久光、朝廷に米一万石を献上(1/2)
幕府は大名の朝廷支援を許さず
前回、沢渡広孝の話は朝廷の窮乏を見かねた島津久光が米一万石を献上したことに関連して述べられたと書きました。
今回はその一万石献上の話です。
そもそも徳川幕府は大名の反乱を恐れていたので、大名が朝廷と直接接触することをかたく禁じていました。
したがって、朝廷が金欠で困っているとわかっていても、大名が朝廷を支援することは幕府が許さなかったのです。
その例として、旧土佐藩で山内容堂に仕えた細川潤次郎が明治26年の史談会で語った、容堂が朝廷に1万両の献金を申し出て幕府から却下された話をご紹介します。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)
(容堂が)家督を取られて間もなく重役の者に申しつけるには、
「ドウか朝廷に献金を致したい」、
それからその重役の者が「如何ばかりの金をお差出になる事であるか」と申すと、
「まず一万両、それ位なら格別他に影響を及ぼす(=藩の運営に支障がでる)ような事もあるまいから、それだけを献じて朝廷の費用を助け奉りたいものである」
ということを当時の重役に申し聞けられまして、
(中略)
江戸表におきまして、詰合の重役よりして、そのころの老中へ内々をもちましてその事を申し立て、
(中略)
日ならず老中の方からその重役を呼寄せられまして、
「さて、かねて御願立の事は詮議を致して見たけれども、何分旧例の無い事」、
幕府の時代は、一にも旧例、二にも旧例、三にも旧例と言って、いかように道理のある事も旧例の無いことは行なわれぬで、これもやはり「無旧例」の三字を以て拒絶を致されました。
【細川潤次郎「山内豊信侯朝廷へ献金に及ばんとせし事実附三節」『史談会速記録 第13輯』】
容堂が土佐藩主となったのは嘉永元年(1848)12月ですから、これは嘉永2~3年(1849~1850)頃の話かと思われます。
細川によれば、老中に拒絶された容堂は、それ以上願い出ることはせず献金をあきらめたとのことです。
晩年の容堂は人の意見を聞かない強情者でしたが、若い頃(藩主になったのは22歳)はそうでもなかったようで、老中に却下されるとあっさり引き下がりました。
山内容堂(国立国会図書館デジタルコレクション)
久光、一万石の献米を厳命
容堂の願出から10年ほどのちの文久2年(1862)、島津久光は大原重徳に随行して江戸に行き、幕府に一橋慶喜と松平春嶽の登用を認めさせました。
そして江戸から帰る途中に生麦事件を起こしていちやく攘夷のヒーロとなってしまい、京都に呼ばれて大歓迎され、無位無官なのに朝廷に昇殿して孝明天皇から剣を拝領するという望外の厚遇を受けます。
久光はこの京都滞在中に薩摩藩京都留守居役の本田親雄から朝廷の苦しい台所事情を教えられ、心を痛めました。
それで京都を立ち去るとき本田に、薩摩藩から朝廷へ1万石献米することを認めてもらうようにと厳命します。
旧薩摩藩出身で史談会幹事の寺師宗徳が明治31年の史談会で、本田親雄から直接聞いたという話を披露しています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)
久光公もこれらの書類を見られて、いかにもそのお手薄なるに驚嘆せられて、
「この如きは、我々身分の暮らし向きにも朝廷の御暮らし向きが及ばせられぬというは恐れ入ることである。
この如き御内情であれば何をかはばかることあらん、朝廷のお凌ぎになるような事をせねばならぬ」
ということで、米穀献上ということに決定を致しましたのであります。
もっとも、「この事は幕府で前例旧格の沙汰もあろうが、このご事情を伺いたる以上はいかなる難事があろうとも是非とも遂げるようにせよ、このことは汝に堅く命ずる」
ということであって、久光公は出発、神戸に赴かれたので、本田男(爵)においても委細その命を拝して、男は願書を作り、これを持参して第一近衛家に参ってその手続等を紹介(原文のママ)に及んだ様子でござります。
近衛家においてもその事柄はご満足なるも、容易にお引受がむずかしかったご様子で、それは幕府の余威のある際でござりますから、前例のなきことを許すことになれば必ず幕府よりの面倒も起ころう、どうしても一身でやるわけにいかぬということで、伝奏議奏の議に懸けられても何分むずかしい。
けれども男は久光公より、
「いかなることがあるとも遂ぐべし」
という厳命を受けてあるから朝に昼に近衛家へ参りて、寸隙のないように、必死となって迫られた。
【寺師宗徳「本田親雄男島津家より朝廷へ米壱万石献納の事に付尽力せられし事実附十一節」『史談会速記録 第68輯』】
土佐藩が献金しようとしたときは老中に却下されてあきらめましたが、久光は幕府が認めないことを前提にして、本田に「どのような困難があっても、かならずなし遂げよ」と厳命したので、本田が必死になって朝廷の有力者かつ島津家の縁戚である近衛家に日参して陳情したのです。
久光は大原重徳に随行して江戸で幕府とハードな交渉を行なっていますから、幕府の出方を理解していたのでしょう。
容堂のように直接江戸の老中に願い出る様なことをせず、近衛家を動かして、朝廷から許可をもらうという作戦に出ました。
その前に天皇の命令という形で幕府のトップ人事に介入することに成功していますから、同じパターンで献米を認めさせようとしたのです。
朝廷にとってはありがたい話ですが、幕府の反発を恐れた近衛家は難色を示します。
「伝奏議奏の議に懸けられても、なにぶんむずかしい」というのは、朝廷の会議に諮っても実現は困難という見解だったのでしょう。
しかし、久光の厳命をうけた本田は、死にものぐるいで近衛家と交渉しました。
寺師は「後には男(本田)は近衛家へ詰切りて催促を申された様子」と語っていますから、「認めてくれるまではここを動きません!」というような交渉だったのでしょう。
この本田の死にものぐるいの態度が功を奏して、ついに近衛家が本腰を入れて動き、一万石献米について孝明天皇の勅許を得ることができました。
(次回につづく)
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