天皇の家計は火の車
朝廷の経費は物価上昇を反映させず
前回は家斉将軍が天皇のご要望があれば自分の手元金を使って応じていただけでなく、在世中は毎月天皇が好まれそうな品やおいしい食べ物をプレゼントしていたという話を紹介しました。
なぜ将軍の手元金を使っていたのかというと、幕府が定めた朝廷の予算が少なかったからです。
以前「殿様は食べ物も前例踏襲」で説明したように、天下泰平を至上命題とする江戸時代でもっとも重視されたのは「変化させないこと」でした。
幕府が負担している朝廷の経費にも当然この考え方が適用され、経費予算は昔定めた金額のまま据え置かれていました。
しかし、時代とともに物価は上昇していきます。
その結果、朝廷のやりくりは年々厳しくなっていき、家斉が気づかった光格天皇の孫である孝明天皇のころにはひどい状態になっていたようです。
当時のようすを、朝廷の下級官吏出身で史談会会員の沢渡広孝が明治26年の史談会で次のように語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
その時は御手薄いものでござりました。
あるとき所司代酒井若狭守(酒井忠義)をば呼寄せて、岩倉公(具視)より天子(孝明天皇)の御膳をお示しになったことがあります。
その御膳は如何様結構なもので、鯛の御焼物もあらば山海の珍味もあります。その珍味もありますけれども、鯛一枚が幾ら、一寸に幾らというもので、その時の一尺の鯛一匹が三匁位なものである。
京都は魚の乏しい所で、三匁位では鯛は食えぬ。
十日も二十日も経った塩の辛い鯛を附けまして、時の物で召し上がるものは一皿附けてありますが、若狭守に見せたら、酒井は涙をこぼして箇様に恐れ入ったものである。
穿鑿をして見れば昔の安永時代の組立てで、誠に手薄いものでござります。
【沢渡広孝「島津久光公朝廷に米一万石を献納ありし事実附十三節」『史談会速記録 第13輯』】
沢渡の話は、文久2年(1862)に島津久光が朝廷の窮乏を見かねて米一万石を献上したことに関連したものなので、そのころのことでしょう。
物価は上昇しているのに幕府の定めた予算が90年前の安永時代(1772~1781)から変わっていないので、天皇の御膳に出す鯛は品質の悪い安物しか買えなくなっており、それを知った酒井所司代が涙を流したという話です。
ただし、寺院などからの献上品は良い品だったようで、御所の勘使兼買物使をしていた旧幕臣の坂本柳佐が明治27年の史談会でこのように語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
よく本願寺などから献じまするのはほんとうのよい鯛で、生のまま切り身にて御用になりました。
御用達から上がる物はよい鯛は上げられません。
【坂本柳佐「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(二次)附四十八節」『史談会速記録 第24輯』】
摂家一条家の家臣で幕末から明治の宮廷の様子を語り伝えた下橋敬長(しもはし ゆきおさ)の談話速記『幕末の宮廷』(平凡社東洋文庫)には、天皇の食事に「鯛のつかぬことは一日もございませぬ」と書かれています。
どうやら天皇の食事では鯛を毎日出すことになっていたようですが、予算がないのでよい鯛が買えなかったということです。
孝明天皇肖像(京都大学付属図書館所蔵)
孝明天皇のお酒は水七分に酒三分!
さきに述べたように、予算が抑えられていたことから、孝明天皇の召し上がっていたものはあまりよろしくなかったようです。
坂本の史談会での質疑応答はこうでした。
(寺師宗徳)御膳の御規則通りに御供えになるには、どういうお料理でした?
(坂本柳佐)それは煮くさらかして仕舞うといった調理の為し方です。
我々が立会いました検分の上で上げるから、温かい物を上がるという訳には行かんでした。
(岡谷繁実)何でもお肴は臭いというお話でしたが、如何でありましたか?
