幕末の旗本

旧例古格の呪縛

 最後の将軍となった徳川慶喜は、慶応2年(1866)12月5日に15代将軍に就任し、慶応3年の10月15日に大政奉還して将軍の座をしりぞきました。

在任期間は約10ヶ月です。

慶喜が将軍の座についたときにはすでに幕府は倒れかかっていましたが、そのような状況でも幕臣たちは旧例古格の呪縛から抜け出すことができませんでした。

前回のお話で、藤井甚太郎は慶喜が「皆旧例古格を盾にとって自分の言うことが行なわれなかった」と嘆いたことを紹介していました。

しかし、旧例古格を擁護する人物もいます。

旧幕臣で明治時代にはジャーナリストとして活躍した福地源一郎(桜痴)は、著書『幕府衰亡論』でこのように書いています。(読みやすくするために一部を当用漢字もしくは平仮名に改め、句読点を加えています。原文はこちら

そもそも幕府の如き保守制度の組織においては、その貴ぶ所は制度格式の典礼を最も厳重に保守して、あえてこれを紊乱(びんらん)せざるにあり。
幕府が老松の樹心全く朽腐となるも、なお枝葉鬱々として、蒼龍の外形を存せるが如くなりしは、この制度格式の効力に頼れるものその多きに居たり。
しかるを今や、幕府は兵制改革のために、取捨存廃の境線を識別するの活眼なく、軽挙躁進をもって鋭意の進取なりと思い誤り、すべての政治上において旧典先例を破却するをもって、繁文を除き、簡易を得るものとみなしたれば、その改革の行なわるるとともに、幕府の威望は加倍の速度をもってますます地に落つるに至れり。

【「第二十八章 家茂公薨御 慶喜公嗣立」福地源一郎『幕府衰亡論』】

福地は、「幕府のような保守的組織において重要なことは制度格式の典礼を厳重に守って、乱さないことが重要だ」と規定し、

幕府を老松に例えて、「樹木の芯が腐っても、なお枝葉がしげって、あたかも龍のような形に見えるのは、この制度格式の効力によるものである」とした上で、

「それなのに今や幕府は兵制改革のために、何を捨てて何を残すかを識別する眼を持たず、軽率に進歩だと誤解して、すべての決まりや先例を捨て去り簡略化したために、幕府の威信は加速度的に低下して地に落ちることとなった」と嘆いています。

老松 『以呂波引月耕漫画 』より(国立国会図書館デジタルコレクション)



兵制改革

福地が批判している「兵制改革」とは、文久2年12月に発布した「兵賦令」と軍隊の西洋化のことです。

幕府は500石以上の知行を有する旗本に対し、その知行高に応じた人数の兵卒を提供するように命じました。

人数は500石が1人、1000石は3人、3000石だと10人と累増します。

各旗本はそれぞれの知行地の住民から、年齢が17歳~45歳で壮健の者を選んで差し出せとの指令です。

同じ旗本でも、知行地を持たず米の現物支給を受けている「蔵米取」については、金納を命じられています。

この制度によって創設されたのが「幕府歩兵隊」ですが、これによってそれまで武士が武力を独占してきた兵農分離の原則は有名無実化しました。

福地は、軽率にこんな制度を作ったから幕府の威信が低下したと言いたいようですが、果たしてそうでしょうか。

新しい制度がつくられるということは、それまでの制度が現状に適応できなくなったからです。

つまり幕府の兵制が現状にそぐわなくなってきたために、新制度にしなければやっていけなくなったということです。

新制度では兵を歩兵・騎兵・砲兵の三兵種にわけ、歩兵はすべて銃装とされました。

ここで思い出していただきたいのは、「飛び道具は卑怯なり」という言葉です。

武士らしい武器とは刀・槍・弓で、鉄砲は足軽のような身分の低い者が扱うものだと思われていました。(ただし島津家は別で、戦国時代から上級武士も自分の鉄砲を持っていました)

