家斉将軍、天皇を気づかう

毎月のプレゼント

 前回、宮家から天皇になった光格天皇が父親を太上天皇とする許可を幕府に求めたのに、老中松平定信がこれを拒絶した真の理由は、傍若無人な将軍の実父を大御所にさせないためだったという話を紹介しました。

御三卿から将軍となった家斉は、実父一橋治済が原因で光格天皇の要請を却下せざるをえなかったことから、天皇に申し訳ないとの思いを強く抱いていたようで、天皇にさまざまな気づかいを示しています。

その例として、幕末に京都守護職を務めた旧会津藩士の秋月胤永(かずひさ:旧名悌次郎)が、明治32年の史談会で語った話をご紹介します。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、句読点をおぎなっています)

文恭院(=家斉)という御方はよほど発明な方で物の見える方であるによって、あの御方の御在世中は毎月毎月観てお慰みになる物や、又食べて宜しい物などを春夏秋冬どころではなく月々長持に幾棹も献じられましたが、トントそれは御内献であります。
【秋月胤永「幕府勅使待遇ニ関スル因由附四節」『史談会速記録 第91輯』】

将軍が「献じる」相手は天皇しかありません。

つまり家斉が存命中は毎月、天皇が好みそうな品物やおいしい食べ物を長持に何棹も献上していたということです。

家斉は天明6年(1786)に14歳で将軍に就任し、天保8年(1837)に将軍の座を二男家慶にゆずって大御所となり、天保12年(1841)に亡くなっています。

この間の天皇は光格天皇(在位:1779~1817、1840没)と仁孝天皇(1817~1846)になります。

ちなみに、幕末史の主役の一人である孝明天皇は仁孝天皇の第4皇子で、弘化3年(1846)仁孝天皇の崩御により践祚されました。

話を戻します、尊号一件が発生したのは寛政元年(1789)で、処分が行なわれたのが寛政5年(1793)でした。

まだ若かった家斉は、光格天皇に申し訳ないという気持ちがあったのでしょう。

秋月が「御内献」といっているのは、幕府からではなく将軍が自分のポケットマネーで内々にプレゼントしていたということです。

これは旧幕臣で御所の勘使兼買物使(かんづかい けん かいものづかい:会計や物品調達をおこなう下級幕吏)として勤務していた坂本柳佐も同じことを証言しています。

明治27年の史談会で坂本はこう語っていました。(読みやすくするため現代仮名づかいにし、漢字の一部を平仮名にかえて、カギ括弧と句読点をおぎなっています)

文恭院殿の頃まではよほど京都とは御親しく御文通もあったようです。
そのころの書き物を見ますると、天皇陛下が祇園の祭礼の時山車(だし)を南門において御覧なされる事がある。
その小さい形を拵えると云うお好みがあって、伝奏より所司代に達しますると、その所には京都町奉行と御入用取調役、それから御所の御附(おつき:幕府の御所駐在責任者)即ち禁裏附との内に御取締掛りという加役があって、それらが評議を致して、追々御自儘の御仰出され実に際限も無いから、「御沙汰及ばれ難い」と云う事を伝奏に達したら宜かろう、併し一応江戸表へ仰遣され、「否御返書の趣を以て伝奏衆へ御達し然るべし」というきまり文句の評議を書いて出しました。


そうすると「別紙の通り申し立たからよろしく御評議なさい」と云って所司代が閣老若年寄に宛てて寄来しますると、御右筆所より勘定奉行へ達して、評議の末、御取締掛りの見込み通り所司代より伝奏へ達しになる。

その時は既に文恭院からそのお好みの品が立派に製して進ぜられてあった。

そこへ「御沙汰及ばれ難い」と云っても肝要の品が先に進ぜられて居ると云う風でした。


かく表面は御取締の主旨は立ち、裏面にはお好み通り御満足、皇室尊敬の道も重く、百事行届きたる御仕向けでした。

【坂本柳佐「坂本君伏見戦役に従事せられたる事実(二次)附四十八節」『史談会速記録 第24輯』】


坂本が見た「書き物」というのは幕府側の記録でしょう。

天皇が祇園祭の山車を南門で御覧になったとありますが、記録者は幕臣でおそらく江戸出身でしょうから祇園祭の山鉾を山車と書いたものと思われます。

現在の祇園祭では山鉾巡行は御所から少し離れた御池通で行なわれますが、コースはたびたび変更されているので、江戸時代には御所のそばを通っていたのかも知れません。

いずれにせよ、山鉾を御覧になった天皇が「その小さい形」つまり模型を所望されたということです。

伝奏から天皇が山鉾の模型を欲しがっていらっしゃると伝えられた京都所司代では、在京の関係者が集まって協議した結果、天皇のわがままをいちいち聞いていたのではきりがないから、「御沙汰及ばれ難い(=ご希望には添えない)」と回答しようという結論になりました。