(坂本)そうばかりでもござりません、京都は以前はあまり鮮しい魚は無い処でしたから‥‥。
(寺師)酒井若狭守の所司代の際に、留守居の三浦七兵衛とかいう人がお酒を献上した書き付けがある。
その際に幕府から献上の御酒というものは誠に召し上がるに堪えないもので、斯様なものでもお前達は飲めるかといって瓶に入れて寄来した。
それを主人若狭守に三浦が持出した処が、水七分に酒三分というお酒であった。
誠に恐れ入る、けれども幕府の事みな先例彼れ是れがあるに由て、これからは私が内献をするといって若狭守から献上することになって、御満足に思し召されて、三浦なる人に御懐中を賜ってという事があります。
(坂本)あれは些っとの功があると御紙入を下さる事がある、私供も拝領致した事がありました。
それで随分夜になると酒を勝手次第にお役人が飲んで、私共も幾分かお台所に居りましたから、残余を賜るというので善い酒を飲んで居りました。
予算が足りないから、品質が悪い魚を使うだけでなく、孝明天皇のお好きな酒も水でうすめたひどいものを出していたようです。
あまりにひどいことを知った所司代の酒井忠義が、「先例遵守のために幕府の予算は変えられないから、天皇の召し上がるお酒は自分が内献(個人的に献上)する」として、ようやく良い酒が出されるようになったとのことです。
御所の役人たちが、その内献された良い酒をこっそり飲んでいたというのは問題ですが、いかにもありそうな話です。
京都守護職松平容保の進言でようやく増額
天皇の食事に心を痛めていたのは幕臣だけではありません。
京都守護職を拝命して、孝明天皇に親しく接していた会津藩主の松平容保もこのような実情を知って幕府に働きかけ、それでようやく予算が増額になりました。
旧会津藩士で維新後は東大教授も務めた南摩綱紀(なんま つなのり)が、明治28年の史談会でこう語っています。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)
この時分、誠に恐れ入った事共でござりまして、幕吏の方では威勢を以て京都の方を押え付けるという事が主になって、陛下のお供御の定額を限りてあります。
それは昔の値段で定めたものであります。
この時分になっては、昔とちがって諸品の値段が高くなって、その定額ではお召し上がりになるようなものをお供えにする事が出来ぬ時勢であるのを、やはり旧の通りで改めぬ。
因りて、幕府より上京して御所の方の係りを勤むる者は、誠に涙を流して、召し上がり物を上げたいというので、幕府へ言って遣るけれども、勘定方、閣老方は、これまで旧例があるから「そうならぬ」と言って来る。
そこでお箸がつかずして下る事が多くして、御奥で差上る物を召し上がるという形勢になって居る。
それ故、京都の有志の者は大いに憤った事であります。
その上に、公卿は貧乏で困り、旧幕の役人は富んで居る。
彼れ是れに恨み骨髄に徹して居るところ故、益々浪士の説が公卿方に能く行なわるる様になりました。
その後供御の定額を止めて、何でも時の相場を以て諸品を買い上げるようにということを旧主(松平容保)に言うて、ようやく召し上がられる物を上げることの出来るようになりました。
【南摩綱紀「旧会津藩国事鞅掌に関する事蹟附二十三節」『史談会速記録 第47輯』】
冒頭で述べたように、幕末は諸物価が急騰しているのに朝廷の予算が昔のまま据え置かれていたため、孝明天皇の食膳にちゃんとしたものを出すことが出来なくなっていました。
京都守護職となって御所の実情を知った南摩は、幕府から御所に出向している役人が、孝明天皇にちゃんとした食事をお出ししたいと泣いて訴えるのに、勘定奉行や老中が旧例遵守にこだわって、これを拒絶していたことを伝えています。
その結果、天皇は御所の台所方でつくった膳には箸をつけず、女官の手料理を召し上がっているというありさまになっていました。
これを知った京都の志士たちは大いに憤ったと南摩は語っています。
そうして、会津藩士達からも物価上昇に合わせた予算に変更させることを藩主の松平容保に進言し、容保が幕府を動かして予算を増額させ、ようやく天皇の食事が改善されたとのことです。
厳しい予算で音をあげていたのは天皇の食事だけではありません。
公家たちも貧窮していました。
そのような不満が溜まっていたために、浪士らが吹き込む反幕府の言説が公家たちの賛同を集めることとなったのです。
幕末は朝廷と幕府が対立したために国内が乱れますが、もし家斉将軍が行なっていた天皇への気づかいを幕府が続けていれば、このような対立は避けられたかも知れないと思ってしまいます。
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