久次というがありました。
そうすると、将軍より甲州口に進めという――先に行けという命令が下った。

そうしたところが、島津伊予守がいうには、「御小姓組は旗本兵だ、決して御先手なんぞに行くべきもんではない」と言った。


それで、到頭それが出来なんだと言って自慢に話されたことがありました。
【坂本柳佐「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(一次)附四十九節」『史談会速記録 第23輯』】

長州との戦争に出陣する前だというのに、三味線のおさらいとはひどい話です。

富田の話にある「甲州口」というのは、幕府軍が長州に攻め入った芸州口の間違いだと思われますが、出動命令に対して「自分たちは将軍直属だから、(将軍のそばにいるので)先鋒など務めない」と、拒絶したことを自慢していました。

大阪城天守閣(2023年7月 ブログ主撮影)


これから戦を始めるというのに三味線の稽古というのは、いくらなんでもウソだろうと思いましたが、高崎正風も西郷隆盛から聞いた話として、明治28年の史談会でこんな話を披露していました。(読みやすくするために一部を当用漢字もしくは平仮名に改め、句読点を加えています)

それから大坂在陣の旗本などを見れば、飲食の小言をいったり、三味線などひいておるやら、宿屋の妻女を犯すやら、懶惰(らんだ:なまける、めんどうくさがる)極まった形勢であったから、ひとたび事があらば天下の事は幕府の自由にならぬというところを卜(ぼく)したのであった。
【高崎五六・高崎正風「高崎男(五六)国事鞅掌に関する実歴附四十九節」『史談会速記録 第42輯』】

これで戦争に勝てると本気で思っていたのなら驚きです。


物見遊山気分で出陣

当時の旗本のいいかげんさは、幕府の身内からもあきれられています。

幕府直轄領であった甲州の蘭方医の息子でのちに英文学者となった永峯秀樹は、当時京都に修行に来ていたのですが、このような話をしています。(読みやすくするために一部を当用漢字もしくは平仮名に改め、句読点とカギ括弧を加えています)

京都にいる時、ある日内藤(氷川)先生の弟御が、将軍御進発に付添い、京地に見えていました。

長州再征の説もあって、江戸から付添って来た旗本連中です。

これを奥詰重隊と称しました。

いずれも何百石の旗本衆ですから、さだめし武張った、鉄砲をみがき立て、刀剣を光らかし、今にもあれ、イザ出陣となれば君の御馬前に功名手柄せんと、多分その話で持切っているものと思い込んで訪問に及ぶと、何ぞ計らん、その人々――貴族的兵隊は、長州征伐どころか、いずれも顔を集めて、「京の名物何々ぞ」、「針がよい」「イヤ紅がよい」「扇子を土産にせん」「羅紗を買って参ろう」と、互いに江戸表の土産話に憂き身をやつしていました。


これでもう幕府も末路だと、わたしはがっかりしました。


【永峯秀樹「腐れ行く幕府」 同好史談会編『漫談明治初年』春陽堂】

永峯は「アラビアンナイト」を日本ではじめて翻訳したことでも知られていますが、若いころは軍人志望でした。

永峯のいう「奥詰重隊」というのは「奥詰銃隊」の誤記で、この奥詰銃隊は第二次征長の敗戦後、慶応2年(1866)の軍制改革で新設されたものですから、永峯が訪れたときは単に「奥詰」と呼ばれていたはずです。

「奥」に「詰」める、つまり将軍の親衛隊で、エリート部隊です。

幕府のエリートたちのこのような様子を目の当たりにしては、幕府軍を志望する永峯が「幕府も末路だ」とがっかりするのは無理もありません。


西郷の計算、旗本10人で薩摩兵1人分

この旗本の弱さが決定的に露呈したのが戊辰戦争でした。

鳥羽伏見の戦いは幕府軍1万5,000人に対し、薩長はわずか4,000人ほどでした。

にもかかわらず、なぜ西郷は無謀な戦いを始めたのか、その理由は旗本の弱さを西郷が見抜いていたからです。

高崎正風が西郷から聞いたという話を、寺師宗徳が明治27年の史談会で紹介しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点とカギ括弧をおぎなっています)

正風は鹿児島に帰されて、そうして地頭などになって、明治三年に鹿児島で西郷に逢って始めて聞かれしに、西郷は事情を言って聞かせた様子。

(中略)

(高崎)「薩摩の兵は大阪を一ヶ月も扼せられると死んでしまうのである、それにどうして相敵するものと見たか。

敵は二三万も居り、幕府の威勢も未だ地に落ちぬから、令を下す時は旧来の大名も附く。

然るにあーいう軍(いくさ)をして、勝つ見込みは」

というと、


(西郷)「それは長州二度目の征討の時に成算を立てた。


歩兵や彼此の兵は戦うに足るけれども、その他の兵は眼中に置くに足らぬ。


幕府の兵十人に我兵一人の算盤を立てて、行けるという決心を立てた」


ということを、明治三年に及んで始めて高崎男(爵)に言われた様子。

【富田猛次郎「慶応三年佐土原藩上京の始末附十七節」『史談会速記録 第29輯』】

高崎は、大阪湾が幕府艦隊に制圧されて補給も出来ない状態で、かつ彼我の戦力差を考えると、とうてい勝ち目のない戦だったのになぜ開戦を決意したのかと西郷にたずねました。

すると西郷は、第2次長州戦争のときに、歩兵(幕府歩兵隊)や彼此の兵(一部の藩兵)は戦力にカウントできるが、その他は無視できるから、幕府の兵10名に対し薩摩兵1名で互角と計算して、戦えると決心した、と答えたのです。

じっさい、鳥羽伏見の戦いでは、幕府軍は戦力差を活かせず単純な攻撃に終始して、みじめな敗北を喫しました。

まさに西郷の計算通りとなったわけです。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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