ただ、江戸にも伝えた上で回答するのが原則ですから、「このようなご要望があったので、拒絶すべきだと思いますが、そちらで評議してください」と江戸に連絡しました。

そうすると老中の書記官である右筆所から経費を所管する勘定奉行に連絡が行き、勘定奉行の方であらためて協議した上で、「京都の結論通りでよい」との回答が所司代に伝えられました。

ここで重要なのは家斉将軍の動きで、京都所司代から御所の窓口となる伝奏に回答が伝えられる前に、天皇のお望みの品が将軍からプレゼントされていたということです。

天皇の希望する品がまず将軍から届けられ、その後に所司代から「ご希望には添えません」との回答が来るという順番ですから、天皇のご希望はすでに達せられています。

幕府としては天皇の希望といえどもルール通りに形式的な判断を下して体面を保つ一方で、天皇の方も実質的に要求が通っているので不満はありません。

幕府と天皇の両方の顔が立つ仕組みになっていたわけです。

秋の京都御所(ブログ主撮影)


原資は将軍のポケットマネー

史談会では天皇にプレゼントする品の費用負担についての質問がでました、たずねたのは歴史学者の岡谷繁実(おかのや しげざね)です。

(岡谷繁実)それは何処から出たのですか、文恭院殿の御品を廻すと云う義は如何でありますか。
(坂本柳佐)それは御手元金です、閣老が勘定奉行に言い付けて御細工所にてその品を製し、文恭院殿より進ぜられ、そのあとで伝奏より「申立られの方は御沙汰及ばれ難し」という達しになった。

坂本は、費用の出所は将軍の御手元金、つまりポケットマネーだと答えています。

老中から勘定奉行に指示が出て、幕府の細工所でお望みの品が作られ、家斉将軍からといって献上されます。

天皇の手許にご希望の品物が届いたあとで、伝奏から「お申し出の件は却下されました」と伝えられるのです。

推測ですが、家斉将軍は光格天皇に申し訳なかったというお詫びの気持ちから、自分のポケットマネーを使って天皇に喜んでもらおうとしたと考えると、一連の行動が腑に落ちます。

おそらく家斉は老中に「天皇からのご要望はすべて伝えるように」と指示していて、京都への回答も将軍からの贈り物が届いたあとで行なうように計らっていたのでしょう。

家斉はこれらを存命中ずっと続けていたようです。

しかしそれはあくまでも家斉の個人的感情から出た私的な行為で、公式に行なわれたものではありませんでした。

したがって、家斉没後は後継将軍である家慶に引き継がれることなく、立ち消えになってしまいます。

前述の秋月はこう語っています。

そこで大御所様でございますネー、お果てになるとサッパリ、それが元表向に来たんでないから、やめてしまった。
それによって最初たびたび幾棹も献じられる節は、公家の輩もそれぞれ御分配もあって下さったものである。
そこで何やらどうも嬉しく思われ不足に思わないから、トント物論が更になかった。

そういう所へ来て、又その外国船の事などがあって京都へも伺わず、勝手な計らいをしたなどということがあって、色々むずかしくなった。

かねて私も聞いた話であります。

「表向きに来たんでないから」というのは、「公式なものではなかったので」という意味です。

それで没後は「サッパリ」「やめてしまった」ようです。

家斉時代は天皇あてに毎月さまざまなものが届けられるので、公家たちにもおすそわけがあって皆喜んでいました。

こういう配慮があったので、朝廷と幕府の関係は良好でした。

しかし、家斉没後はそれがすべてなくなってしまいました。

幕府としては、あれは家斉の私的な行為で幕府が行なったものではないから、やめても問題はないと考えたのでしょう。

しかし、ずっともらい続けていた方からすると、そう簡単な話ではありません。

とはいえ、あくまでも好意によるものでしたから、贈り続けろと要求することもできません。

幕府の京都窓口である所司代も困ったようで、坂本がこのように語っています。

その後というものは、お好みのお品は進ぜられず、「御沙汰に及ばれ難し」というばかりで、公武隔絶の姿となり、所司代は随分困っておりました。

家斉在世中は天皇の希望する品が届いたあとで幕府から拒絶の回答が来ていましたから不満は出なかったのですが、没後は品物は届かず拒絶するだけになったので幕府と朝廷の友好関係がなくなり、所司代がずいぶん困っていたということです。

プレゼントがもらえなくなった天皇や公家たちにフラストレーションがたまり、それが幕府に対する反感となって、幕末の緊迫した朝幕関係につながっていったというのは考えすぎでしょうか。

幕末島津研究室

幕末島津家の研究をしています。 史料に加え、歴史学者があまり興味を示さない「史談(オーラルヒストリー)」を紐解きながら・・・ 歴史上の事件からひとびとの暮らしまで、さまざまな話題をとりあげていきます。

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