そこに攘夷思想で夷人の武器・戦法を軽蔑する傾向が加わり、新兵制で洋式戦法の訓練にまじめに取り組む武士はごく少数でした。

兵制改革を行なったものの、徴募された歩兵たちを指揮するべき階層(=旗本)の意識改革は難航していたようです。


旗本は遊び人になっていた

俗にいう「旗本八万騎」は、幕府の正規軍を指します。

旗本というのは将軍直属の家臣のうち石高が1万石未満かつ将軍に直接拝謁(御目見得:おめみえ)できる資格を有する者で、総数としては5,000人強でした。

戦争になれば、各旗本はそれぞれの石高に応じて戦闘員となる従者を随行させることが定められているので、兵員数は大幅に増加します。

それらの従者や、徳川の家臣だが御目見得資格のない「御家人(ごけにん)」たちをあわせて旗本八万騎と称しました。

5,000人の旗本は御家人や従者など身分の低い大勢の兵士を指導する、徳川軍の将校です。

しかし、平和な時代が200年以上もつづくと、この将校たちは「ふぬけ」になってしまったようです。

3000石の旗本出身で、明治には戸川残花という筆名で多くの書物を著した戸川安宅(とがわ やすいえ)が、明治43年の史談会でこのような話をしています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点とカギ括弧をおぎなっています)


後に御老中になりました立花種恭(たちばな たねゆき)というお方の直話でありますが、伏見の戦が終って、前将軍が江戸城へお帰りになった時に、立花さんが年が若いから「戦をしよう」と申したときに、慶喜公が、「あの旗本の家来を使って、薩長の武士に向って戦さが出来るか」と言われた。
立花さん一言も無かったので、已むを得ず退いたということであります。
(中略)
昔は長州では山県公爵(有朋)の様な、昔は身分の低い者がそういうことをやったが、それは山口では行なわれる、薩摩では行なわれるが、徳川氏では行なわれぬ。
(中略)

それでは旗本の家来というものはどういうことをしたかというと、矢張り剣術は使いました、中々花やかな一刀流の剣術を使いました。

漢学は論語位の素読も致しました、柔術も致しました、調練も調練場へ行って致しました。

けれどもそれは只形式に流れて居りますから、一向に士気を励ますことは無い。

平生の生活の有様はどうかというと、揚屋の二階で女を相手に菓子を食って遊んで居る。

そうして端歌でも唄うか、都々逸でも唄って居るという風であるから、たとい書物を読みました所で、剣術を使いました所で、何の役にも立たぬ。

それが徳川の旗本八万騎の家来だ。

【戸川安宅「幕末軍隊の状況に関する件」『史談会速記録 第239輯』】


戸川は最後に、

「幕府の倒れましたのは必然の勢で、兵制を改正しようということは出来ないのであります。

陸軍の制度が大変書物には立派に書いてありますが、実行が出来ませぬことであります」

と語っています。

つまりせっかくの兵制改革も「絵に描いた餅」だったということでしょう。

戸川は慶応4年(1868)8月に家督を継いでいますが、その年の9月8日に元号が明治に改まりましたので、まさに維新の最中に旗本となったわけです。

家督を継いだのが13歳の時ですから、旗本の実態をどの程度見聞していたのかは分かりませんが、明治30年(1897)から34年まで『旧幕府』という雑誌を発刊して幕府に関する史料や旧幕臣の談話を掲載していますので、知識は豊富でした。

戸川が言うように、足軽出身の山県有朋を騎兵隊の隊長にした長州や、最下級の城下士だった西郷隆盛を全軍の司令官に任命した薩摩と異なり、幕府には優秀な下級武士を大抜擢する仕組みは存在しませんでした。

慶喜が「あの旗本の家来を使って、薩長の武士に向って戦さが出来るか」と言ったように、幕末の旗本は戦士というよりも遊び人といったほうがふさわしい人たちだったようです。

身分制に守られて何もせずに高給が得られるなら、社交のルール以外に学ぶべきことはなく、遊び人になってしまうのは当然です。

福地が重きを置いた「制度格式」は、時代の変化に対応できず、幕府の滅亡を招きました。


幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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